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立岩真也「資料」
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資料しりょう

立岩たていわ しん 2009/02/14 だいかい近畿きんき介護かいご支援しえん専門せんもんいん研究けんきゅう大会たいかい和歌山わかやま大会たいかい
https://apollon.nta.co.jp/kinki-kaigo_09 14:45〜17:15
於:紀南きなん文化ぶんか会館かいかん 和歌山わかやまけん田辺たなべ新屋敷あらやしきまち1番地ばんち http://www.kinanbunkakaikan.jp/,


立岩たていわ しん也 2008/01/15 「自立じりつ支援しえん」,加藤かとう尚武なおたけへん応用おうよう倫理りんりがく事典じてん』,丸善まるぜん

 【みっつの自立じりつ障害しょうがいしゃ運動うんどう展開てんかいけて社会しゃかい福祉ふくしがく整理せいりしたところでは、自立じりつすくなくともみっつの意味いみがあるとされる。複数ふくすう意味いみをもつこの言葉ことばが、そのいずれを意味いみするのかがよくわからないように、あるいは複数ふくすう意味いみ同時どうじにもつ曖昧あいまいかたりとして使つかわれていることの意味いみ重要じゅうようである。
 まず、自立じりつ安定あんていした職業しょくぎょうくこと、経済けいざいてき他人たにん依存いぞんせずにらすこととして、すなわち「職業しょくぎょう自立じりつ」「経済けいざいてき自立じりつ」としてある。そして、公的こうてき扶助ふじょ福祉ふくしサービスの目標もくひょうは、この意味いみでの自立じりつ達成たっせいされ、社会しゃかいてき支援しえん自体じたい不要ふようになることとされる。たとえば生活せいかつ保護ほご目的もくてきは「自立じりつ助長じょちょう」にあるとわれる。このとき、このかたり古典こてんてき意味いみでの「自助じじょ」(self-help) と互換ごかんてきである。この意味いみ自立じりつ自助じじょ自体じたいだいいちてき価値かち付与ふよし、をそれに従属じゅうぞくさせることがなされてきた。近代きんだいとその時代じだい社会しゃかい事業じぎょう底流ていりゅうにそれは存在そんざいつづけてきた。
 つぎ自立じりつとは「身辺しんぺん自立じりつ」、「日常にちじょう生活せいかつ動作どうさ」の自立じりつ(「ADL自立じりつ」)を意味いみする。日常にちじょうとしてのリハビリテーションで目指めざされるのがこれである。それは職業しょくぎょう自立じりつ前提ぜんていともされるが、経済けいざいてき自立じりつはもはや不可能ふかのうだが日常にちじょう生活せいかつ動作どうさにおいて自立じりつできる範囲はんいがあるとされるときもある。この場合ばあいにはしばしば、日常にちじょう生活せいかつ動作どうさにおける自立じりつ経済けいざいてき自立じりつ不可能ふかのうだいする価値かちとされることになる。
 これらの自立じりつ優先ゆうせんする目標もくひょうとされるとき、そのいずれもが容易よういでないひと自立じりつ困難こんなんひととされ、社会しゃかいてき支援しえん外側そとがわかれることにもなる。これらのいずれでもない自立じりつが、1970年代ねんだいはじまる障害しょうがいしゃの「自立じりつ生活せいかつ運動うんどう」で主張しゅちょうされる。それは自己じこ決定けっていけん行使こうしとして一般いっぱんとらえられる。すなわち、介助かいじょなど種々しゅじゅ手助てだすけが必要ひつようであればそれを利用りようしながら、みずからの人生じんせい生活せいかつのありかたみずからによって決定けっていし、みずからがのぞ生活せいかつ目標もくひょう生活せいかつ様式ようしき選択せんたくしてきることを自立じりつとする。
 ただ、事実じじつそくするなら、「自立じりつ生活せいかつ」とは、親元おやもと施設しせつからはなれ、ひとまずは一人ひとりらすこと自体じたいした。そのために「自立じりつ生活せいかつセンター」を設立せつりつし、「自立じりつ生活せいかつプログラム」を提供ていきょうし、生活せいかつ実際じっさい可能かのうにする介助かいじょ介護かいごシステムの確立かくりつ目指めざした。それを自己じこ決定けっていする生活せいかつへの移行いこううことはできる。しかし、かれらが具体ぐたいてき生活せいかつ仕方しかたをもって自立じりつ生活せいかつ)とび、自己じこ決定けってい自律じりつ(autonomy)、(としての自立じりつ)を最初さいしょ唯一ゆいいつ原則げんそくとすることにかならずしも同意どういしなかったことは示唆しさてきである。従属じゅうぞく保護ほごからのがれてらすことと、自己じこ決定けってい達成たっせいすべき目標もくひょうとする生活せいかつおくること、この微妙びみょう差異さい重要じゅうようである。かれらはその意義いぎ積極せっきょくてき規定きていせず、「ただしい」生活せいかつしめそうとはしない。普通ふつう状態じょうたい普通ふつう実現じつげんすることをあくまで要求ようきゅうし、同時どうじに、普通ふつう普通ふつうとされないことの意味いみうた。たいていの生活せいかつかくたる目標もくひょうなどないことをわきにおき、ことが「福祉ふくし」となると、このましくただしい状態じょうたいとしてたとえば「自立じりつ」をかたってしまうことの奇妙きみょうさの自覚じかくがここにはある。その運動うんどうは、施設しせつやすのが福祉ふくしであり、家族かぞくによる保護ほご基本きほんてきのぞましいものとする社会しゃかいにあって、それとことなることを実現じつげんしようとしたてん画期的かっきてきだったが、もうひとるべきは、自立じりつだの自己じこ決定けっていだのをなにかたいそうなものにまつりあげないその姿勢しせい意味いみである。
 【自立じりつ支援しえん?】このような経路けいろて、自立じりつとう本人ほんにんたちにおいても、看板かんばんとして使つかわれる肯定こうていてきかたりになった。ただ、社会しゃかい全般ぜんぱんが、このみっつをて、ひとふたおもみをかるくし、みっについても大切たいせつにしつつ一定いってい距離きょりくようになった、わけではまったくなかった。
 まず、高齢こうれいしゃの「自立じりつ支援しえん」とは、さすがにしょくくことはもとめられないとして、つまりは身辺しんぺん自立じりつであり、早期そうきリハビリテーションであり、介護かいご予防よぼうであり、筋力きんりょくトレーニングである。機能きのう回復かいふくのない障害しょうがいことなって、のう血管けっかん障害しょうがいとう場合ばあい早期そうきのリハビリテーションが有効ゆうこうなことはたしかにある。それにしても、自分じぶん身体しんたいをなおして使つかえるようにすることとべつ方法ほうほうもちいることの損得そんとくを、本人ほんにんにおいて、きちんとはかるべきだという提起ていきはここでまえられているだろうか。
 そして依然いぜんとして自立じりつ主流しゅりゅうだいいち意味いみでの自立じりつであり、むしろこの自立じりつ強調きょうちょうつよまりもする。福祉ふくし国家こっか批判ひはんしそれをえるとしょうする主張しゅちょうなかで、福祉ふくし政策せいさくめ「自己じこ責任せきにん」の原則げんそくることで、福祉ふくし政策せいさくによって衰退すいたいしつつある自立じりつ自助じじょ精神せいしん再建さいけんし、財政ざいせい危機きき解消かいしょう経済けいざい活性かっせいできるなどとかたられるときにも、おな意味いみ自立じりつかたりもちいられている。若年じゃくねんしゃ公的こうてき扶助ふじょ受給じゅきゅうしゃたいする「自立じりつ支援しえん」とは、まず、そのひとたちをしょくかせることを目指めざおこないである。むろん、現場げんばでは、政治せいじてき財政ざいせいてき目論見もくろみによってではなく、支援しえんしゃ使命しめいかん善意ぜんいから、その支援しえんおこなわれているのではあろうし、すくなからず効果こうかのあることもたしかにあろう。しかし、障害しょうがい関係かんけいする場合ばあいとそうではない場合ばあい事情じじょうちがいはあるとしても、そんな支援しえんをされたところで仕事しごとはやはりない、すくなくともよい仕事しごとがない場合ばあいがある。そしてその場合ばあいの「責任せきにん」はやはり、そしてえる障害しょうがいがある場合ばあいよりさらに、みずからがわされることになる。
 そして「障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえんほう」(2006ねん施行しこう)である。当人とうにんたちに肯定こうていてきかたりとなったかたりかんしているが、それは同時どうじに、だいいちだいの、より普通ふつうけのよい意味いみでの自立じりつをもしているだろう。しかし、つまりは財政ざいせいてき要請ようせいはっしてつくられたこのほうは、すべての意味いみでの自立じりつをむしろさまたげることになると、おおくのひとめられた。どんな生活せいかつが、そのための支援しえんが、基本きほんてきもとめられるのかを確認かくにんしと、なぜそれが困難こんなんなこととされてしまうのかを見定みさだめ、困難こんなん(とされるもの)をはいすることが、まっとうな自立じりつ支援しえんであるはずである。

白石しらいし 嘉治よしはる立岩たていわ しん也 2006/12/01 「自立じりつのために」,現代げんだい思想しそう』34-14(2006-12):34-57

 「「障害しょうがいしゃ自立じりつ支援しえんほう」という名前なまえ法律ほうりつになっていますけど、さまざまに心地ここちわるいところがあります。あとでうようにいまこっていることは単純たんじゅんなんですが、自立じりつって言葉ことば説明せつめいしだすとながくなります。
 自立じりつ independence という言葉ことばは、いちきゅうはち〇〜きゅう年代ねんだい、もっとさかのぼればなな年代ねんだいから、運動うんどうのスローガンとしてありました。教科書きょうかしょてきうと、それ以前いぜんかせげていち人前にんまえという自立じりつがあり(経済けいざいてき職業しょくぎょうてき自立じりつ)、つぎかせげなくてもまわりのことができるようになっていち人前にんまえという自立じりつがあり(身辺しんぺん自立じりつ日常にちじょう生活せいかつ動作どうさ=ADLの自立じりつ)、そのいずれでもないものとして、自分じぶんらしを自分じぶんめて他人たにんりてやっていくという自立じりつてきたということになっています。
 「自立じりつ生活せいかつ運動うんどう」とかわれるとき自立じりつはこっちです。これはよいです。最初さいしょふたつにくらべるとよほどよい。けれど、自立じりつ自律じりつ独立どくりつをどの程度ていどのものと見積みつもるかという問題もんだいのこる。そんなことがあって、その「自立じりつ生活せいかつ」のことをいたわたしたちのほん(『なま技法ぎほう』、安積あさか純子じゅんこ藤原ふじわら書店しょてん)では「自立じりつ」という言葉ことばだい使つかってないんです。「いえ施設しせつらす障害しょうがいしゃ社会しゃかいがく」が副題ふくだいです。そのほう現実げんじつそくしていたともおもっています。つまりそのひとたちにとって「自立じりつ」って、家出いえでして、施設しせつからもげてきて、とにかくらすっていうもので、施設しせつではない、おやがかりではない、というふうに、消極しょうきょくてき規定きていされるもので、それが重要じゅうようなところだったとおもっています。きるためのわざ様々さまざまありますが、なま自体じたいはなにかに規定きていされるようなものではないということです。このあたりについては『よわくある自由じゆうへ』(青土おうづちしゃ所収しょしゅうのいくつかの文章ぶんしょうにもきました。
 ただ、自己じこ決定けっていとしての自立じりつ、というのはとりあえずとおりがよいし、もっともでもある。さらに、それ以前いぜんの、相対そうたいされ批判ひはんされもした、かねかせぐ、機能きのう回復かいふく獲得かくとくするという意味いみでの自立じりつ実際じっさいにはないまぜになって、なんかよい意味いみ言葉ことばとして流通りゅうつうつづけるわけです。ですからそれが法律ほうりつ名前なまえにかぶっているということは、不思議ふしぎではないといえば不思議ふしぎではない。
 ただ、このたびのほうが、つよ反対はんたいいつつ、提案ていあんされとおされたのは、非常ひじょう単純たんじゅんにおかねがらみの事情じじょうからです。かせいでいち人前にんまえ、という「ふるい」自立じりつもどっているというとらかたもあるかもしれないけれども、まともに就労しゅうろう支援しえんしようということもない。曖昧あいまいによいものとされる「自立じりつ」というかたりがとにかくかんしてあるということでしかないとおもいます。
 そしてこれは、〇〜さんねんやってきた運動うんどうの、ポジティブな結果けっかたいする反動はんどうという部分ぶぶんがあるとおもうんです。なな年代ねんだいからきゅう年代ねんだいにかけて、いろんなところでいろんなものを、「れるものはろう」というかたちでゲリラてき獲得かくとくし、それがだんだんひろがり、量的りょうてきにも拡大かくだいしていった。それにたいしてわくをかけて基準きじゅんつくって、そうわくとしておかねのかけかたらしましょうという、ってみればただそれだけのうごきであるというがするんですよね。いままであった様々さまざまなサービスにたいして一定いってい自己じこ負担ふたんもとめるというようなかたちで、おかねかた抑制よくせいしましょうという。
 いまているながれというのはそれだけだし、そしてそれだけになかなかしんどいということだとおもいます。一本いっぽんしかすじがないなかで、そこをどのようにけるか。かなりしんどい状況じょうきょうにはなっているとおもうんですよ。
 だから、なな年代ねんだいはち年代ねんだいというのは、いろいろなものがりなくて、ぼくっているひとたちはみんな苦労くろうをして大変たいへんだったんだけれども、やっていることに間違まちがいはないし、それをどんどんひろげていこうとしていた。それは中央ちゅうおう官庁かんちょうかられば、なんだかよくわからないうごきでもあって、いろんなところから五月雨さみだれしきてきて、それがひろがっていくという、ある意味いみではしあわせな時代じだいというか、自分じぶんたちがうごいたぶんだけ、今日きょうより明日あしたすこしはまともになるということだったとおもいます。この地域ちいきではここまですすんだから、地域ちいきではまだすすんでいなければ、交渉こうしょうのやりかたおしえにって、そのとおりにやるといままでなかったものができて、というようなことが全国ぜんこくにだんだんとこっていった。その意味いみではあかるいというか、ポジティブというか、そういううごきだったとおもいます。
 それが部分ぶぶんてきにかなりいいところまでったんですよ。介助かいじょ介護かいご制度せいどについて、結果けっかとして獲得かくとくされた水準すいじゅんは、福祉ふくし先進せんしんこくとされるくにふくおおくの国々くにぐによりまともなものです。これは確認かくにんしておく必要ひつようがある。それゆえに、それだけが理由りゆうでないとしても、たとえばALS(すじ萎縮いしゅくせいがわさく硬化こうかしょう)といったおも障害しょうがいひとなずにすむ割合わりあいくにくらべたらたかいんです。いいところまでったために、それにたいしてわくをはめましょうというのが、医療いりょうふくめた福祉ふくしサービスでこっている。そういう意味いみでは非常ひじょう古典こてんてきな、かねをかけるのがいや領域りょういきにかかるかねをどうやってらすかというときに、野蛮やばんな、利用りようりょうをとるであるとか、だれでもかんがえつくようなさくろうして、それに自立じりつ支援しえんほうという名前なまえかんしているということなんじゃないかなとおもっているんですけれどもね。」(立岩たていわ発言はつげん部分ぶぶん

立岩たていわ しん也 1999/05/15 「自立じりつ」,『福祉ふくし社会しゃかい事典じてん』,弘文こうぶんどう

 自分じぶんかかわることを自分じぶんめること。思想しそうてき説明せつめいとしては、19世紀せいき後半こうはん宗教しゅうきょうてき政治せいじてき干渉かんしょう否定ひていして個人こじん自由じゆう主張しゅちょうしたJ.S.ミルとうろんから紹介しょうかいはじめられることがおおい。社会しゃかいなかみずからの存在そんざい決定けっていみとめられてこなかった人々ひとびと権利けんりとしてこれがつよ主張しゅちょうされるようになり、スローガンとして使用しようされるようになるのはだい世界せかい大戦たいせん以後いごである。医療いりょう領域りょういきでは、大戦たいせん反省はんせいもふまえ医療いりょう行為こうい人体じんたい実験じっけんについて本人ほんにん同意どうい必須ひっすとされるようになり、さらに医療いりょう消費しょうひしゃ運動うんどうとしてこれが主張しゅちょうされるようになる。日本にっぽんでは、法学ほうがくせつとしては1960年代ねんだい判例はんれいが1970年代ねんだい以降いこうられるが、利用りようしゃ運動うんどうなか自己じこ決定けっていかたりおおきな位置いちめるのはそれよりのちになる。社会しゃかい福祉ふくし領域りょういきでも、クライエントが自分じぶん判断はんだんみずからの方針ほうしんめるというケースワークじょう原則げんそくとしては以前いぜんからあったが、決定けってい主体しゅたいたるべき人々ひとびと自身じしん主張しゅちょうすのは1970年代ねんだい言葉ことばとして多用たようされすのは1980年代ねんだいはいってからになる。社会しゃかい運動うんどう領域りょういきにおいては、女性じょせい運動うんどうたとえば1970年代ねんだい、1980年代ねんだい優生ゆうせい保護ほごほう改定かいていへの反対はんたい運動うんどう自己じこ決定けっていひとつの中心ちゅうしんえたのが、日本にっぽんでは先駆せんくてきだった。こうしてこのかたり次第しだい様々さまざま主張しゅちょう中核ちゅうかくはいってきたのだが、同時どうじに、なにみずからが決定けっていできるみずからにかかわることとするのか、自己じこ決定けってい主張しゅちょう総体そうたいのどこに位置いちづけるのかといったいもかえわれ、議論ぎろんはまだわっていない。

立岩たていわ しん也 2003/01/20 「自己じこ決定けってい」,石塚いしづか正英まさひで柴田しばた隆行たかゆきへん哲学てつがく思想しそう翻訳ほんやく辞典じてん』,ろんそうしゃ,p.120

 自己じこ決定けっていえい)self-determination, autonomy
 単一たんいつ原語げんごがあり単一たんいつ経路けいろとおって日本語にほんごとして定着ていちゃくしたとはかんがえにくい。このかたりは、輸入ゆにゅうされたというより必然ひつぜんてき採用さいようされ、同時どうじに、とく欧米おうべい思想しそうじょう規定きてい近代きんだい社会しゃかい構成こうせい原理げんりとしての位置いちづけが懐疑かいぎされているかたりである。
 【原語げんご意味いみ】「自律じりつ」autonomy, Autonomie のカントとうにおける意味いみ、J.S.ミルの『自由じゆうろん』における記述きじゅつ(「自由じゆう」のかたりほかかれは「独立どくりつ」independence、自分じぶん身体しんたい精神せいしん「にたいして主権しゅけんしゃである」sovereign overといった表現ひょうげんもちいている)とうについてはすでおおろんじられている。近代きんだい社会しゃかいでの人間にんげんのありかた基本きほんにある原理げんりとされ、たとえばえいべいのバイオエシックスの議論ぎろんでも(patient) autonomyは中心ちゅうしんてき概念がいねんであり、おおくは「自律じりつ」とやくされる。同時どうじに、その社会しゃかいにあってそれが獲得かくとくされない部分ぶぶんにこの言葉ことばあらわれる。社会しゃかいなかみずからの存在そんざい決定けっていみとめられてこなかった人々ひとびと権利けんりとして主張しゅちょうされるのである。このことは、近代きんだい社会しゃかいとこの概念がいねんとを直線ちょくせんてきむすびつけるべきでないこともしめしている。self-determinationのかたりはそれほど頻用ひんようされないが、まず「民族みんぞく自決じけつけん」とやくされるright of peoples to self-determinationのかたりとくだい世界せかい大戦たいせん植民しょくみん唱導しょうどうするかたりとしてもちいられた。に、1991ねん米国べいこく制定せいていされたThe Patient Self-Determination Actとうにこのかたりえる。
 【翻訳ほんやく意味いみ医事いじ法学ほうがく先駆せんくしゃ第一人者だいいちにんしゃであるうたこういちの1965ねん論文ろんぶん(「治療ちりょう行為こういにおける患者かんじゃ承諾しょうだく医師いし説明せつめい」『契約けいやく法大ほうだいけいまき、1965ねんがつ有斐閣ゆうひかくうた医事いじ法学ほうがくへのあゆみ』、1970ねんがつ岩波書店いわなみしょてんだいしょう医事いじほうそこにあるもの」にさいろく)のなかで、医療いりょう行為こういについての患者かんじゃのpersonale Selbstbestimmungの訳語やくごとして「個人こじん自己じこ決定けっていけん」が使つかわれている。松田まつだ道雄みちおの1969ねん文章ぶんしょうなかには「かたについて、とやかくひとから指図さしずしてもらいたくない、自分じぶんのことは自分じぶんできめるというのを、法律ほうりつのことばで自己じこ決定けっていけんというのだそうです」(「基本きほんてき人権じんけん医学いがく」『世界せかい』1969ねんがつごう)という文言もんごん見当みあたる。この原則げんそく法学ほうがく判例はんれいなか次第しだい定着ていちゃくしていく。日本語にほんごとしてわかりやすくもあったのだろう、言葉ことばとしてもよく使つかわれるようになる。どう時期じき米国べいこくとうでは患者かんじゃ権利けんりのための運動うんどうさかんになり、そこで主張しゅちょうされたpatient autonomyが「患者かんじゃ自己じこ決定けっていけん」とやくされたのだともされるが、この経路けいろだけがあったのではないようだ。
 また社会しゃかい福祉ふくし領域りょういきでは以前いぜんから、クライエントが自分じぶん判断はんだんみずからの方針ほうしんめるというケースワークじょう原則げんそくとして自己じこ決定けっていself-determinationの原則げんそくとなえられていた。ただ、サービス提供ていきょうしゃがわ倫理りんり原則げんそくとしてではなく生活せいかつするみずからのありかたかかわる原則げんそくとして、とくに障害しょうがいしゃ社会しゃかい運動うんどうなかで、決定けってい主体しゅたいたるべき人々ひとびと自身じしんによって主張しゅちょうされすのは、内容ないようとしては1970年代ねんだい言葉ことばとして多用たようされるのは1980年代ねんだいはいってからになる。また女性じょせい運動うんどうでも、たとえば1970年代ねんだい、1980年代ねんだい優生ゆうせい保護ほごほう改定かいていたいする反対はんたい運動うんどうで「まないはおんなめる」といったスローガンがかかげられるのだが、すくなくとも当初とうしょ、「自己じこ決定けっていけん)」というかたり自体じたいえない。この熟語じゅくごすこおくれてやってきて定着ていちゃくする。そして、これらの主張しゅちょう運動うんどうはみな、ある程度ていど相互そうご独立どくりつ世界せかい各地かくちでほぼ同時どうじこっていて、その意味いみでもこのかたり翻訳ほんやくとのみほぐせるかどうか微妙びみょうである。
 そしてこのかたり日本にっぽんにおける位置いちについて注意ちゅういすべきは、この言葉ことば旗印はたじるしとしてかかげられるのと同時どうじに、ときには旗印はたじるしとしてかかつよ主張しゅちょうするそのおなじんによって、ためらいや懐疑かいぎ表明ひょうめいされていることである。それは、基本きほんてきには、みずか決定けっていすること、みずからをみずからでりっすること、りっすることができることをだいいち価値かちとしてよいのかという、カントてき自律じりつ概念がいねんげかけられるいかけである。具体ぐたいてきいとしては、たとえば、「自己じこ決定けってい」とってえなくはない「安楽あんらく」はそのまま肯定こうていされるべきものなのか、自己じこ決定けってい能力のうりょく十分じゅうぶんでないひと位置いちはどうなるのか、ひとし

立岩たていわ しん也 2006/12/15 「自己じこ決定けってい」,『現代げんだい倫理りんりがく事典じてん』,弘文こうぶんどう

 みずからに固有こゆうかかわることを自分じぶんめること。むろん、これだけで権利けんり範囲はんいまるかといった問題もんだいみになってこの言葉ことばはある。そのことを確認かくにんするためにもこのかたり使用しようれき概観がいかんする。
  「民族みんぞく自決じけつけん」とやくされるright of peoples to self-determinationのかたりとくだい世界せかい大戦たいせん植民しょくみん唱導しょうどうするかたりとしてもちいられた。また社会しゃかい福祉ふくし領域りょういきでは以前いぜんから、クライエントが自分じぶん判断はんだんみずからの方針ほうしんめるというケースワークじょう原則げんそくとして自己じこ決定けっていself-determinationの原則げんそくとなえられていた。に、1991ねん米国べいこく制定せいていされたThe Patient Self-Determination Actとうにこのかたりえる。ただ英語えいごでself-determinationのかたりはそれほど使つかわれない。むしろ、おおく「自律じりつ」とやくされるautonomyが自己じこ決定けってい対応たいおうするかたりとして頻用ひんようされる。たとえばえいべいのバイオエシックスの議論ぎろんでも(patient) autonomyは中心ちゅうしんてき概念がいねんとされる。思想しそうてき説明せつめいとしては、19世紀せいき後半こうはん宗教しゅうきょうてき政治せいじてき干渉かんしょう否定ひていして個人こじん自由じゆう主張しゅちょうしたJ.S.ミルの『自由じゆうろん』から紹介しょうかいはじめられることがおおいが、自律じりつはさらにさかのぼり、近代きんだい社会しゃかいでの人間にんげん社会しゃかいのありかた基本きほんにある原理げんりである。
 同時どうじに、この社会しゃかいなかみずからの存在そんざい決定けっていみとめられてこなかった人々ひとびと権利けんりとしてそれは主張しゅちょうされる。医療いりょう領域りょういきでは、人体じんたい実験じっけんへの批判ひはんなかで、また医療いりょう消費しょうひしゃ運動うんどうから、これが主張しゅちょうされるようになる。そこで主張しゅちょうされたpatient autonomyが「患者かんじゃ自己じこ決定けっていけん」とやくされたのだともされるが、この経路けいろだけがあったのではないようだ。これらの主張しゅちょう運動うんどうはみな、ある程度ていど相互そうご独立どくりつに、世界せかい各地かくちでほぼ同時どうじこっている。日本にっぽんでは、法学ほうがくせつとしては1960年代ねんだい判例はんれいが1970年代ねんだい以降いこうられるが、利用りようしゃ運動うんどうなか自己じこ決定けっていかたりおおきな位置いちめるのはそれよりのちになる。女性じょせい運動うんどうたとえば1970年代ねんだい、1980年代ねんだい優生ゆうせい保護ほごほう改定かいていへの反対はんたい運動うんどうで「まないはおんなめる」といったスローガンがかかげられる。ここではすくなくとも当初とうしょ自己じこ決定けっていけん)というかたり自体じたいえない。この熟語じゅくごすこおくれてやってきて定着ていちゃくする。サービス提供ていきょうしゃがわ倫理りんり原則げんそくとしてではなく、生活せいかつするみずからのありかたかかわる原則げんそくとして決定けってい主体しゅたいたるべき人々ひとびと自身じしん主張しゅちょうすのは1970年代ねんだい言葉ことばとして多用たようされすのは1980年代ねんだいはいってからになる。このかたりは、翻訳ほんやくというより日本語にほんごとしてわかりやすくもあったのだろう、よく使つかわれるようになり、様々さまざま主張しゅちょうなかはいってきた。
 こうして、近代きんだいのまったく正統せいとうてき主張しゅちょうでありながら、世紀せいき後半こうはんになって、それは、あたらしく、周辺しゅうへんからわれたことでもある。まず、このことをどう理解りかいするかが大切たいせつである。
 これまでのこされ、決定けっていすることがみとめられていなかったから主張しゅちょうされる。その理由りゆういくつかあるが、ひとつには、自分じぶんぶんえるだけがめられるぶんだという規則きそく価値かちのもとで、めることができなかったひとたちが主張しゅちょうしたということである。とすれば、その権利けんりはいわゆる自由じゆうけんにとどまるものでないことが確認かくにんされるべきである。つまり、めるためには、めたことを実現じつげんするには資源しげんがいる、それを権利けんりがあるとわれているのである。とすれば、このかぎりでは社会しゃかいけん生存せいぞんけんばれる系列けいれつぞくする権利けんりでもある。
 もうひとつ、このかたりの、とくに日本にっぽんでの議論ぎろんについて注目ちゅうもくすべきは、この言葉ことば旗印はたじるしとしてかかげられるのと同時どうじに、ときには旗印はたじるしとしてかかつよ主張しゅちょうするそのおなじんによって、ためらいや懐疑かいぎ表明ひょうめいされていることである。なにみずからが決定けっていできるみずからにかかわることとするのか、自己じこ決定けってい主張しゅちょう総体そうたいのどこに位置いちづけるのかといった、まったく倫理りんりてきいがかえわれてきた。
 それは、ひとつに、みずか決定けっていすること、みずからをみずからでりっすること、りっすることができることをだいいち価値かちとしてよいのかといういかけである。りっすることができること、あるいは身体しんたいうごかせなくとも、知的ちてき統御とうぎょすることができることをいち番目ばんめいてよいのかがわれ、それを否定ひていする主張しゅちょうがあった。
 またひとつに、なに自分じぶんめる範囲はんいであるのかである。まれるのありかためることはどうか。普通ふつうかんがえれば自分じぶんのことをめているとはえないはずだ。しかしそのような場面ばめんでもこの言葉ことばもちいられる。それは間違まちがっていないか。そしてそのことと生殖せいしょくかかわる女性じょせい決定けっていけんとはどう関係かんけいするのかといった問題もんだいけいがある。
 さらにひとつ、たしかにあることがそのひと固有こゆうのことであるとして、そのことについていつもそのひとうとおりにめることをみとめてよいかという問題もんだいがある。この社会しゃかいでのらしかためられないひとたちの主張しゅちょうというより、その社会しゃかいなかでの「尊厳そんげん」を維持いじ保守ほしゅするために、みずからの生命せいめいわらせる決定けってい、「自己じこ決定けってい」としての「安楽あんらく」はそのまま肯定こうていされるべきなのか。このような問題もんだいぐんがこのかたりめぐってある。

立岩たていわ しん也 2008/01/15 「自己じこ決定けってい」,『応用おうよう倫理りんりがく事典じてん』,丸善まるぜん

 英語えいごでself-determinationのかたりはそれほど使つかわれず、おおく「自律じりつ」とやくされるautonomyが頻用ひんようされる。それは、A:近代きんだい社会しゃかい人間にんげんのありかた基本きほんにある原理げんりである。だが同時どうじに、B:この社会しゃかいなかみずからの存在そんざい決定けっていみとめられてこなかった人々ひとびと権利けんりとして、あらたに主張しゅちょうされた。日本にっぽんで、医療いりょう福祉ふくし提供ていきょうしゃがわ倫理りんり原則げんそくとしてではなく、生活せいかつするみずからのありかたかかわる原則げんそくとして主張しゅちょうされすのは1970年代ねんだい言葉ことばとして多用たようされすのは1980年代ねんだいはいってからになる。そしてこのかたりは、翻訳ほんやくというより日本語にほんごとしてわかりやすくもあったのだろう、よく使つかわれるようになり、様々さまざま主張しゅちょうなかはいってきた。
 【ふたつの自己じこ決定けってい】こうして、自己じこ決定けってい近代きんだい正統せいとう主張しゅちょうでありながら、20世紀せいき後半こうはんになって、あらためてつよく、社会しゃかい周辺しゅうへんされた部分ぶぶんから主張しゅちょうされた。このことからもうかがわれるが、この言葉ことば単一たんいつのものをしていない。
  自己じこ決定けっていとは、みずからに固有こゆうかかわることを自分じぶんめること、ということになろう。だが、これだけで権利けんり範囲はんいまるか、なに自分じぶんめる範囲はんいなのかといった問題もんだいがむろんここにはある。このいは社会しゃかい規範きはん総体そうたいうことにちかい。そのなかで、それがどのように実現じつげんされてよいのかといういにもかかわるひとつの論点ろんてん確認かくにんする。Bは、自力じりきでできるふん自分じぶんめられるぶんだという規則きそく価値かちのもとではめることができなかったひとたちが主張しゅちょうした。とすれば、その権利けんりはいわゆる自由じゆうけんにとどまるものでない。つまり、めるため、そしてめたことを実現じつげんするには、資源しげんがいる、それを権利けんりがあるとわれているのである。とすれば、Bにおける自己じこ決定けってい権利けんりは、社会しゃかいけん生存せいぞんけんばれる系列けいれつぞくする権利けんりでもある。このことをみとめるかみとめないかで、この権利けんり近代きんだいてき所有しょゆうけん系列けいれつぞくする(A)のか、それをえたものであるか、ちがってくる。
 つぎに、なぜそれは大切たいせつなのか。ひとつに、自分じぶんのことをめられること、自分じぶんかたみずからが統御とうぎょできることこそがひとひとである価値かちであるというかんがかたがある。これが近代きんだい正統せいとうてき把握はあくである(A)。それは、いまだ/すでに/つねめられないひと正規せいきひと範疇はんちゅうから除外じょがいすることにもなる。また、そのひとたちについての正規せいきひとたちによる決定けってい当然とうぜんのことともされる。たとえばまれるのありかたおやめることは自分じぶんのことをめているとは当然とうぜんえないのだが、しかしそんな場面ばめんでもこの言葉ことばもちいられてしまうのには、このことがかかわっている。
 それとはべつ位置いちづけもある。とくに日本にっぽんでの議論ぎろんについて注目ちゅうもくすべきは、この言葉ことばあたらしくあらわれたとき(B)、それが旗印はたじるしとしてかかげられたと同時どうじに、ときには旗印はたじるしとしてかかつよ主張しゅちょうするそのおなじんによって、ためらいや懐疑かいぎ表明ひょうめいされていることである。自己じこ決定けっていつよ主張しゅちょうされるが、同時どうじにそれはひときてらすことの一部いちぶとして主張しゅちょうされる。また、きてらすための有効ゆうこう手段しゅだんとして主張しゅちょうされる。つまり、おおくの場合ばあい自分じぶんにとってよいことは他人たにんより自分じぶんほうっている。他方たほう他人たにんゆだねるなら他人たにん都合つごうめられてしまう。だから自分じぶんめようというのである。ここでは、決定けってい決定けってい能力のうりょくは、ひと価値かち規定きていするためにひとより上位じょういにあるものでなく、ひと存在そんざい価値かち一部いちぶ位置いちづけられる。
 そして、AとBのしゃ差異さいは、たしかにあることがそのひと固有こゆうのことであるとして、そのことについていつもそのひとうとおりにめることをそのままにれてよいかという問題もんだい、パターナリズムをめぐ問題もんだいべつこたえしめすことになる。前者ぜんしゃであれば、それをそのままにれるものとされる。もちろんそこでも、決定けっていかかわる、あるいは決定けっていそのものに内在ないざいする社会しゃかい状況じょうきょう社会しゃかいてき価値かち不問ふもんにできるのかという疑問ぎもんしめされるのだが、そのこたえは、状況じょうきょう左右さゆうされない純粋じゅんすい個人こじんてき決定けっていという現実げんじつにはまず存在そんざいしない決定けっていをあるとするか、あるいは、どんな決定けっていでもそのひと決定けっていだからみとめるとするか、いずれかになる。
 他方たほう、この社会しゃかいでのらしかためられないことに抗議こうぎして自己じこ決定けってい主張しゅちょうしたひとたち(B)は、たとえば、「自己じこ決定けってい」としての「安楽あんらく」をそのままにみとめることを躊躇ちゅうちょした、あるいは否定ひていした。これを主張しゅちょう一貫いっかんせいのなさととらえるか、ぎゃくるかである。一貫いっかんしている、とすることができる。そのひとたちは、自己じこ統御とうぎょ優位ゆういき、さらに能動のうどうてき生産せいさんしゃであることを優位ゆうい社会しゃかいにおいて、そして、そこからはずれるひとたちが現実げんじつ資源しげん配分はいぶんにおいても不利ふり位置いちかれるなかで、その社会しゃかいなかで「尊厳そんげん」を維持いじ保守ほしゅするためにのうとする決定けってい、またみずからのむずかしさや身近みぢかものたちの負担ふたんおもってなされる決定けっていれることはできないとかんがえた。なぜなら、その決定けっていは、自己じこ決定けってい尊重そんちょうされるべきその根拠こんきょであるその自己じこ存在そんざい毀損きそんする社会しゃかい価値かち現実げんじつなかでなされる、その存在そんざい毀損きそんすることになってしまう決定けっていであるからである。
 【現在げんざいのために】こうして、ただ自己じこ決定けっていえばなにごとかにへんくわけではない。この言葉ことば自体じたい争点そうてん形成けいせいしている。そしてこの認識にんしき現在げんざいではより重要じゅうようである。というのも、この言葉ことば次第しだい一般いっぱんしどこでも使つかわれるようになるなかで、それは、がたひとやすくあろうとして使つか言葉ことばであるより、自分じぶんでなくこれからあらわれる他人たにんのことをめることを正当せいとうする言葉ことばとして使つかわれたり、この社会しゃかいにいるゆえにみずからの存在そんざい否定ひていすることを、社会しゃかいがそのままにれ、負担ふたん回避かいひすることに痛痒つうようかんじなくさせる言葉ことばとしてひろ流通りゅうつうするようになっているからである。自己じこ決定けってい大切たいせつなものとして主張しゅちょうしてきたひとたちが、おな言葉ことばによって、かえってみずからが簒奪さんだつされてしまっているようにかんじている。そのことの意味いみまえることが、この言葉ことば使つかとき必要ひつようである。

立岩たていわ しん也 2008/09/05 筑摩書房ちくましょぼう,374p. \2940

だいしょう わたし
1 わたしのことである、しかし
 1 ろんんでみることについて
 2 めることが大切たいせつであること
 3 至上しじょうのものではないこと
 4 そのままれないことを不正確ふせいかくないいかた
 5 れられないことがある理由りゆう
2 困難こんなん
 1 介入かいにゅうという危険きけん
 2 よりおおきな困難こんなん
 3 ふたた選択せんたくについて
3 がいさないわたしのことか
 1 いくらか内在ないざいしてかんがえてみる
 2 自分じぶんのために自分じぶんめているというせつについて
 3 がいしてはいないというせつについて


UP:20090211 REV:
立岩たていわ しん  ◇Shin'ya Tateiwa
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