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立岩真也「差異・好悪・美醜(『自閉症連続の時代』補章より)――「身体の現代」計画補足・74」
last update:2015
『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
の補章「争いと償いについて」のはじめのところから引用を始め、10回めになる。
これまでの9回については
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
をご覧ください。今回の(いくつかリンク付の)HP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152074.htm
本文を順番に載せるのは諦め、その補章の註を掲載することにした。
なお以下に述べていることは河出書房のサイトで始めて完全に止まってしまっている
http://mag.kawade.co.jp/shakaigaku/
『現代思想』に連載中のことに関わる。そこでは具体的なできごとをあげてもいる。以前にもふれたユージンスミスの写真のことについて連載114
http://www.arsvi.com/ts/20150114.htm
そして115
http://www.arsvi.com/ts/20150115.htm
ただその連載のここ2回は近刊の拙著関連の話になっている。その本の紹介は後ほどということで、10月号分(116)は
http://www.arsvi.com/ts/20150116.htm
11月号分(118)は
http://www.arsvi.com/ts/20150117.htm
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「☆09 公害や薬害への批判においては、基本的には、人を害することをしてはならないという単純なことが主張されたのであり、それでよい、それに尽きるのではある。ただその中に現れた問題がこの問題だった。被害者を負の存在にしている、否定しているのではないか、それでよいのか。それが問われた。障害者は負の存在ではない。このことが主張された。
まず、誰もがすぐに思い言うことは、その人の様態とその人の存在は同じでなく、その様態の一部を否定することはその人を否定することではないということだ。ただこのことを確認するだけでは十分ではない。「ないにこしたことはない、か・1」[2002b]で考えてみた。また『良い死』[2008a]の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」でもこのことについていくらかを記した。また第7章に記したのもそのことである。
まず、身体に苦痛を与えることはよくない。それはなくすか、それができなくとも軽減すればよい。次に、動かないこと、機能的な障害があることについては、そのこと自体が、あるいはそのことが当人において、常に自明によくないことだとは必ずしも言い切れない。機能にも他の手段(例えば他人による介助・介護)によっては代替不可能あるいは困難な部分はあるから、やはり自分でできるならその方がよいという部分は残るだろう。しかしそれは全部ではない。機能障害は本人よりむしろ他人たちにとって不都合なことがあること、しかしそれがもっぱら本人の不都合・不幸として語られてしまうことに留意するべきである。
もう一つ、形姿、美醜、好悪に関わることについて。たしかに、機能・手段の多くについてはその人自身の身体でなく別の手段によって代替可能であり、目的が実現可能であるのに比して、形姿はその人から離れることがなく、そして好悪は、(動く人にとっては)身体を動かそうと思えば動かすことができるほどには随意に動かすことができない。しかしそれにしても、他者に対する好悪が私の側にあること、その私の側にあるものによって他者を裁定すべきでない部分が――好悪によって形成される関係、されるしかない関係があるとともに――ある。それは裁定すべきでないという規範としてあるのでもあるが、同時に、裁定すべきでないという思いが、それぞれの人に具体的に存在するのでもある(『良い死』第2章5節「思いを超えてあるとよいという思い」)。
そして、苦痛・身体の不如意・否定的な感情と何を比較するのかである。例えば、できることはできないことよりよい場合が多いだろう。しかし、できないで生きていることと、死ぬこととが比較され、後者が選ばれることがある。それはおかしなことだ。このことははっきり言える。そしてさらに、(強く)否定しなければ、自分たちが可哀想であることを強調しなければ、得られるべきものを得られないことが問題である。そんなことをできるだけしない方がよい。そのことを述べている。」
「★10 「死や苦痛や不便をもたらした者たちは、それだけで十分に糾弾されるに値する。その者たちを追及するのはよい。ただ、第一に、そのことを言うために、その不幸をつりあげる必要が出てくることがあるとしたら、それはなにかその人たちに対して失礼なことであるように思えるということだ。だから、それはしない方がよいと思うようになったということだ。その状態をよいものとして肯定しているわけではない。しかしそれは死を肯定することではない。その存在を肯定するから、それに死をもたらすものを責めることになる。」(『良い死』[2008b:177])
ここにユージン・スミスが胎児性水俣病の女性を撮った写真が「封印」されることになった経緯に関わる幾つかの引用を連ねた注を置いた。」