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立岩真也「再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う」
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再掲さいけい引用いんよう――さいくびさとるとその時代じだいからもらえるものをもら

立岩たていわ しん也 2008/08/01 『情況じょうきょうだい9-9(2008-8):59-76

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立岩たていわ しん 2008/08/01 「再掲さいけい引用いんよう――さいくびさとるとその時代じだいからもらえるものをもらう」,情況じょうきょうだい9-9(2008-8):59-76 [amazon] ※

 ■情況じょうきょうだい9-9(2008-8) 特集とくしゅう人間にんげんてき環境かんきょう環境かんきょうてき人間にんげん特集とくしゅうしん左翼さよくとはなにだったのか
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 文章ぶんしょうくことを仕事しごとにしているひとにはあるまじきことだが、あらたにくことができない。ひとつにはたんに時間じかんかないから。もうひとつは――というかおなじことでもあるのだが――、さいくびおこなったりいたりしたことについてかんがえてくためには時間じかんがいるとおもうから。
 そこで、過去かこいた文章ぶんしょう再掲さいけいさせてもらう。また過去かこいた文章ぶんしょうさいくび文章ぶんしょう引用いんようしたり言及げんきゅうしたりしている箇所かしょをやはり再掲さいけいさせてもらう。

1 「さいくびさとるほん

 『看護かんご教育きょういく』(医学書院いがくしょいん)に、〇〇いちねんから医療いりょう社会しゃかいブックガイド」という連載れんさい――このだいはあまりふさわしくないとおもってている――をさせてもらっている。ニ〇〇はちねんはちがつごうはちかいかぞえることになってしまっている。そのだいきゅうかい〇〇さんねんなながつごう)でさいくびさとるほんという記事きじいた。それを再掲さいけいする。ほんかずとか変化へんかした部分ぶぶんはあるだろうが、そのまま再掲さいけいする。

 「さいくびさとるというひとがいる。いちきゅうさんろく年生ねんせい大学院だいがくいん生物せいぶつがく専攻せんこういちきゅうろく年代ねんだいまつ全共闘ぜんきょうとう運動うんどう参加さんかいちきゅうろくななねんからきゅうよんねんまでなな年間ねんかん東京大学とうきょうだいがく教養きょうよう学部がくぶ助手じょしゅをしていたが、そこをやめてめぐみいずみおんな学園がくえん大学だいがく教授きょうじゅ。また予備校よびこう医学いがくけい進学しんがく希望きぼうしゃのための小論文しょうろんぶん講師こうしもしてきた。星子ほしこさんというむすめさんがいて、彼女かのじょダウン症だうんしょうひとである。それから横浜よこはまで「カプカプ」という共同きょうどう作業さぎょうしょ運営うんえいにもかかわっている。東京とうきょうかれかこむ「さいくびじゅく」というかいがあって(ホームページもある)、わたし一度いちどんでいただいたことがある。
 そして文章ぶんしょういている。すぐ紹介しょうかいするさつのぞくとたんちょさんさつ、うちさつはいまはえない。図書館としょかんとうさがしてみられるとよい。またいつものようにわたしのHPにすこし引用いんようとうがある。ほかにもかれ文章ぶんしょう収録しゅうろくされているほんはかなりている。[…]
 こうして検索けんさくして予備校よびこうがらみのさつ発見はっけんしたのでまずそれを。いちさつは『半生はんせい思想しそう』(河合かわい文化ぶんか教育きょういく研究所けんきゅうじょ河合かわいブックレット、いちきゅうきゅういち)このシリーズは河合塾かわいじゅく研究所けんきゅうじょ主催しゅさいした講演こうえんかいほんにしたもので、おもしろいものがおおいのだがそのいちさつ一時いちじあいだほどの講演こうえんくつもりでんでいける。半生はんせいは「はんなま」とむ。その一部いちぶをなす「リカーシブなわたし」というところはさいくびじゅくのHPでめる。リカーシブとは循環じゅんかんするといった意味いみだ。
 もういちさつ『お医者いしゃさんになろう――医学部いがくぶへの小論文しょうろんぶん』。つまり受験じゅけん参考さんこうしょである。ものになる受験じゅけん参考さんこうしょはあまりないが、これはめる。たとえば千葉大学ちばだいがく小論文しょうろんぶん問題もんだいに、「(1)理想りそうてき医学部いがくぶ入試にゅうし問題もんだいとはどんなものか、べなさい。(2)その入学にゅうがく試験しけんにあなたはとおりますか。」という意地いじのわるいのがある。わたしも、まえつとめていた学校がっこう医療いりょう技術ぎじゅつ短期大学たんきだいがく)の入試にゅうし面接めんせつで、どんな選抜せんばつ方法ほうほうがよいかを議論ぎろんしてもらうという嫌味いやみなことをしたことがあったのを、んでおもした。
 さて、そんな問題もんだいまえにして、どんなふうにかんがえたものか、とはなしすすむ。タテマエをいてもつまらないことをってはいながら、しかしかんがえたことをけ、とわれてもこまってしまうというのがたいがいの場合ばあいで、そこをどうしようか。グルグル循環じゅんかんしながら、なにかをう、とはなかなかうまくかないにしても、なにかをおうとする。その過程かていかれいていく。それがおもしろいとおもって、このほん表紙ひょうしせてもらった。ただ、たしかにかれ特質とくしつあらわれてはいるこれらをんでいって、わたしたちがかれほんんできたのはこうした部分ぶぶんではないと、日本にっぽん列島れっとうてきなものと西欧せいおうてきなものを対比たいひさせ、生命せいめい認識にんしき本性ほんしょう(としての循環じゅんかんさだまっているもの、非決定ひけっていなもの、ひとし)をかた部分ぶぶんではないともかんじた。つぎ紹介しょうかいするさんさつほんほうが、やはり断然だんぜんおもしろいとおもった。

 そのたんちょ最初さいしょほんなまあるものはみなこのうみまり』しん曜社、いちきゅうはちよん)。つぎ明日あしたもまた今日きょうのごとく』(どうぶつしゃいちきゅうはちはち)。いずれも出版しゅっぱんしゃ品切しなぎれになっているが、後者こうしゃさいくびじゅくのHPでだい部分ぶぶんむことができる。品切しなぎれ・絶版ぜっぱんになったほんをHPに掲載けいさいというのはよいことだとおもう。いちきゅうななろくねんまれのさいくび星子せいこさんのこと、それからかれがずっと関係かんけいしてきた水俣病みなまたびょうひとたちのこと、水俣みなまたのこととうについての文章ぶんしょう講演こうえん記録きろく収録しゅうろくされている。
 そしていちきゅうきゅうはちねん星子ほしこる――言葉ことばなくかたりかける重複じゅうふく障害しょうがいしゃむすめとのねん。これはえる。最初さいしょしん曜社のほん編集へんしゅう担当たんとうした伊藤いとうあきらせんさんがほぼ一人ひとりでやっている書房しょぼうという出版しゅっぱんしゃからている。わたし書評しょひょうのアンケートでこのほんをこのとしさんさつのうちのいちさつにあげた。
 うべきことをっているとおもほんみながらそのさきかんがえてしまうほんはそうたくさんはないのだが、さいくびほんはそんなほんだ。
 かれは「児童じどう文学ぶんがく」をろんずる文章ぶんしょうおおいているひとでもあって、『せい』におさめられているそうした文章ぶんしょうひとつは「読書どくしょ感想かんそうぶんコンクール」にたいする、まったくそのとおりとわたしにはおもえる怨嗟えんさ批判ひはんからはじまる。そして、下手へたくそな翻訳ほんやくのくせに「翻訳ほんやくはだれでもできるのです」などと訳者やくしゃのことをおこったのちで、「それはくとしても、「だれにでもできる」というびかけは、はたして「はげまし」なのだろうか。わたしには、「まどわし」とか「ごまかし」にしかおもえない。」(いちぺーじ)(入試にゅうしはなしにまたもどってしまうと、このあたりをやはり以前いぜんつとめていた学校がっこう入試にゅうし小論文しょうろんぶん使つかったことがある。出題しゅつだい箇所かしょ全文ぜんぶんはHPに掲載けいさいした)。
 べつの「児童じどう文学ぶんがくしょ」についてのつぎ文章ぶんしょううべきことをっているとおもう。

 「かり正常せいじょうさを体現たいげんする人間にんげんが、「いのち」を媒介ばいかいとして、異常いじょうさをれてゆく、という作品さくひんが、むにこたえないものになるのは、異常いじょうさを受容じゅようすることによって、かり正常せいじょうさが正常せいじょう転化てんかするという安易あんいおもいこみや、そのようなおもいこみこそ、現実げんじつでの障害しょうがいしゃ差別さべつを、さらに上塗うわぬりする、もっともしがたい要因よういんとなっているという理由りゆうばかりによるのではない。それは、だいいちに「いのち」や意味いみ付与ふよすることにこそ、文学ぶんがく無限むげん営為えいいせいがあるという根本こんぽん命題めいだい転倒てんとうがおこっているからであり、だいに、人間にんげんは、しん異常いじょうなるものを受容じゅようできるかというおそれが、けているからである。」(『せいよんぺーじ

 あるいはつぎのような文章ぶんしょうもある。

 「うえのたちが、「星子ほしこおな人間にんげんなのに、どうしてぼくたちとちがうの」という見方みかたをしてほしくないのである。先走さきばしっていえば、「星子ほしこはぼくとちがうけれど、ぼくとかわりないねえ」といってほしいのだ。」(『せい〇〇ぺーじ

 かれ文章ぶんしょうしずかであったり、ときにおこっていたりする。ったりたりする文章ぶんしょうでもあるが、それでもわざるをないことはう。こんな文章ぶんしょうんだときに、わたしたちは、おなじこととちがうことがどんなことであるのかをかんがえたくなる。権利けんり義務ぎむについてかれた文章ぶんしょうがあると、そのことについてかんがえたくなる。それで、わたし著書ちょしょ論文ろんぶんかれ文章ぶんしょう幾度いくどかせてもらった。ここではかさならない部分ぶぶん紹介しょうかい引用いんようしている。

 もっとえば、わたしがなにかかんがえていくときに、あるいはかんがえようとした初発しょはつのところにかれらの思考しこうがあって、そこからわたしはじまっているところがあるとおもう。そしてそれは、基本きほんてきに、世界せかいについての肯定こうていてき解放かいほうてき思想しそうだったからだともおもう。

 「バリケードないは、なにみださず、なにもしなくてよいから、しんにたのしかったのである。そしてたのしいから焦燥しょうそうにみちていたのだ。」(『せいよんぺーじ)。

 とかれいちきゅうななねんいた。かれら、といたのは、かれ一人ひとりではないということなのだが、つづけてくれたり、かんがつづけてくれたひとはそうおおくない。かれいちきゅうなな年代ねんだい前半ぜんはんなにうことがなくなって、またしたのは星子ほしこ(せいこ)さんがまれてからだとう(『ほしさんろくきゅうぺーじ)。ダウン症だうんしょうひとといっても様々さまざまだが、星子ほしこさんはおもほうひとだ。みずからがはっする言葉ことばはなく、音楽おんがくきなひとで、視力しりょくうしなっている。彼女かのじょといることがどんなことなのかについて、『星子ほしこる』に彼女かのじょさいのときにかれた文章ぶんしょうからはじまり、おおくの文章ぶんしょうおさめられたている。
 そしてそのほんなかに、「わたしたちにいまあらためてげかけられている問題もんだいは、「人間にんげん私的してき所有しょゆうのどのレベルを人間にんげん廃絶はいぜつしなければならぬのか、あるいはどのレベルを廃絶はいぜつできるのか」であるとおもいます。」(『ほしさんきゅうはちぺーじ初出しょしゅついちきゅうきゅうねん)といった文章ぶんしょうがある。ほんたときにわたしはこの箇所かしょんでいたのか、さっきかえしたときに発見はっけんしたのか、それもさだかではない。
 かれはいわゆる団塊だんかい世代せだいよりはまえまれたひとなのだが、ぜんそくもちで身体しんたいよわかったりしたこともあって、人生じんせい進行しんこうがいくらかゆっくりめで、そして大学院だいがくいんになどすすんだものだから団塊だんかいひとたちがさわいだころ大学だいがくにいたのだ。わたしは、その世代せだいひとたちが、基本きほんてきにはまっとうなことをいながら、そのかんがえてものをうことをつづけなかったのが不満ふまんで、それで仕方しかたなく自分じぶんかんがえているようなところがある。わたしのやりかたさいくびおなじではない。わたしろん構築こうちくすることを、それが冗談じょうだんであっても、ひとたびはやってみようとおもっているし、さいくびちがうスタイルで文章ぶんしょうく。ただ「論点ろんてん次第しだいにしぼってついにこれ以上いじょうはしぼれないいちてんがあるはずだ」(『ほしさんはちよんぺーじ)というおもいはかれにあって、それはさきに紹介しょうかいした受験じゅけん参考さんこうしょ受験生じゅけんせいかれいたいことでもある。
 そしてそのほんつぎのようにわる。

 「きがいというものがしずかにすわる不幸ふこうということをじくにしているのではないか、そして、そしてしずかな不幸ふこう密接みっせつ不可分ふかぶんな、おそれの気持きもちもまたきがいを構成こうせいしているのではないか」(よんさんきゅうぺーじ)」

2 『私的してき所有しょゆうろん

 いちきゅうきゅうななねん私的してき所有しょゆうろんというほんしてもらった(勁草書房しょぼう)。そのだいしょうが「ただしい優生ゆうせいがくとつきあう」というだいしょうで、そのしょう冒頭ぼうとう以下いか引用いんよういている。

 「わたしは心身しんしんども健康けんこうみたいというねがいを自然しぜんなものとして肯定こうていします。しかし、そうはおもわない不自然ふしぜんさも、人間にんげんてき自然しぜんとしてみとめる余地よちはないのだろうか。」(さいくびさとる[1980→1984:80])

 初出しょしゅつは、いちきゅうはちねん、「なんじ以後いごおもいわずらうことなかるべし」、『障害しょうがいしゃ教育きょういくジャーナル』ろくごう現代げんだいジャーナリズム研究けんきゅうかい)、『なまあるものはみなこのうみまり』(はちよんねんしん曜社)にさいろくされた文章ぶんしょう
 ちなみに、もうひとつ、このしょう冒頭ぼうとういたのはみや昭夫あきおの「もう一人ひとりわたしとの対話たいわ」,『障害しょうがい地平ちへいはちななごう視覚しかく障害しょうがいしゃ労働ろうどう問題もんだいだい協議きょうぎかい)。

 「「自分じぶん子供こども五体ごたい満足まんぞくですこやかにまれてくることのぞむのは、やっぱり差別さべつてきなのかね。」
 「多分たぶんね。」
 「でもそれは人間にんげんとしてごく自然しぜん感情かんじょうじゃないか?」
 「それはそうだけど、自然しぜん感情かんじょうであるということは、そのままただしいということじゃないし、差別さべつてきでないということでもない。たとえば、ひとよりできるだけらくをしてうまいものいたいとおもったり、ひとをけとして競争きょうそう一番いちばんになりたいとおもうのも自然しぜん感情かんじょうだとえばえるだろう。」
 「どこかちがうんじゃないか? おれはたとえ子供こどもがどんな状態じょうたいまれてきても、それをけて一緒いっしょきていこうと覚悟かくごした。それでもやっぱりまれるときにはすこやかであってくれとおもった。正直しょうじきところね。そのことおれ他者たしゃをけとしたりきずつけたりしているか?」
 「五体ごたい満足まんぞくまれてくれというねがいをきくことは、障害しょうがいしゃにはうれしくないとはおもわないか? 自分じぶん否定ひていされている、すくなくとも肯定こうていされていないとかんじる。」
 「おれ障害しょうがいしゃだけど、おれはそんなふうおもわないよな。」」(みや昭夫あきお[1996:2-3])

 このほんでは、すこしたのしんでもらおうかというおもいもあって、かくしょう冒頭ぼうとうにいろんなひとからの引用いんよういてある。だいしょうだいしょうはカント、だいしょうはジョン・ロック、といった具合ぐあいで、だいしょうがやはりみや昭夫あきおおな文章ぶんしょうからいている。「たぶん、うまいラーメンをうまいとことがいけないわけじゃないとおもうよ。」という言葉ことばはじまる(架空かくう対話たいわ一部いちぶだ。
 もうひとつ、さいくびおな文章ぶんしょうからの引用いんようは、おなしょうちゅう〇(よんさんはちぺーじ)――おなしょうちゅうなな著作ちょさくみっ列挙れっきょ

 「公害こうがい反対はんたい運動うんどうと、障害しょうがいしゃ運動うんどうはどこで共通きょうつうをもちうるか…。誤解ごかいをおそれずにいえば、公害こうがい反対はんたい運動うんどうは、心身しんしんども健康けんこう人間像にんげんぞう前提ぜんていにしています。五体ごたい満足まんぞくでありたい、いやあったはずだというおもいが、公害こうがい反対はんたい闘争とうそう根底こんていささえています。これにたいして、障害しょうがいしゃ運動うんどうは、障害しょうがいしゃ人間にんげんであることを主張しゅちょうする運動うんどうです。」(さいくびさとる[1980→1984:75])

 ところでさいくびは、『週刊しゅうかん朝日あさひいちきゅうきゅうはちねんさんがつろくにちごうの「毎回まいかいちが筆者ひっしゃかたわたし読書どくしょ生活せいかつ」というらんでこのほんをとりあげてくれている。引用いんよう以下いか

 「自己じこ否定ひていは「わたしなに々である」ことからの解放かいほうだった。「ただのひと」という規定きていせいがだんだんにしみてくる。関連かんれんして昨年さくねんは「日本語にほんご英語えいごの『I』にあたるものがないとはどれほど大変たいへんなことか」という『日本語にほんごそとへ』(片岡かたおか義男よしおちょ筑摩書房ちくましょぼう),「自己じこ決定けってい私的してき所有しょゆうとはれたものではない」という『私的してき所有しょゆうろん』(立岩たていわしん也著,勁草書房しょぼう)のふたつがおおきな収穫しゅうかくだった。とくに後者こうしゃは,著者ちょしゃ本人ほんにん(p.132) がたいへん純朴じゅんぼくほんだとっていることに共感きょうかんおぼえる。自己じことか他者たしゃ積極せっきょく規定きていはおおむね作為さくいちている。」

3 「ないにこしたことはない、か・1」

 石川いしかわじゅん倉本くらもと智明ともあきへん障害しょうがいがく主張しゅちょう〇〇ねん明石書店あかししょてん)に「ないにこしたことはない、か・1」という文章ぶんしょういた(2はいまもない)。ちゅう5ですこし言及げんきゅうし、そしてちゅうなな以下いかのようにしるした――引用いんようしているほんは『星子ほしこる――言葉ことばなくかたりかける重複じゅうふく障害しょうがいむすめとのねん』(書房しょぼう)。そのちゅう以下いか本文ほんぶんについている。
 障害しょうがいはないほうがよいにまっているというろんに「たいして文句もんくったひとたちがいた。どうも普通ふつうかんがえるとそのひとたちのほうぶんがわるいようにおもわれる。そのひとたちのうことをがわは、「障害しょうがい個性こせい」といったいいかたにひとまずうなずいたりすることもあるが、しかし本気ほんきではしんじていない。あっさりとないほうがよいとえばよいのに、やせがまんのようなもする。それを嫌悪けんおして、そんな調子ちょうしのいいことをうべきではないとわざわざいにくるひとてくる」。

 「この主題しゅだいめぐ議論ぎろんなんそうにもなっていて、そしてねじれている。
 A:まず、障害しょうがいしゃでありたくない、障害しょうがいしゃになりたくない。なおるならなおったほうがよいとおもう。まずはそれだけというひとにとっては、障害しょうがい肯定こうていするっていったいなんのはなしをしてるの、ということになる。B:だいに、そんなことはないといたい気持きもちのひとがいる。そしてこのことのいいかたもさまざまだ。そして「世間せけんひと」もまた、じつはなにかしら障害しょうがい積極せっきょくてきとらえるといった主張しゅちょう同調どうちょうしたい部分ぶぶんはある。もっとも双方そうほうおもっていることはかなりずれていたりもするのだが、とにかく、意外いがいれられる部分ぶぶんもある。C:するとだいさんに、そんな調子ちょうしのいいことをって、と、それにたいしてさらになにかいたいひとがでてくる。
 ダウン症だうんしょうむすめさんがいるさいくびさとるほんにこんないちせつがある。(1970年代ねんだいのはじめ)「必然ひつぜんてき言葉ことばがなくなった。……そこへ星子ほしこがやってきた。そのことをめぐってわたしはふたたびくことをはじめたのだが、そして以後いごくものはすべて星子ほしこをめぐってのことであり、そうなってしまうのはあるしゅよろこびからで、智英ともひではその事態じたいをさして、智恵ちえおくれのをもってよろこんでいる戦後せんごもっとも気色けしきわる病的びょうてき知識ちしきじんひょうした。……本質ほんしつというか根本こんぽんというか、奥深おくふかいところで、星子ほしこのような存在そんざいはマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞ぎまんはとどめなくひろがる、という、いわゆる硬派こうは批判ひはんなのだとおもう。……」(さいくび[1998:369-370])
 ここでおこっているさいくび批判ひはんCにたいしてさらにおこっている。わたし智英ともひで当該とうがい文章ぶんしょうんでいないが、この世代せだいひとたちは――「戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎ」があやしげにはいってきたことにたいする、そして「良心りょうしんてき知識ちしきじん」にたいする敵意てきいがあることに関係かんけいするのかしないのか――「良識りょうしき」あるいは「進歩しんぽ」の「欺瞞ぎまん」「偽善ぎぜん」を指摘してきしてまわるという文章ぶんしょうをよくく。最近さいきんのものでは、安積あさかのBの主張しゅちょうたいするC小浜おばま批判ひはん?がある(小浜おばま[1999])。Cのひとたちは、Bの見方みかた偽善ぎぜんてきであるとか脳天のうてんであるとか、そんなふうにおもって批判ひはんするのだが、じつはそのBのひとたちも、あるいはそのひとたちのほうがそのあたりはかなり自覚じかくてきいていたりもする。
 この文章ぶんしょうは、まずはとても優柔不断ゆうじゅうふだんでありながら、こうした状況じょうきょうにさらにもうとする。すると、いったいなにをしているのかわからないとおもわれても無理むりはない。ちゅう1にあげたホームページをていただくと、その雰囲気ふんいきだけでもわかっていただけるとおもうのでごらんください。」

4 『よわくある自由じゆうへ』『自由じゆう平等びょうどう

 自由じゆう平等びょうどう岩波書店いわなみしょてん〇〇よんだいしょう「「根拠こんきょ」について」3せつ普遍ふへん権利けんり強制きょうせい」1「普遍ふへんせい距離きょり」のちゅう

 「さいくび義務ぎむ先行せんこうせいうちはつせいについてべている。「わたしたちは義務ぎむというと、からしつけられる、うえからしつけられるものと、反射はんしゃてき反応はんのうしてしまうので、よいかんじはもっていないけれど、行動こうどう原理げんり根底こんていうちはつてき義務ぎむであり、その内容ないようは「かばう」とか「ともに」とか、「世話せわする」とか、「元気げんきづける」であって、それをたすとき、しん無意識むいしきのうちにたされるのかもしれない。/そのようなうちはつてき義務ぎむ発露はつろ双方向そうほうこうてきであるとき、はじめてひとたっとばれているという実感じっかんをおたがいにもつことができ、それが「ひとたっとばれる」というふうに定式ていしきしたとき、権利けんりというかんがえが社会しゃかいてき発生はっせいするのだろう。」(さいくび[1993→1998:131])「権利けんりとは「このひと、あのひとはこう手当てあてされてあたりまえ」という社会しゃかいてき通念つうねんです。それを「このひと、あのひと」が自分じぶんって、「わたしはこういう手当てあてをされて当然とうぜん」とすぐにうことはできません。うちはつてき義務ぎむ発露はつろ他者たしゃげかける、自分じぶん選択せんたくつめるひとたちがいっぱいいて、そのひとたちが社会しゃかいというをつくるときに、この権利けんりというかんがえが発生はっせいするのです。」(さいくび[1994→1998:391])これをけて、[2000b→2000g:312-313]で本文ほんぶんしるしたことをべた。」

 [1993→1998]は『星子ほしこる』に収録しゅうろくされた「対話たいわ討論とうろん論争ろんそうのひろば」、『障害しょうがい普通ふつう学校がっこうへ・会報かいほう』(障害しょうがい普通ふつう学校がっこうへ・全国ぜんこく連絡れんらくかいいちろく(「障害しょうがいをもつ教育きょういく」と改題かいだい)。[1994→1998]はおなほん収録しゅうろくされた「権利けんり天然てんねん自然しぜんのものか」、『愛育あいいく』(恩賜財団おんしざいだん母子愛育会ぼしあいいくかいいちきゅうきゅうよんねんがつごう(「義務ぎむ権利けんり」と改題かいだい
 そして[2000b→2000g]はよわくある自由じゆうへ』青土おうづちしゃ〇〇〇)に収録しゅうろくされた「とおはなれ遭遇そうぐう――介助かいじょについて」。そこにいてあるのは以下いか

 「おそらく権利けんりは[…]具体ぐたいてき個別こべつてきでありながら、その具体ぐたいせいのうちに普遍ふへんせいへとかう契機けいきふくんでいる。権利けんりについての不信ふしんは、それがてんからってきたもの、あたえられたものであるとされることにあるのだろう。その不信ふしんにはもっともなところがある。しかしやはり権利けんりがただびとであることにおいて一律いちりつあたえられるというその普遍ふへんせい重要じゅうようなことではあるのだろうとおもう。人権じんけん普遍ふへんせいとは、まったく普通ふつうにある関係かんけいそのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係かんけい内在ないざいしていてそれを延長えんちょうさせていこうとする意志いしかかわってくる。たしかにそのひと権利けんりは、そのひとへの義務ぎむまわりのひとたちがうこととまったく同時どうじあらわれてくるものであるしかない。だからわたしたちのことであるともいえる。しかしそれでなお、「そのひとに」権利けんりが「ある」とわければならないとするとき、そこにはわたしたちの恣意しいかかわってならないという決意けつい表出ひょうしゅつされているのだとかんがえることができる。
 恣意しいはなくならない。個別こべつせいもなくならない。しかしそれにちかいがそれとおなじではないものとしてここにべた承認しょうにんはある。普遍ふへんあらかじあたえられていないが、しかしその方向ほうこうこうとする契機けいきはある。たとえば「距離きょり」について。あるひととの距離きょりちかさは、そのひと存在そんざいかんじるときおおきな要因よういんではあるだろう。しかし、ちかいところにいるひとっているときに、すでに、とおくにいるひとたちもまた一人ひとりいちにんいることをっており、その一人ひとりいちにん関係かんけいする一人ひとりいちにんがいることをまったく現実げんじつてき想起そうきすることは可能かのうなのである。」(『よわくある自由じゆうへ』さんいちニ−さんぺーじ

 「かんがえることができる」にちゅうがあり、そのちゅうに「さいくび[1998]の記述きじゅつ念頭ねんとういている。」としるしてある。そして「本文ほんぶんしるしたこと」は以下いか

 「自分じぶんきたいとおもい、それをみとめてほしいという主張しゅちょうは、その主張しゅちょう内在ないざいてきに、義務ぎむとしてわたしみとめることを人々ひとびと要求ようきゅうする。その要求ようきゅうは、あなたかた都合つごう様々さまざまあろうけれど、わたしのあなたかたにとっての有用ゆうようせい無用むようせいべつのところにわたし存在そんざいくようにという要求ようきゅうであり、その意味いみであなたかたのありかたおさえ、わたしみとめることを義務ぎむとすることをれるべきだという要求ようきゅうである。
 このようにして、この要求ようきゅうはたんに自発じはつてき贈与ぞうよをよしとすることではなく、ひと義務ぎむうことの要求ようきゅうである。義務ぎむ強制きょうせいは、現実げんじつには反対はんたいって成立せいりつしないことがあるとしても、この主張しゅちょう内在ないざいてき請求せいきゅうされる。これは、わたし存在そんざい維持いじというおな場所ばしょから分配ぶんぱいおうとするもうひとつの根拠こんきょとしての未知みちのためのそなえ――だいせつ1で番目ばんめにあげたもの――からはあらわれてこないものである。こうして、承認しょうにん具体ぐたいてきには分配ぶんぱいのための負担ふたん義務ぎむとして請求せいきゅうされる。
 そしてこのことは「権利けんりがある」とうことにもかかわる。権利けんりなるものがそのひと内部ないぶにあらかじめ内在ないざいするわけではなく、その周囲しゅういものたちのそのひとへの関係かんけいのありようとして存在そんざいすること、そのものたちがそのひとみとめ、そのひとたいする義務ぎむうことがあり、それが権利けんり成立せいりつさせるというのはそのとおりだ。ただ、そうなのではあるが、そこからわたし(たち)のがわちからがあることをこうとして、「権利けんりがそのひとにある」とうべきだとするのではないか。だから、おきてとして、強制きょうせいとしてあることは、欲望よくぼう屈曲くっきょくさせたものでなく、むしろ欲望よくぼう忠実ちゅうじつなのである。」

 「「権利けんりがそのひとにある」とうべきだとするのではないか」にしたちゅうが、引用いんようしたちゅう
 つぎにすぐちゅう11。

 「れとは、大方おおかたは、感覚かんかく鈍磨どんまという、障害しょうがいしゃにとってはまたえがたい意味いみをもっているのであるが、しかしい、わるいの意味いみをこめない尺度しゃくど移行いこうは、れによってしょうじることは事実じじつである。大事だいじなことは、れとは、関係かんけいむすびだということであろう。障害しょうがいしゃ本人ほんにんと、あるいは障害しょうがいしゃとかけがえのない関係かんけいむすんでいるものとの関係かんけいを、むすべたとき、障害しょうがいしゃたいするかん消失しょうしつするし、想像そうぞう類推るいすいちからによって、ほかの障害しょうがいしゃへのかん軽減けいげんさせることはできるのである。そしてれのふかさによっては、差異さい事実じじつはかえってはっきりとのこされ、ときにはそれをあげつらうこともできるようになる。」(さいくび[1980→1984:234-235])

 [1980→1984:234-235]は『なまあるものはみなこのうみまり』に収録しゅうろくされた「かけがいのない関係かんけいもとめて」、『どものかん』(福音館書店ふくいんかんしょてんいちきゅうはちねんがつごう。このちゅう以下いか本文ほんぶん(『自由じゆう平等びょうどう』、いちよんいちいちよんぺーじ)の末尾まつびかれている。

 「ひとつの間違まちがいは、差異さいによって他者たしゃ規定きていしようとすることだ。二人ふたりひとちがいがあること、ないことは、その二人ふたり別人べつじんであることとべつのことである。ているからおなじだとかんがえるのはまったく危険きけんでさえある。差異さいかんじられ、すこしもわからないということがかろうじてわかったりすることもある一方いっぽうで、おなじこと、ていること、気持きもちのわるいほどていることにづくこともあるだろう。しかし、そこでていたりおなじだったりする存在そんざいは、やはりわたしとはべつ存在そんざいであり、ときにていたりおなじだったりすることにづくたのしみもまたその存在そんざいわたしではないことに由来ゆらいする。そのひとれることにしても、それは摩耗まもうすることだとはかぎらない。属性ぞくせいはなくならないままときに背後はいご退しりぞく、あるいはそのまままえあらわれているがるのに邪魔じゃまにはならない。」

4 引継ひきつかた

 つまりわたしは、さいくび(たち)がったりいたりしたことについてかんがえたほうがよいとおもって、かんがえていてきた。さきのさいくびほん紹介しょうかい記事きじわりにもいたことをかえすことになるが、だいいちに、そのひとたちから基本きほんてき立場たちばをもらったとわたしおもう。すくなくとも、そのひとたちのいたものそのからわたしおもうようでよいはずだとおもえた。だいニに、しかしその、そのひとたちはさぼってしまったり、わざと脇道わきみちくことにしたとおもった。だいさんに、それで、仕方しかたがないから自分じぶんかんがえることにした。
 簡単かんたんにいうとこういうことになる。するとさいくびはどこにいるのだろう。つぎ引用いんようするわたし文章ぶんしょうに「ただ、このみちおこなった一部いちぶは、現実げんじつとの接触せっしょく摩擦まさつ持続じぞくのために、思考しこうすることをめることができず、「社会しゃかい理論りろん」に再度さいど接続せつぞくするのだが、その道筋みちすじはここでは辿たどれない。」というぶんがある。その箇所かしょに、ほんさいろくするにあたってちゅうした。
 「ここで念頭ねんとういているのは病者びょうしゃ障害しょうがいしゃ運動うんどうである。そのひとたちは生活せいかつのために運動うんどうしているから、りることができない。しかもそのひとたちが位置いちする位置いちとそこで主張しゅちょうせざるをえないことは、社会しゃかい基本きほんてきなところに関係かんけいするから、社会しゃかい正面しょうめんからたいすることになる。」
 さいくびもそんなところにいるのだともえる。そして、「これ以上いじょうはしぼれないいちてん」をさがすのだともう。ただ、そうではあるのだが、同時どうじに、さいくびは、理屈りくつをこねることの限界げんかいわたしよりおもっているようにかんじる。とくにここなんねんなのかじゅうなんねんなのか、はなすことくこと、あるいはかたかたかたにそのことをかんじる。ずっと、矛盾むじゅんする(かのような)ならべていくという文章ぶんしょうさいくびは――さき引用いんようした文章ぶんしょうでは、「たのしい」から「焦燥しょうそう」にみちていた、「きがい」が「しずかにすわる不幸ふこう」をじくにしている、「不自然ふしぜんさ」も「人間にんげんてき自然しぜん」、等々とうとう――よくいてきた。他方たほうわたしは――そうったらわらひともいるだろうが――ろん収斂しゅうれんさせることをのぞんできた。
 以前いぜん――〇〇ねんじゅうがついちきゅうにちのようだ――「さいくびじゅく」にんでもらってはなしたときも、さいくびは、わたしがはっきりおうとする手前てまえよどみのような部分ぶぶんたのしんでいた、そのことをわたしはなしのちかたったように記憶きおくしている。たしかにこの複雑ふくざつであり複雑ふくざつであることは大切たいせつなことでもある。ただ、わたしはその複雑ふくざつさをふくめ、分析ぶんせきてきにというか散文さんぶんてきにというかかたられることがあるとおもっていて、そのような仕事しごとをしようとしている。

 この原稿げんこうはじめた、というより、引用いんようあつした(そしてそののうちにはおくららないことにはわない)なながつにちさんにちなながつにち慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく経済学部けいざいがくぶの「現代げんだい社会しゃかい」という講義こうぎ高草木たかくさき光一こういち企画きかくだいV「いのち」の現代げんだい――われわれの「歴史れきしがく」へ」)の一回いっかいとして、さいくびわたし対話たいわというかたちをとった授業じゅぎょうらぎのなかの「いのち」がある。なにはなせるのか、見当けんとうがつかないのだが、さんあいだ時間じかんがある。「中高年ちゅうこうねん」の「もぐり」のひとほうおおいともく。その資料しりょうとして、この文章ぶんしょうくばってもらうことに、いま、した。そこで、以下いか以前いぜんいた文章ぶんしょう一部いちぶ再掲さいけいする。大澤おおさわ真幸まさきへん社会しゃかいがく33』(〇〇〇、新書しんしょかん)に掲載けいさいされた「ただしい制度せいどとは、どのような制度せいどか?」という(あたえられただいの)文章ぶんしょうで、拙著せっちょ希望きぼうについて』〇〇ろく青土おうづちしゃ)にさいろくされている。

 「「ただしさ」ほど退屈たいくつなものもないではないか。そうではないとわたしおもう。ここさんねんほど流行りゅうこう消費しょうひされた「」はあまりおもしろくなかった。その停滞ていたいに「制度せいど」「ただしい制度せいど」「可能かのう制度せいど」についての思考しこう不在ふざいあるいは不振ふしん関係かんけいしているとおもう。
 さんねんよりさらにまえ――「体制たいせい」をめぐるあらそいのあった時期じき――がおもしろかったわけではない。体制たいせい制度せいど選択せんたくという主題しゅだい自体じたい大切たいせつなのだが、あのときあったものを議論ぎろんいにくい。双方そうほうわれない前提ぜんてい(よいことはよいことだ)をゆうし、同時どうじに、いまのとべつ社会しゃかい成立せいりつしうる条件じょうけんについて十分じゅうぶんかんがえられなかった。
 つぎ世代せだいが、様々さまざままえからきずりながら、否定ひていする。うえ世代せだい立派りっぱだったからくやしくてさからったわけではない。だめだからだめだとおもっただけだ。それはよいことだ。たりまえとされている部分ぶぶんう。よいことはよいことかとう。すこずかしいが、「近代きんだいう」のである。社会しゃかいがく本義ほんぎかえったのだともえる。
 否定ひていしてしまった結果けっか積極せっきょくてきうことがなにもなくなってしまった、わりになにさなかったという理解りかいもある。わたしは、むしろ、否定ひていすることに成功せいこうしなかったのだとおもう。つまり冷静れいせいでなかった。前代ぜんだい同様どうようひとつにみずからの立場たちばたいして。たとえば「ただしさ」についての感覚かんかくつよくあった。ただそれはなになのか。「きょうきをくじよわきを…」はよいとして、それだけですむものでもないだろうに。ひとつに現実げんじつにおける可能かのうせいかかわる吟味ぎんみについて。前代ぜんだいちがうのは、そう自信じしんがないこと、可能かのうせいについて悲観ひかんてきであること。知性ちせい懐疑かいぎしていくとき使つかえるのもまた知性ちせいなのだが、そうした使つかかたがされない。[…]
 おおくは、現実げんじつとの接触せっしょくめんでどうもどうにもならないとおもい、めんどうになって、りてしまう。またあるひとたちは、「空理空論くうりくうろん」を放棄ほうきし、理屈りくつをこねず、地道じみちほう、「実践じっせん」のほうたとえば「地域ちいき」のほうく。(ただ、このみちおこなった一部いちぶは、現実げんじつとの接触せっしょく摩擦まさつ持続じぞくのために、思考しこうすることをめることができず、「社会しゃかい理論りろん」に再度さいど接続せつぞくするのだが、その道筋みちすじはここでは辿たどれない。)
 他方たほうで、やがて「」などとばれるようになるものは、そういう敗北はいぼくかんわきにおいて、つまりみょう元気げんきに、なにかしら批判ひはんてき態度たいど気分きぶん継承けいしょうすることになる。(もちろん、こんなことに関係かんけいなく、日々ひびごす学問がくもんもある。伝統でんとうてき学問がくもん伝統でんとうてき部分ぶぶんがある。また、世論せろん調査ちょうさをして、多数決たすうけつをとって、世間せけんはこうわっているとものもいる。もちろん、それはそれでよい。)
 それがおこなったことは、まず「人類じんるい学的がくてき」なもの、また「あたらしい歴史れきし学的がくてき」なものだった。べつのところ、あるいはべつ時代じだいべつのものがあること、あったことを発見はっけんする。そして「相対そうたい」する。これはとても大切たいせつなことである。こんなものもあるという発見はっけん魅力みりょくてきでもある。だが、「そういうのもあるみたいだ、だけどね、ここはここ、いまいま」とわれたときなにおうか。「多様たようせい尊重そんちょうしましょう」はよい。ただ、そのお題目だいもくとなえてそれでむのでないこともわかっている。このときなにをどうえるのかがよくわからない。
 こうしてそとひろがっていく方向ほうこうにおめでたいかんじがしてしまったひともいただろう。だからかどうか、「もうすこ内側うちがわからてみよう、社会しゃかいがくなんだし」といううごきもてくる。会話かいわやメディアやカルチャーのなかに「権力けんりょく」の作動さどう見出みいだす、「政治せいじ」の作用さよう確認かくにんするといった方向ほうこう研究けんきゅうがある。歴史れきしてき視角しかく歴史れきし検証けんしょう作業さぎょうがれるが、より現代げんだいちかいところでなされる。「〇〇の政治せいじがく」といった名前なまえほんがたくさんる。
 それもそれでよい。神話しんわ解体かいたい社会しゃかいがく本業ほんぎょうである。けれど、のつけどころがかなりよくて、かなりうまくやらないと、だいたいっているはなしいてしまう。[…]
すでにみたかんじ、なんだかおなじことをずっとやっているようながしてくる。[…]をかえひんえてっても、いつか飽和ほうわ状態じょうたいからだっすることができなくなる。といって、とおくにべつのものをさがしにってもなにかあるわけではない。空虚くうきょ飽和ほうわかんがする。退屈たいくつかんじがしてしまう。
 なにがいけなかったのだろう。仕事しごと単純たんじゅんすぎるのだとおもう。[…]
 あらかじてき味方みかた陣地じんち措定そていするのでなく、なんなに拮抗きっこうしているのか、あるいはなにこうするものがあるのかをればよい。そうかんがえると、まだ検証けんしょうされていない歴史れきしがあり、しょ装置そうち配備はいびがあり、それを社会しゃかいがく存在そんざいする余地よちおおのこっている。[…]現在げんざいちかいところが踏査とうさするによいとなる。そしてそのあらそいとあらそいの構成こうせい記述きじゅつすることはすなわち、制度せいどたいする複数ふくすう立場たちば記述きじゅつすることであり、その位置いち関係かんけい記述きじゅつすることであるからには――記述きじゅつしゃ立場たちばがどこにあるか(そんなものを表出ひょうしゅつすることと制度せいどうこととは基本きほんてき関係かんけいがない)はともかく――制度せいどのありかたうこととなる。ここですでに、あらそいを記述きじゅつするために、出来事できごと記載きさいだけでなく、解析かいせきもとめられる。
 もうひとつ[…]社会しゃかいすで存在そんざいしており、わたしたちはそのなかにいてしまっている。社会しゃかい積極せっきょくてきただしさを追求ついきゅうすべきでないというかんがかたもまたひとつのただしさについての態度たいどである。残念ざんねんながら、かどうか、そのなかなにをとるのかという選択せんたくがあり、このときなにえらぶのか、それはなぜかといういにこたえようとすることになる。どの装置そうち権力けんりょくれ、どれをはずすのか。それについてどこにどんな基準きじゅんがあるのか。そうしたことごとがあらためてわれるべきことになる。[…]
 つまり、実際じっさい摩擦まさつあらそいを記述きじゅつすることから論理ろんりてき構成こうせい作業さぎょうへとすすむか、思考しこうなか条件じょうけん要素ようそかぞえあげ配置はいちしていくか、両者りょうしゃ往還おうかんするか。いずれにおいても、なに原則げんそくとなり制約せいやく条件じょうけんとなるのか、それらがどう配置はいちされたときなに現実げんじつとして産出さんしゅつされるかがわれる。
 「原則げんそく」について。さんねんまえからのひとたちにしても、たんなる「自然しぜん」の信奉しんぽうしゃではなく、あるいは政府せいふ主義しゅぎしゃ(をよそおもの)たちではない。たんにいまないものがよいとったのではない。むしろ、「自由じゆう」だとか「平等びょうどう」だとか、あるいは「かい」であるとか、それなりの原理げんり原則げんそくがあったのかもしれない。しかしたとえば「自由じゆう」だが、AとBとにんいるときに、xについてAが自由じゆうであることがすなわち、Bがxについて自由じゆうでないことがある。こんな自由じゆう配分はいぶんについてかたらねばならず、ただ自由じゆうっても仕方しかたがない。他方たほうで、「平等びょうどう」をてる場合ばあいには、平等びょうどう分配ぶんぱいすることがためらわれるものもまたあることについてなにわねばならない。
 そして「幸福こうふく」。それにつながれると経験けいけんしたいことを経験けいけんでき、気持きもちがよい「経験けいけん機械きかい」はいかがだろう。これでよいではないか。いやだとひとはなぜそううか。自分じぶん気持きもちのよさは自分じぶんめたいのか。しかし、気持きもちよさ一般いっぱん自分じぶんめているだろうか。また、経験けいけん機械きかい自分じぶんであやつれるなら、それでよいのだろうか。
 そして、前提ぜんてい原則げんそく目的もくてきでもあるのだが、懐疑かいぎ批判ひはん対象たいしょうとなったものについて。たとえば「生産せいさん」「教育きょういく」「健康けんこう」。これらがうたがわれた。たとえば(近代きんだい医療いりょう批判ひはんとして医療いりょう社会しゃかいがくがある。しかし批判ひはん不徹底ふてっていだったのかもしれない。つまり、なににいらないのか、それをはっきりうことができているだろうか。教育きょういく医療いりょうをすることからけられないとしたうえで、受容じゅよう拒絶きょぜつがどこのあたりでかれるのかをかんがえること。そんなつなうえわたるような仕事しごとほうがおもしろいとおもう。
 そうやってかんがえて、とりあえずたとえば「みんな気持きもちのよい状態じょうたいらせる社会しゃかい」がよいのだとして、それがどういうものか、基本きほんてきにはまったとしよう。さてそれからどうしようといういもある。これもけっしてつまらない、さきえたいではなく、実際じっさいいろいろとかんがえるべきことのあるいだとおもう。すくなくともわたしはそうおもう[…]「近頃ちかごろわかもの」は身近みぢかなところにしか関心かんしんかないとわれる。しかし、どうしたら景気けいきがよくなるかといった選択せんたく水準すいじゅんで、つまりはつまらなく、天下てんか国家こっかろんじられてしまっているからつまらないとおもってしまうのであって、もっとおもしろくろんじればよいのだとおもう。
 […]ようやく、規範きはんてきい、制度せいどについてのいがわれる時期じきているのだとおもう。社会しゃかい複雑ふくざつになって、あるいは技術ぎじゅつ進歩しんぽによってむずかしい問題もんだいえた、などともわれる。さてどうか。あまりそのるいいのごと扇動せんどうしんじないほうがよいとわたしおもう。ずっとかんがつづけていてよかったことをかんがえなかっただけだとおもう。」

5 くわえて

 最後さいごにもうひとつ。最近さいきんさんよんじゅうねんまえ書籍しょせきなどをいくつかんで、ところどころむことがあった。それはひとつに、すでに『現代げんだい思想しそう〇〇はちねんがつごう特集とくしゅう医療いりょう崩壊ほうかい――生命せいめいをめぐるエコノミー)に掲載けいさいされてはいる小児科しょうにか山田やまだしんへのインタビューの完全かんぜんばん長大ちょうだいちゅうくわえて、のインタビューとあわせたものを生活せいかつ書院しょいんから刊行かんこうしようという企画きかくがあることによる。それで東大とうだい闘争とうそう東大とうだい医学部いがくぶ闘争とうそうかかわる記述きじゅつもいくらかひろうことになる。そして、いまようやくわらせつつある拙著せっちょただせい筑摩書房ちくましょぼう)のとくに後者こうしゃをまとめるにあたりほんのすこし過去かこのものにあたったことによる。
 そうしたら、高橋たかはしあきらただし幾度いくどさいくび文章ぶんしょう言及げんきゅうしている。これは引用いんようだけしておく。この時期じき以降いこうのことをどうかんがえるか。それはまたべつ機会きかいかんがえてみようとおもう。『月刊げっかんみすず』(みすず書房しょぼう)で、こんど身体しんたい現代げんだいという連載れんさいはじめることになった。そこになにけるかもしれない(けないかもしれない)。

 「はからずも、東大とうだい闘争とうそうのなかで一人ひとりわか生物せいぶつ学者がくしゃがおこなったきびしい解析かいせきのなかに、わたしたちは医療いりょう矛盾むじゅんするど集約しゅうやくをみる。
 「医者いしゃ患者かんじゃちかまえているだけでよいのか。患者かんじゃ公害こうがいとか労災ろうさいとかでむしばまれるかもれない。その患者かんじゃ治療ちりょうして、ふたた労働ろうどうりょく搾取さくしゅしようとするもと社会しゃかいさざるをないのであれば、医者いしゃという存在そんざいは、まった資本しほん主義しゅぎ矛盾むじゅん隠蔽いんぺいし、ゆがみの部分ぶぶんになって本質ほんしつをかくす役割やくわりをになっているだけではないか」(さいくびさとる
 このいにたいして、わたくしたちはいま、誠実せいじつこたえなければならない。
 ひろ社会しゃかいけてひらくとき、わがくにはほんとうに国民こくみん生命せいめいまもることのできるような近代きんだいてき医療いりょう制度せいどっていないことにづかなければならない。医療いりょう自由じゆうぎょうであり、営利えいりぎょうである状況じょうきょうのもとでは、国民こくみんはサイエンティフィック・ミニマムの医療いりょうさえ保障ほしょうされえないのだ。医療いりょう倫理りんりせいも、それに科学かがくせいさえも、医療いりょう営利えいりせいまえにはかげをひそめざるをえないのである。
 いま、医学いがくせい青年せいねん医師いしたちは、わがくに医療いりょう矛盾むじゅん実態じったいきびしくつめ、その本質ほんしつするどきはじめている。それらを医療いりょう技術ぎじゅつ問題もんだい解消かいしょうすることは、もはやゆるされないだろう。それらは、>iii>わがくに社会しゃかい体質たいしつそのものの反映はんえいとして、とらえられなければならないものであるのだ。」(高橋たかはしあきらただし社会しゃかいのなかの医学いがく』、いちきゅうろくきゅう東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、UP選書せんしょ、ii-iii)

 「臨床りんしょうとしてのわたし狭隘きょうあい視野しや社会しゃかいけてひらいてくれたのは、東大とうだい闘争とうそうのなかでひとつの生物せいぶつ学者がくしゃが『朝日あさひジャーナル』のなかでとうじたつぎいちせきであった。
 ――医者いしゃ患者かんじゃちかまえているだけでよいのか。患者かんじゃ公害こうがいとか労災ろうさいとかでむしばまれるかもれない。その患者かんじゃ治療ちりょうして、ふたた労働ろうどうりょく搾取さくしゅしようとするもと社会しゃかいさざるをないのであれば、医者いしゃという存在そんざいは、まった資本しほん主義しゅぎ矛盾むじゅん隠蔽いんぺいし、ゆがみの部分ぶぶんになって本質ほんしつをかくす役割やくわりをになっているだけではないか――(さいくびさとる
 わたしはこのみじか文章ぶんしょうまえにして必死ひっし抵抗ていこうしようとこころみている自分じぶん意識いしきした。出欠しゅっけつ多量たりょうひんしている何人なんにんかのひとびとをわたしたすけたことがあったはずだ。だから、医師いしけっして資本しほん主義しゅぎ矛盾むじゅん隠蔽いんぺいだけをしているのではない、といまいちにん自分じぶん反論はんろんする。それにもかかわらず、たすかった患者かんじゃたちはたすけたわたし感謝かんしゃするだけで、自分じぶんたちをきずつけた社会しゃかい矛盾むじゅん摘発てきはつにのりさないとしたら、さいくび批判ひはんはやはり真実しんじつせいをもつといわなければならない……。」(高橋たかはしあきらただし「こんな教育きょういくがつくるこんな医師いし」、朝日新聞社あさひしんぶんしゃへん医療いりょうささえるひとびと』、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ市民しみん教室きょうしつ日本にっぽん医療いりょう3、いちきゅうななさんいちきゅうはちいちきゅうきゅうぺーじ

 「板倉いたくらさんの治療ちりょうがくのありかたからいえば、医者いしゃ看護かんごがく訓練くんれんをうけるとともに、牧師ぼくしとしての修練しゅうれんまなければならない。しかし、それは病人びょうにんまえにしてのはなしであって、病気びょうき発生はっせいげん社会しゃかいせい病気びょうきなおりにくくしている社会しゃかいてき条件じょうけんかんがえるなら、”牧師ぼくしせい”は”革命かくめいせい”へと止揚しようされなければならないという問題もんだいも、その延長えんちょうじょうにあるわけです。
 これは、東大とうだい闘争とうそうなかさいくびさとるが、”医者いしゃ病院びょういん窓口まどぐち患者かんじゃちかまえているだけでいいのか”といういかけをしたことのなかにはげしくあらわれているといえましょう。」(高橋たかはしあきらただし中川なかがわ米造よねぞう大熊おおくま 由紀子ゆきこ医療いりょうしつをどうよくするか」、朝日新聞社あさひしんぶんしゃへん『どう医療いりょうをよくするか』、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ市民しみん教室きょうしつ日本にっぽん医療いりょう7、いちはちいちいちはちぺーじ

 むろん同時どうじ高橋たかはし様々さまざまいてかたっているし、さいくびいているし、やがてしばらくだまることにもなる。それらをどうむかかんがえてもよいし、そのまえんだらよい。
 そして、昨年さくねん〇〇ななねんきゅうがつわたしたちのグローバルCOEプログラム「生存せいぞんがくそうせい拠点きょてん」の企画きかくで、このプログラムの「事業じぎょう推進すいしん担当たんとうしゃ」でもある栗原くりはらあきら講演こうえんのち〇〇ななねんきゅうがつ)、それをけてわたしはなしたこと。この企画きかく収録しゅうろくした報告ほうこくしょ立命館大学りつめいかんだいがくグローバルCOEプログラム「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん時空じくうから/へ――水俣みなまた/アフリカ…をかた栗原くりはらあきら稲場いなば雅紀まさのり〇〇はちねん)に掲載けいさいされている。

 「今日きょうぼくえば、ひとなが文章ぶんしょういてわってってこようとおもっていたんです。[…]筑摩書房ちくましょぼうから、いわゆる尊厳そんげんかんするほんそうとおもっていて[…]いまなおしているんです。そこに「自然しぜん」っていうあきらがあって、自然しぜんっていうことをめぐってわれわれはどんなことがえるのか、それをこうとおもっています。できればってこようとおもったんだけれども結局けっきょくわなかった。
 なにいたいか、なにになっているかというと、おな言葉ことばべつ使つかわれるようになっていはしないかということなんです。
 たとえばろく年代ねんだいからなな年代ねんだいにかけて、水俣病みなまたびょうをめぐる出来事できごとこって、ほかにもこったはん公害こうがいったらいいのか、そういったうごきのなかで、自然しぜんっていうものがそれに対抗たいこうする言葉ことばとして存在そんざいし、あるしゅのスローガンとして存在そんざいした。そしてそのしばらくのちに、自然しぜんっていうものが、かびがってくるっていうか、せりしてくる。そういう出来事できごとこってくる。そしてそこにたしかにある連続れんぞくせいってものはある。たとえば科学かがく技術ぎじゅつ文明ぶんめいたいするあるしゅ拒否きょひかんというか対抗たいこうかん自然しぜんという言葉ことばにはつながるものがある。そういった意味いみえば、普通ふつうかんがえれば、あきらかなっていうか、そこに連続れんぞくせいがある。
 しかしながらどこかでずれてしまったというか、べつのものになってしまったっていう直感ちょっかんのようなものが、まずはあるんですね。それはその場合ばあいなんであったんだろうということですよ。たとえば現代げんだいやまいいのちやそういったことをめぐ現代げんだいということをかんがえるということは、そのあいだなにこったんだろうか、そういうことを辿たどなおしてかんがえる、ということであるのかなあ、とおもったのです。
 こたえ簡単かんたんこたえなのかもしれない、ひとつのこたかたとしては。それは先生せんせいがおっしゃった「わたしきさせよ」っていう。そういった主張しゅちょうがそうでないものになる。いってみれば「わたしなせよ」というところに、なにやらいてしまったっていうことがある。ある意味いみちがいは明白めいはくなんですけれども、しかしその明白めいはくちがいとあるしゅ連続れんぞくせいみたいなものを、どういうふうにきほぐしてかんがえていくか、そんなことがひとつ、大切たいせつなことなんだなあとあらためておもったのです。」(ろくぺーじ

 そして、さきにすこし紹介しょうかいしたほんちゅういたこと。

 「このくににおける「環境かんきょう思想しそう」をどのようにとらえるのか[…]宇井ういじゅんにしても原田はらだ正純まさずみにしても、そのひとたちがったことをせんめると、きわめて単純たんじゅんすじはなしになる。つまり、差別さべつのあるところに公害こうがいがある、「社会しゃかいてき弱者じゃくしゃ」が被害ひがいしゃになる。それだけといえばそれだけのはなしだ。[…]
 むろんその様々さまざま出現しゅつげん形態けいたい様々さまざまであり、それにたいするたいかたにしてもまた様々さまざまではあって、そうした部分ぶぶんではいくらでも調しらべたりすることがある。実際じっさい、そのひとたちは、ながあいだそうした仕事しごとおこなってきた。ただ、その「思想しそう」は、ちぢめればずいぶんとみじかくなってしまう。もちろんそれでいっこうにかまわないのではある。なにか長々ながながと、いつまでもろんじることがよいなどということはないのだ。ただそうではあっても、わかりやすくえる言葉ことばうえわたしたちがすべっていってしまうことがしばしばあるなら、そしてそこでなされたこと、われたことが大切たいせつだとおもうなら、言葉ことばをどのようにしていったらよいのか、これはかんがえどころなのかもしれない。」(筑摩書房ちくましょぼうだいしょうちゅういち

 もう一度いちど時空じくうから/へ――水俣みなまた/アフリカ…をかた栗原くりはらあきら稲場いなば雅紀まさのりからわたしはなした部分ぶぶん

 「ぼく自身じしんは、戦後せんご、いわゆる「体制たいせい」にたいしてアンチであった、カウンターであった部分ぶぶんたいして、むしろ懐疑かいぎてき批判ひはんてきっていいますか、相当そうとう距離きょりかんがある部分ぶぶんもあるんですが、ただそれはすくなくともいてよいようなものではないとはおもってきました。では、それをたとえば学問がくもんなら学問がくもんというもののなかで、どれほどとらえるってことがなされてきたのか。それほどではないんではないかとおもっています。
 ただ、たしかに、それはかんがえてみるとむずかしい。あらためてそのむずかしさを栗原くりはら先生せんせいのおはなしうかがってもおもいます。たとえば生命せいめい倫理りんりがくなら生命せいめい倫理りんりがくってものが、すうじゅうねん学問がくもんてき蓄積ちくせきっていうものをち、その文法ぶんぽうかなった言葉ことばはっし、それなりの体系たいけいせいをもってがれている、ある意味いみ発展はってんしてくる。そういったものをぐ、解析かいせきするってことはじつはさほどむずかしいことではない。それにして、それにたいして、日本にっぽん戦後せんごにわれわれがるべきものっていうのは、いわゆるアカデミズムのなか存在そんざいしたものではない、むしろそこからある場面ばめんでは積極せっきょくてきに、退すさ(の)いたというか、はずれたところに存在そんざいしていて、しかもそこにあるのはその、なにか体系たいけいだった言葉ことばではなかったりする。ときには言葉ことばでさえもない、というようなものである。
 そうすると、それをあらためて言葉ことばとして、かんがえをいでいくっていくことがむずかしいんだけれども、しかしそこにはやっぱりなにかがあって、だからいでいくことの困難こんなんさと同時どうじに、その必要ひつようせいっていうんですか、あるいは重要じゅうようせいっていうんですか、そういうものをあらためておもったっていうことです。これがひとつです。
 で、これはやっぱりむずかしいんだとおもいます。ただ、むずかしいむずかしいといっても仕方しかたがないですから、COEってこともあるし、それがなくても、なにかっていうとその、みなさんが歴史れきしてき文脈ぶんみゃくっている事象じしょうについて研究けんきゅうをする、そういったときに、とりあえず年表ねんぴょうつくれってひとつおぼえのようにぼくっているわけだけれども、それがつくれたからといってなにてくるかどうか、それは本当ほんとうからないです。本当ほんとうからないんだけれども、そういった仕事しごとさえもなされていない以上いじょうは、まずはそういったところをやってみる、そういったことをずっとつづけていくとなにか、えることっていうのがやっぱりあるんだと、あるはずだっていうことをですね、あらためておもった、ということです。
 やれるとこしか、とこからしか、われわれはできなくて、それはわたしにとっても同様どうようなことです。ただ、つぎひとつ、あきらかにえることは、そこの日本にっぽん戦後せんごからなにすかっていうときに、おそらく、すにあたいするものは、生命せいめいっていったらいいかめいじっていったらいいか、なんといったらいいかかりませんけれども、そういったことをめぐることごとだとおもいます。もちろん社会しゃかい運動うんどう社会しゃかい思想しそうさまざまなものがあって、それなりにさまざまなことがかたられてきたわけだけれども、その日本にっぽん戦後せんごなかから、いでなにかをかんがえるべき、そこにあたいするものがあるとすればそれはだいいちにはそういった、いのちといっていいか、生命せいめいといっていいか、なんていったらいいかかりませんけれどもそういった領域りょういきなんではないか、ことをあらためておもった、ということです。
 で、とりあえず具体ぐたいてきにやれるところからやるしかない、とりあえず、ぼくもそのはじっこにくわわれればいいなあとおもっていて、これはすこ宣伝せんでんさせていただくと、1973ねんほんですけれども、横塚よこつか晃一こういちっていうひとの『ははころすな』というほんがあります。ながらく絶版ぜっぱんだったんですけれども、あと数日すうじつ再版さいはんされることになりました(生活せいかつ書院しょいんかん)。たとえば 30なんねんまえ、ここになにがしかのことがかたられてる。これは学者がくしゃきものではない。横塚よこつかさんってひと小学校しょうがっこう途中とちゅうわったんじゃなかったかな、そういうひとの、でも、言葉ことばになって、文章ぶんしょうになってるわけです。そういったことをまずはおもう。それをみなさんにもびかけたい。そのことにきるといえばきます。」

 簡単かんたんなはずのはなし簡単かんたんでなくなってしまう、そのことについてかんがえるという仕事しごともある。曖昧あいまい模糊もこえる、あるいは矛盾むじゅんしているかにえるはなし――しかし、立派りっぱそうだが基本きほん単純たんじゅんで、そしてけっきょくある価値かちかたってしまっているだけのはなしよりまともなはなし――を解析かいせきして、ものわかりのわるいひとにもつたえるという仕事しごとがある。細々こまごましたはなしんでいってそこそこにおおきな体系たいけい構築こうちくするといったものとはちがうもののいいかたをどうけるかということがある。さらに容易よういぞうむすばない言葉ことば、あるいは言葉ことばでないものをどうけるかということがある。
 ここすうじゅうねん学的がくてき言説げんせつはもうまとめられてしまったとして、おもしろいものがあるとすればその外側そとがわにあるのだとすれば、そんなみちくことになる。さいくびは、そのような「知的ちてきいとなみ」に限界げんかいがあるとおもっているだろうが――それはたしかにあるだろう――、わたしは、さいくびいたものをむこともふくめ、その仕事しごとつづけていくことになる。

 * 「生存せいぞんがく創成そうせい拠点きょてん」のホームページ(http://www.arsvi.com)に、丹波たんばひろしきのさんがつくってくれた著作ちょさくリストにいくらか引用いんようしゅうのようなものをくわえたファイルがある。「さいくびさとる」で検索けんさくしても番目ばんめぐらいにつかる。ごらんいただきたい。


UP: 20080330 REV: 20160420
さいくび さとる  ◇立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa 
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