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立岩真也「書評:萱野稔人『カネと暴力の系譜学』」
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書評しょひょう萱野かやのみのるじん『カネと暴力ぼうりょく系譜けいふがく

立岩たていわ しん 20070301 『ろん』2007-3:308-309
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  ちからつよひとたちが、そのちからによって、人々ひとびとにいうことをきけという。それとひきかえに、他人たにんたち(の暴力ぼうりょく)からはまもってやるとう。(自分じぶんたちが支配しはいすることは、自分じぶんたち以外いがい支配しはいはいすることだから両者りょうしゃはつながっている。)すると、人々ひとびとは、いやおうなく、あるいはしぶしぶ同意どういして、支配しはいされ、ぜいはらう。それとともになにがしかはる。国家こっかとはそんなものだ。それはヤクザにている。まずざっと、このことがわれる。
  たしかに、歴史れきしてきにもきっとそんなことだったのだろうとおもう。徳川とくがわなにがしにしてもだれにしても、そんなふうに「天下てんか統一とういつ」をたしたということなのだろうとおもう。よくわかる。そして、国家こっか政府せいふ)の、その時々ときどきのヤクザ、「非公式ひこうしきエージェント」の使つかかただとか、そんな部分ぶぶんがとてもおもしろい。
  さて、それで国家こっかなぞはとけたのかである。ひとつの論点ろんてんは、ほう問題もんだい合法ごうほうせい問題もんだいなのだが、これはこれですこしんだはなしになるはずなので、りゃくそう。ここではもうひとつ、すこしずかしくもあるのだが、とてもたりまえはなし、「国民こくみん主権しゅけん」というのはどうなるのだろうといういから。
  もちろん、民主みんしゅせいであろうがなんであろうが、依然いぜんとして国家こっか暴力ぼうりょくはいする暴力ぼうりょく装置そうちであることはたしかである。ここまではよい。(このことにもがつかないひとがいるとしたら、このほんはそのひとたちには効能こうのうがあるということだ。)
  そのうえで、以上いじょう当然とうぜんのことの確認かくにんわらないとしたら、なにくわわっているのか。国家こっかはヤクザみたいなものだとおもとき、ようするにそれは暴力ぼうりょく装置そうちだという理解りかいと、もうひとつ、そうしてやつらは利益りえきているのだという理解りかいと、ふたつある。前者ぜんしゃはそのとおりとしてここでは後者こうしゃ。 たとえば商店しょうてんがいひとたちがあつまり用心棒ようじんぼうやとうという状況じょうきょうがある。そうした場合ばあいには用心棒ようじんぼう支配しはいしゃのようではなくなる。そしてこれは虚構きょこうではない。たかだか多数決たすうけつ程度ていどのものであるとしても、民主みんしゅせいは、国家こっかのそもそもの歴史れきしてき成立せいりつとはべつに、政治せいじてき決定けってい決定けってい機構きこうとを否定ひていしたり改変かいへんしたりすることができるという意味いみでは現実げんじつ存在そんざいする仕組しくみである。
  しかし、実際じっさいにはやはり支配しはい主体しゅたいとしての国家こっかがあるようにおもい、だから、このほん共感きょうかんをもってまれる。とすると、合意ごういがあって維持いじされているはずであることと、みずからの利益りえき保持ほじ拡大かくだいしようとする支配しはいしゃがいるという感覚かんかく現実げんじつとがどうつながるのか。
  とかんがえてくると、これはまったく国家こっかろん古典こてんてきいになってくる。つまり、特殊とくしゅ利害りがい貫徹かんてつされているにもかかわらず、全体ぜんたいの(そこそこの)同意どうい<0308<が得られているようなものとして存在してしまっているのはなぜか、どんな仕組みでそうなっているのかが問題になる。
  決定けってい執行しっこうかかわるひとたちが様々さまざま利益りえききょうする部分ぶぶんとつながっているのも事実じじつだろう。行政ぎょうせい機構きこう複雑ふくざつする隙間すきまきなことを云々うんぬん、といったはなしもある。政治せいじがく本道ほんどうはなしになる。
  あるいは、幻想げんそうとかイデオロギーとかそんなこともえそうだ。すると、マテリアルなところから国家こっかとらえようというこのほんはなしは、国民こくみんという神話しんわ云々うんぬんというはなしとも接合せつごうする。(筆者ひっしゃだいいちさく国家こっかとはなにか』ではだいろくしょう関係かんけいするのだが、やはり、ここではりゃく。)
  さて、それでよかったのだろうか、とおもう。よいのかもしれない。そこがわたしには判断はんだんがつきかねるところだ。まずは国家こっか暴力ぼうりょくせいをきちんとようということでよいのかもしれない。ただ、わたし自身じしんは、それはそのとおりだとおもったうえで、そして特殊とくしゅ利害りがい合意ごういようする体制たいせいのもとでかよってしまう具体ぐたいてき因果いんが調しらべてすのはべつひとにやってもらうことにして、べつのことをかんがえようとおもってきた。。
  つまり暴力ぼうりょくるのかとかんがえた。むろん条件じょうけんによるのだが、るとおもう。では、そのことは合意ごういによって正当せいとうされた暴力ぼうりょくである場合ばあいえるのか。そうともかんがえない。(みなの納得なっとくずくでないとものごとをめないというかたであっても、あるいはそういうかたがあるからこそ、十分じゅうぶん抑圧よくあつてきであることがあるはずである。)以上いじょうから、同意どういもとづかない強制きょうせいがあってもよいという――ひとによったらあぶないとおもうかもしれない――はなしに、わたし場合ばあいは、なる。
  さてそういうはなしとこのほんはなしとは接合せつごうするのだろうか。ヤクザもヤクザを使つか国家こっかてくるし、暴力ぼうりょく悪役あくやくてきである。ただ、著者ちょしゃ自身じしんはそのようにだんじてはいない。暴力ぼうりょくせいでもよこしまでもないとうかもしれない。ただそうすると、だれかが人々ひとびと誤魔化ごまかして暴力ぼうりょく悪用あくようしているという、それはだれかというさきの古典こてんてきいにもどることになる。(これはとても大切たいせついである。誤解ごかいなきよう。)
  また著者ちょしゃは、国家こっか資本しほんとを「人々ひとびとはたらいた成果せいかをみずからのものとしていあげる」ものと規定きていする。わたしは、げること全般ぜんぱんがわるいことだとおもわないのだが、著者ちょしゃはどうおもうのだろう。あるいは(たぶんわないとおもうのだが)ことの是非ぜひ問題もんだいではないとうのかもしれない。しかしだとしたらなにっていることになるのか。
  著者ちょしゃはあとがきで、あたらしさとかで思想しそうのよしあしをってもらいたくない、カネと暴力ぼうりょくのことをかんがえねばならないとう。まったく賛成さんせいだ。カネと暴力ぼうりょく問題もんだい大切たいせつだ。流行はやりすたりは関係かんけいない。たりまえはなしでもただしいはなしはある。ただ、このほんについては、意外いがい穏当おんとうわくなかおさまっているようにおもえた。著者ちょしゃ正面しょうめんから理論りろんてていくことを志向しこうするのだが、ならば、もっともとのところから、ときにはもっと暴力ぼうりょくてきに、かんがえてもよいのではないか。そうおもった。

萱野かやの みのるじん 20061130 『カネと暴力ぼうりょく系譜けいふがく河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ,224p. ISBN-13: 978-4309243955 ASIN: 4309243959 [amazon] ※


UP:20070214[りょう:20070122] REV:
国家こっか  ◇書評しょひょうほん紹介しょうかい by 立岩たていわ  ◇立岩たていわ しん
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