(Translated by
https://www.hiragana.jp/
)
立岩真也:質的心理学会 奈良大会シンポジウム
HOME
>
Tateiwa
>
質
しつ
的
てき
心理
しんり
学会
がっかい
奈良
なら
大会
たいかい
シンポジウム
20070930 於:
奈良女子大学
ならじょしだいがく
2007/09/30
質
しつ
的
てき
心理
しんり
学会
がっかい
奈良
なら
大会
たいかい
シンポジウム 14:45〜17:30
聞
き
くこととしての
時間
じかん
――
生
い
きた
時間
じかん
の
記述
きじゅつ
於:
奈良女子大学
ならじょしだいがく
講堂
こうどう
■
立岩
たていわ
真
しん
也
・「
学問
がくもん
的
てき
なこと」はほぼよしにして、
2
ふた
つのことを
・
記録
きろく
することについて
必要
ひつよう
であること。
意義
いぎ
あることであること。しかし
例
たと
えば「
生活
せいかつ
史
し
」
研究
けんきゅう
(
等
ひとし
)のみながおもしろいわけでもないこと。
・
書
か
き
換
か
えてしまえばよい
時間
じかん
/
解決
かいけつ
しない
時間
じかん
一貫
いっかん
性
せい
について
背反
はいはん
について
cf.
立岩
たていわ
真
しん
也 2007/11/25
「『
母
はは
よ!
殺
ころ
すな』・2」
(
医療
いりょう
と
社会
しゃかい
ブックガイド・77)
『
看護
かんご
教育
きょういく
』48-11(2007-11):-(
医学書院
いがくしょいん
)[
了
りょう
:20070928]
>TOP
◆
案内
あんない
テーマ:
聞
き
くことの
時間
じかん
−
生
い
きた
時間
じかん
の
記述
きじゅつ
以下
いか
、
森岡
もりおか
正芳
まさよし
氏
し
より(2007.5)
時間
じかん
が
量
りょう
で
計
はか
られることの
意味
いみ
とその
限界
げんかい
をふまえたうえで、
質
しつ
的
てき
心理
しんり
学会
がっかい
が
率先
そっせん
して
取
と
り
組
く
むべきテーマは
時間
じかん
の
質
しつ
についてである。これはあまりにも
大
おお
きく
根源
こんげん
的
てき
すぎるテーマであるが、
果敢
かかん
に
取
と
り
組
く
んでみよう。
時間
じかん
の
質
しつ
と
量
りょう
という
対比
たいひ
について
多
おお
くの
人
ひと
は、エンデの『モモ』という
作品
さくひん
を
思
おも
い
起
お
こすであろう。モモは
時間
じかん
どろぼうとたたかう。
時間
じかん
どろぼうは
人々
ひとびと
に
時間
じかん
を
節約
せつやく
することを
勧
すす
めながら、
相手
あいて
の
時間
じかん
を
奪
うば
い
取
と
る。
彼
かれ
らにとって
時間
じかん
は
単純
たんじゅん
集計
しゅうけい
で
数値
すうち
化
か
され、
均一
きんいつ
的
てき
にコントロールされる。モモは
時間
じかん
を
取
と
り
戻
もど
すためにどういう
方法
ほうほう
を
採
と
ったのだろう。モモはひたすら
聞
き
くことによって、
時間
じかん
どろぼうとたたかう。
聞
き
くことが
生
い
きた
時間
じかん
を
生
う
むことにつながる。
さまざまなフィールドで
人
ひと
に
接
せっ
し、
支
ささ
えながら、
実践
じっせん
研究
けんきゅう
者
しゃ
はどのような
点
てん
を
考慮
こうりょ
しまた
迷
まよ
いつつ、
生
い
きる
時間
じかん
へとはいっていくのだろう。
最前線
さいぜんせん
の3
人
にん
のシンポジストたちから、
工夫
くふう
の
一端
いったん
をご
紹介
しょうかい
いただき、この
難問
なんもん
に
接近
せっきん
する
手
て
がかりを
得
え
たい。
◆
案内
あんない
森岡
もりおか
正芳
まさよし
氏
し
より(2007.7)
聞
き
くこととしての
時間
じかん
−
生
い
きた
時間
じかん
の
記述
きじゅつ
企画
きかく
・
司会
しかい
森岡
もりおか
正芳
まさよし
(
神戸大学
こうべだいがく
)
話題
わだい
提供
ていきょう
江口
えぐち
重幸
しげゆき
(
東京
とうきょう
武蔵野
むさしの
病院
びょういん
)
立岩
たていわ
真
しん
也
(
立命館大学
りつめいかんだいがく
)
辻本
つじもと
昌弘
まさひろ
(
東北大学
とうほくだいがく
)
T
量的
りょうてき
時間
じかん
と
質的
しつてき
時間
じかん
時間
じかん
は
論
ろん
じにくいテーマである。このシンポジウムでは
時間
じかん
の
体験
たいけん
とその
再現
さいげん
表象
ひょうしょう
化
か
、
言語
げんご
との
関係
かんけい
について
考
かんが
えてみたい。
日常
にちじょう
の
体験
たいけん
でも、カレンダーや
時計
とけい
によって
区分
くぶん
され
決定
けってい
される
量的
りょうてき
な
時間
じかん
だけでなく、もう
一
ひと
つの
時間
じかん
の
次元
じげん
、
内的
ないてき
な
体験
たいけん
の
時間
じかん
がある。
後者
こうしゃ
を
質的
しつてき
な
時間
じかん
としておこう。
時間
じかん
の
表象
ひょうしょう
はふつうは
量的
りょうてき
時間
じかん
をモデルにしている。
計測
けいそく
可能
かのう
で
過去
かこ
から
現在
げんざい
、
未来
みらい
へと
流
なが
れる
直線
ちょくせん
的
てき
時間
じかん
イメージである。
内的
ないてき
な
体験
たいけん
の
時間
じかん
はそのようなイメージではとらえられない。むしろ
妨
さまた
げになる。たとえば
感動
かんどう
の
瞬間
しゅんかん
は
量的
りょうてき
な
時間
じかん
単位
たんい
でははかれない。
静止
せいし
した
永遠
えいえん
をイメージする
場合
ばあい
もある。
印象
いんしょう
に
残
のこ
る
体験
たいけん
には
感情
かんじょう
が
含
ふく
まれる。
情動
じょうどう
体験
たいけん
(emotional experience)を
記述
きじゅつ
に
乗
の
せようとするときに、ひときわ
困難
こんなん
な
課題
かだい
に
直面
ちょくめん
する。
情動
じょうどう
体験
たいけん
の
時間
じかん
は、
直線
ちょくせん
的
てき
計測
けいそく
的
てき
時間
じかん
性
せい
とは
異質
いしつ
のものである。まさに
質的
しつてき
な
時間
じかん
が
体験
たいけん
されるわけで、その
体験
たいけん
の
再現
さいげん
表象
ひょうしょう
において
記述
きじゅつ
の
質
しつ
が
問
と
われる。
記述
きじゅつ
のなかに
時間
じかん
はどのようによみがえるのか。そしてできれば
記述
きじゅつ
が
新
あら
たな
時間
じかん
体験
たいけん
を
生
う
んでほしい。
もちろん
生活
せいかつ
の
上
うえ
で、
質的
しつてき
な
時間
じかん
をとらえるという
試
こころ
みは
自然
しぜん
に
行
おこな
われてきた。
計測
けいそく
的
てき
時間
じかん
は
近代
きんだい
の
制度
せいど
的
てき
時間
じかん
として
圧倒的
あっとうてき
支配
しはい
力
りょく
を
持
も
っているが、その
一方
いっぽう
でたえず
批判
ひはん
のまな
板
いた
にのせられてきた。
私
わたし
たちはこのような
近代
きんだい
時間
じかん
と
折
お
り
合
あ
いをつけざるをえないが、
計測
けいそく
され
得
え
ない、
生
い
きている
時間
じかん
を
忘
わす
れてはいけない。
時間
じかん
が
量
りょう
で
計
はか
られることの
意味
いみ
とその
限界
げんかい
をふまえたうえで、
質
しつ
的
てき
心理
しんり
学会
がっかい
が
率先
そっせん
して
取
と
り
組
く
むべきテーマは
時間
じかん
の
質
しつ
についてである。
時間
じかん
の
質
しつ
と
量
りょう
という
対比
たいひ
について
多
おお
くの
人
ひと
は、エンデの『モモ』という
作品
さくひん
を
思
おも
い
起
お
こすであろう。モモは
時間
じかん
どろぼうとたたかう。
時間
じかん
どろぼうは
人々
ひとびと
に
時間
じかん
を
節約
せつやく
することを
勧
すす
めながら、
相手
あいて
の
時間
じかん
を
奪
うば
い
取
と
る。
彼
かれ
らにとって
時間
じかん
は
単純
たんじゅん
集計
しゅうけい
で
数値
すうち
化
か
され、
均一
きんいつ
的
てき
にコントロールされる。モモは
時間
じかん
を
取
と
り
戻
もど
すためにどういう
方法
ほうほう
を
採
と
ったのだろう。モモはひたすら
聞
き
くことによって、
時間
じかん
どろぼうとたたかう。
聞
き
くことが
生
い
きた
時間
じかん
を
生
う
むことにつながるのである。
臨床
りんしょう
や
障害
しょうがい
に
関
かか
わるセラピーやサポートのプロセスをともにするとき、
成長
せいちょう
変化
へんか
を
待
ま
つ
時間
じかん
は、
孵化
ふか
(incubation)によくたとえられるように、しんぼうのいる
時間
じかん
である。
治療
ちりょう
の
転機
てんき
に
関
かか
わる
問題
もんだい
はセラピーの
基本
きほん
的
てき
な
着眼
ちゃくがん
点
てん
であり、またセラピーの
面接
めんせつ
の
初回
しょかい
にその
後
ご
のセラピーの
様々
さまざま
な
要因
よういん
を
予
よ
示
しめせ
的
てき
に
圧縮
あっしゅく
した
形
かたち
で
現
あらわ
れるとはよくいわれる。
孵化
ふか
というメタファはまた
創造
そうぞう
や
発見
はっけん
に
関
かか
わる
時間
じかん
の
特徴
とくちょう
を
表
あらわ
すことにもよく
用
もち
いられる。
このような、
時間
じかん
にともなう
性情
せいじょう
の
質的
しつてき
な
変化
へんか
についてはさまざまなモデルが
作
つく
られてきた(カタストロフィ
理論
りろん
散逸
さんいつ
構造
こうぞう
論
ろん
オートポイエーシスほか)。しかしモデル
化
か
はあくまで
説明
せつめい
にとどまる。
体験
たいけん
している
時間
じかん
や
生
い
き
生
い
きとした
現在
げんざい
はモデルによっては
表象
ひょうしょう
にのってこない。
U
同所
どうしょ
把
わ
住
じゅう
は
言葉
ことば
になるのか
質的
しつてき
時間
じかん
の
記述
きじゅつ
に
言葉
ことば
は
数
すう
と
違
ちが
ってどのような
特徴
とくちょう
を
持
も
つのだろうか。
情動
じょうどう
体験
たいけん
に
関
かか
わる
記述
きじゅつ
について、さらに
考
かんが
えてみよう。
感情
かんじょう
の
生活
せいかつ
は
非
ひ
線条
せんじょう
的
てき
である。
臨床
りんしょう
場面
ばめん
でなじみ
深
ふか
いアンビバレント、
相反
あいはん
する
感情
かんじょう
の
同時
どうじ
併存
へいそん
という
状態
じょうたい
など
非
ひ
線条
せんじょう
性
せい
そのものである。
感情
かんじょう
は
色調
しきちょう
に
模
も
されるように、
色彩
しきさい
のグラデーションのごとく
勾配
こうばい
性
せい
をもつが、
言葉
ことば
は
中間
ちゅうかん
の
移
うつ
り
行
い
きを
述
の
べるには
都合
つごう
のいいものではない。
言語
げんご
活動
かつどう
はカテゴリー
性
せい
の
情報
じょうほう
(うれしいかうれしくないか)を
扱
あつか
うのに
長
た
けているが、
内的
ないてき
な
感情
かんじょう
状態
じょうたい
は
勾配
こうばい
性
せい
をもつ(すこしうれしい、あるいはとてもうれしい)。
勾配
こうばい
情報
じょうほう
を
扱
あつか
うには
言葉
ことば
は
不都合
ふつごう
である。 ところが
日常
にちじょう
の
対人
たいじん
関係
かんけい
で
決定的
けっていてき
な
情報
じょうほう
はむしろ
勾配
こうばい
性
せい
をもつ。この
矛盾
むじゅん
をどのように
解決
かいけつ
したらよいだろうか。
漱石
そうせき
は『
草枕
くさまくら
』のなかで
主人公
しゅじんこう
に
以下
いか
のように
語
かた
らせている。
「
余
よ
が
嬉
うれ
しいと
感
かん
ずる
心裏
しんり
の
状況
じょうきょう
には、
時間
じかん
はあるかもしれないが、
時間
じかん
の
流
なが
れに
沿
そ
うて、
逓次
ていじ
に
展開
てんかい
すべき
出来事
できごと
の
内容
ないよう
がない。
一
いち
が
去
さ
り、
二
に
が
来
きた
り、
二
に
が
消
き
えて
三
さん
が
生
う
まるるが
為
ため
に
嬉
うれ
しいのではない。
初
はつ
から
拗
こじれ
然
しか
として
同所
どうしょ
に
把
わ
住
じゅう
する
趣
おもむ
きで
嬉
うれ
しいのである。すでに
同所
どうしょ
に
把
わ
住
じゅう
する
以上
いじょう
は、よしこれを
普通
ふつう
の
言語
げんご
に
翻訳
ほんやく
したところで、
必
かなら
ずしも
時間
じかん
的
てき
に
材料
ざいりょう
を
按排
あんばい
する
必要
ひつよう
はあるまい。やはり
絵画
かいが
と
同
おな
じく
空間
くうかん
的
てき
に
景物
けいぶつ
を
配置
はいち
したのみでできるだろう。」
言葉
ことば
は
一
ひと
つの
口
くち
からは
線条
せんじょう
的
てき
、
継起
けいき
的
てき
に
発
はっ
さねばならない
制約
せいやく
がある。ところがある
強
つよ
い
感情
かんじょう
の
体験
たいけん
は
同
おな
じところに
凝縮
ぎょうしゅく
して
存在
そんざい
している。これを
言葉
ことば
に
置
お
きなおすとそこに
時間
じかん
を
要
よう
するがために、
元
もと
の
体験
たいけん
を
変形
へんけい
せざるをえなくなる。むしろ
絵画
かいが
造形
ぞうけい
表現
ひょうげん
のように、
空間
くうかん
的
てき
に
材料
ざいりょう
を
配置
はいち
するほうが
元
もと
の
体験
たいけん
を
損
そこ
なわずにすむというのである。
情動
じょうどう
体験
たいけん
の
記述
きじゅつ
については
言葉
ことば
よりも
絵画
かいが
造形
ぞうけい
の
方
ほう
が
体験
たいけん
の
特性
とくせい
になじむ。
V
聞
き
くこととしての
時間
じかん
このように
時間
じかん
体験
たいけん
の
表象
ひょうしょう
化
か
において
言葉
ことば
は
難点
なんてん
を
有
ゆう
しているが、
私
わたし
たちは
質的
しつてき
研究
けんきゅう
において
言葉
ことば
の
可能
かのう
性
せい
を
開拓
かいたく
することをもとめられている。その
手
て
がかりをいくつかあげてみたい。
1「
過去
かこ
・
現在
げんざい
・
未来
みらい
の
含蓄
がんちく
は
私
わたし
の
頭
あたま
の
中
なか
でちゃんと
形式
けいしき
のととのったことばの
形
かたち
になっているわけではありません。むしろそれは
私
わたし
に
何
なに
かしら
緊張
きんちょう
を
強
し
いる
要素
ようそ
として
私
わたし
の
中
なか
に
存在
そんざい
しつづけてきたのです。」サリヴァンが『
現代
げんだい
精神
せいしん
医学
いがく
の
概念
がいねん
』(1953)にて
述
の
べているように、
体験
たいけん
世界
せかい
は
独自
どくじ
の
時間
じかん
順序
じゅんじょ
をもっている。
体験
たいけん
世界
せかい
は、
出来事
できごと
が
単位
たんい
となっている。
事
こと
と
事
こと
をつなぎ
意味
いみ
づけつつ、
体験
たいけん
を
構成
こうせい
し
続
つづ
ける。その
因果
いんが
秩序
ちつじょ
は、
物理
ぶつり
的
てき
な
因果
いんが
秩序
ちつじょ
ではなく、
物語
ものがたり
的
てき
因果
いんが
秩序
ちつじょ
である。これから
生
しょう
じるであろう
出来事
できごと
も、
物語
ものがたり
をふまえながら
予期
よき
される。このようにして
人
ひと
は
安定
あんてい
した
体験
たいけん
世界
せかい
を
維持
いじ
している。
2
過去
かこ
はそれが
語
かた
られるかぎりにおいて
過去
かこ
として
現
あらわ
れる。
過去
かこ
を
語
かた
るという
行為
こうい
は
事実
じじつ
の
正確
せいかく
な
描写
びょうしゃ
がなされている
場合
ばあい
でも、
客観
きゃっかん
的
てき
記述
きじゅつ
ではない。
語
かた
られる
過去
かこ
の
構成
こうせい
に
関
かか
わる
出来事
できごと
である。
語
かた
りを
通
つう
じて
時間
じかん
体験
たいけん
が
明細
めいさい
化
か
、
再
さい
構成
こうせい
される。
3
体験
たいけん
世界
せかい
は
意味
いみ
の
行為
こうい
(meanaction)が
優位
ゆうい
である。ところが
一方
いっぽう
人
ひと
の
生
せい
は
偶然
ぐうぜん
の、
予期
よき
せぬ
出来事
できごと
に
遭遇
そうぐう
し、その
後
ご
の
生活
せいかつ
の
軌道
きどう
修正
しゅうせい
を
余儀
よぎ
なくされることも
多々
たた
ある。
時間
じかん
の
質
しつ
を
問
と
う
場合
ばあい
に
偶然
ぐうぜん
性
せい
ということを
念頭
ねんとう
におく
必要
ひつよう
があろう。
4
時
じ
間
あいだ
体験
たいけん
の
記述
きじゅつ
の
視点
してん
が
重要
じゅうよう
であろう。
記述
きじゅつ
に
主体
しゅたい
を
導入
どうにゅう
すること。
過去
かこ
を
現在
げんざい
とつなげるには
主体
しゅたい
の
行為
こうい
が
介在
かいざい
する。バラバラに
過去
かこ
の
断片
だんぺん
的
てき
な
場面
ばめん
が
点在
てんざい
するのでは
生
い
きにくい。
過去
かこ
−
現在
げんざい
をつなぐのは
現在
げんざい
の
行為
こうい
である。
時間
じかん
体験
たいけん
は
主体
しゅたい
の
行為
こうい
と
切
き
りはなさない。
現在
げんざい
の
行為
こうい
によって、
現在
げんざい
と
過去
かこ
との
関係
かんけい
が
新
あら
たに
創発
そうはつ
する。
過去
かこ
も
現在
げんざい
における
行為
こうい
のたえざる
再
さい
構成
こうせい
によって
過去
かこ
として
措定
そてい
される。
5
主体
しゅたい
の
体験
たいけん
をき
取
きと
る
人
ひと
の
役割
やくわり
が
重要
じゅうよう
である。
聞
き
くという
行為
こうい
を
通
つう
じて、
過去
かこ
の
動
うご
きようもない
事実
じじつ
に
対
たい
して
新
あら
たな
意味
いみ
を
生
う
むことができる。
過去
かこ
と
現在
げんざい
がつながるということは
時間
じかん
があらたに
構成
こうせい
されることである。き
取
きと
った
言葉
ことば
の
対話
たいわ
的
てき
倍音
ばいおん
(dialogical overtone)をうみだすことによって、
言葉
ことば
の
直線
ちょくせん
性
せい
という
限界
げんかい
を
乗
の
り
越
こ
えることができる。
6
語
かた
る
行為
こうい
によって
過去
かこ
と
現在
げんざい
がつながり、
断片
だんぺん
的
てき
な
体験
たいけん
の
素材
そざい
が
織
お
り
合
あ
わされ、
一貫
いっかん
した
自己
じこ
感覚
かんかく
(sense of coherence)を
生
う
む。
主体
しゅたい
の
回復
かいふく
は
時間
じかん
の
持続
じぞく
感
かん
に
裏打
うらう
ちされている。ここで、
主体
しゅたい
が
支
ささ
えられるのは
語
かた
る
行為
こうい
であるだけでなく、
語
かた
りが
成
な
り
立
た
つ
以前
いぜん
のところを
聞
き
くということが
重要
じゅうよう
であると
思
おも
われる。
W
生
い
きた
時間
じかん
の
記述
きじゅつ
さまざまなフィールドで
人
ひと
に
接
せっ
し、
支
ささ
えながら、
実践
じっせん
研究
けんきゅう
者
しゃ
はどのような
点
てん
を
考慮
こうりょ
しまた
迷
まよ
いつつ、
聞
き
くこととしての
時間
じかん
へとはいっていくのだろう。
人
ひと
の
成長
せいちょう
変化
へんか
プロセスを
書
か
きとめることは、どのような
実践
じっせん
現場
げんば
においても
基本
きほん
的
てき
に
留意
りゅうい
すべきところであるが、これは
実際
じっさい
上
じょう
そして
理論
りろん
的
てき
にも
困難
こんなん
なことが
多
おお
い。プロセス
記述
きじゅつ
よりも、
初期
しょき
状態
じょうたい
と
結果
けっか
のみがデータとし
浮
う
かび
上
あ
がり、それにもとづく
議論
ぎろん
に
終始
しゅうし
する。
質
しつ
的
てき
心理
しんり
学
がく
の
方法
ほうほう
はこの
限界
げんかい
をどのようにのりこえようとしているのか。
中間
なかま
部
ぶ
や、
移行
いこう
状態
じょうたい
にどのように
注目
ちゅうもく
し、
描
えが
こうとするのか。そして
個人
こじん
の
生
せい
の
具体
ぐたい
性
せい
、
自己
じこ
の
歴史
れきし
性
せい
をどのようにとらえ、
実践
じっせん
に
活
い
かすのか。
未来
みらい
の
時間
じかん
を
作
つく
っていく、
生
い
きた
時間
じかん
の
可能
かのう
性
せい
を
広
ひろ
げていくという
視点
してん
から
医療
いりょう
、
福祉
ふくし
、
対人
たいじん
援助
えんじょ
に
固有
こゆう
の
時間
じかん
性
せい
、その
特徴
とくちょう
を
探
さぐ
っていければと
考
かんが
える。
最前線
さいぜんせん
の3
人
にん
のシンポジストたちから、
工夫
くふう
の
一端
いったん
をご
紹介
しょうかい
いただき、この
難問
なんもん
に
接近
せっきん
する
手
て
がかりを
得
え
たい。
UP:20070526 REV:0804 0929
◇
立岩
たていわ
真
しん
也
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇