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Althusser, Louis[ルイ・アルチュセール]
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Althusser, Louis

ルイ・アルチュセール


アルチュセール勉強べんきょうかい


*◆Althusser, Louis 1965 Pour Marx, Francois Maspero=1968 河野こうの 健二けんじ田村たむらやく 『よみがえるマルクスI』『よみがえるマルクスU』,人文書院じんぶんしょいん  千葉ちば教養きょうようE360,=19940615 河野こうの 健二けんじ田村たむら 俶・西川にしかわ 長夫ながお やく 1965 『マルクスのために』 平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃライブラリー1553,529p. 1553 ※

◆1970 "Ideologie et appareils ideologique d'etat", Pensee 1970-6=1972 西川にしかわ長夫ながおわけ,「イデオロギーと国家こっかのイデオロギー装置そうち──探求たんきゅうのためのノート」,『思想しそう』577(1972-7):114-136,578(1972-8):126-146 ※ →1975 『国家こっかとイデオロギー』、福村ふくむら出版しゅっぱん 1975
 =1993 柳内やないたかしやく,Althusseur et al.[1993:7-111]<253>
◆1978 『自己じこ批判ひはん──マルクス主義まるくすしゅぎ階級かいきゅう闘争とうそう』 福村ふくむら出版しゅっぱん,192p. 西川にしかわ長夫ながおやく 1500 千葉ちばしゃ1728
◆1989 『資本しほんろんむ』 合同ごうどう出版しゅっぱん 5000 千葉ちばしゃ4556
◆1993 『アルチュセールの<イデオロギー>ろん』 三交社さんこうしゃ,225p.


Baribar, Etienne 1991 Ecrites pour Althusser, Editions La Decouverte
 =19941025 福井ふくい和美かずみへんやく 『ルイ・アルチュセール──わりなき切断せつだんのために』,藤原ふじわら書店しょてん,432p. ISBN:4-938661-99-3 \4,660 ※


■ルイ・アルチュセールについて日本語にほんごかれたもの

◆1970
本田ほんだげんはく「アルチュセールのマルクス」
 『研究けんきゅう西日本にしにほん哲学てつがくかい会報かいほう西日本にしにほん哲学てつがくかい だい18ごう 1970.7 p13〜16

◆1974
河野こうの健二けんじ「L・アルチュセール「政治せいじ歴史れきし」ほか――社会しゃかい科学かがく精密せいみつ探求たんきゅうかって」
 『朝日あさひジャーナル』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 16(32) 1974.8.16 p55〜57

◆1975
竹内たけうち良知よしとも今村いまむら仁司ひとしちょ歴史れきし認識にんしき」――アルチュセールをむ」
 『現代げんだい現代げんだい評論ひょうろんしゃ 16(8) 1975.8 p184〜187

◆1976
大枝おおえだ秀一ひでかず現代げんだい哲学てつがくとアルチュセール問題もんだい――政治せいじ哲学てつがく科学かがく関係かんけい構造こうぞうをめぐって」
 『現代げんだい思想しそう青木あおき書店しょてん 23 1976.3 p98〜129

◆1977
田畑たばたみのる「アルチュセールおぼき――マルクス主義まるくすしゅぎ体系たいけいせいをめぐって」
 『富山大学とやまだいがく教養きょうよう紀要きよう 人文じんぶん社会しゃかい科学かがくへん富山大学とやまだいがく教養きょうよう10 1977 p19〜42

◆1978
山本やまもと晴義はるよしわかきマルクスにかんするいち考察こうさつ―4―ルイス―アルチュセール論争ろんそう中心ちゅうしんに」
 『大阪おおさかけいだい論集ろんしゅう大阪おおさかけいだい学会がっかい 121・122 1978.3 p251〜270
加藤かとう晴久はるひさ「アルチュセ-ルと知識ちしきじん党員とういんの「造反ぞうはん」」
 『朝日あさひジャーナル』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 20(23) 1978.6.9 p91〜93
平田ひらた清明きよあき「フランス左翼さよく自己じこ革新かくしん―3―「政治せいじがく批判ひはん」としての国家こっかろんを―アルチュセールの共産党きょうさんとう批判ひはん
 『エコノミスト』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 56(33) 1978.8.22 p108〜114
今村いまむら仁司ひとしマルクス主義まるくすしゅぎ哲学てつがく実現じつげん――L.アルチュセールの場合ばあい
 『理想りそう理想りそうしゃ 544 1978.9 p59〜72
山田やまだみつる「イギリスにおけるアルチュセール学派がくは形成けいせい定着ていちゃく
 『千里山せんりやま経済けいざいがく関西大学かんさいだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅう院生いんせい協議きょうぎかい だい12‐2ごう 1978.12 p59〜108

◆1979
石堂いしどうきよしりん危機ききはどこにあるか――L.アルチュセール「共産党きょうさんとうなかでこれ以上いじょうつづいてはならないこと」,G.モリナ/Y.ヴァルガス「革命かくめい改良かいりょうか」」
 『朝日あさひジャーナル』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 21(23) 1979.6.15 p65〜67
山本やまもと哲士てつし他律たりつ文明ぶんめいたいする自律じりつ文化ぶんかかんがえるためのノート――イリイチ、ハバーマス、アルチュセールをめぐりながら」
 『しん日本にっぽん文学ぶんがくしん日本にっぽん文学ぶんがくかい 34(9) 1979.9 p42〜51

◆1980
山田やまだみつる「イギリスにおけるアルチュセール学派がくは形成けいせい定着ていちゃく〔II〕」
 『千里山せんりやま経済けいざいがく関西大学かんさいだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅう院生いんせい協議きょうぎかい だい13‐1・2ごう 1980.3 p127〜149
高須賀たかすが義博よしひろ「「資本しほんろん」の世界せかい――アルチュセールの「資本しほんろん解釈かいしゃくをめぐって」
 『いちきょう論叢ろんそう日本にっぽん評論ひょうろんしゃ 83(4) 1980.4 p482〜498
佐藤さとう俊一しゅんいち「アルチュセリアンの階級かいきゅう理論りろん――L.アルチュセ-ルからN.プルランツァスヘ」
 『法学ほうがく新報しんぽう中央大学ちゅうおうだいがくほう学会がっかい 87(1・2) 1980.5 p321〜351

◆1981
渡部わたなべとおる山田やまだけい阪上さかうえたかし随想ずいそう印象いんしょうのこること、図形ずけい思考しこう、アルチュセールの狂気きょうき)」
 『人文じんぶん京都大学きょうとだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ だい23ごう 1981.3 p2〜6
平田ひらた清明きよあき「アルチュセールの悲劇ひげき
 『経済けいざい評論ひょうろん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ 30(3) 1981.3 p84〜89
柳内やないたかし「フランスにおける現代げんだい国家こっかろんいち潮流ちょうりゅう――L.アルチュセール、J.ランシェール、E.バリバールを中心ちゅうしんに」
 『ほう政治せいじ関西学院大学かんせいがくいんだいがく法政ほうせい学会がっかい 32(1) 1981.3 p293〜340

◆1982
山田やまだみつる「アルチュセールてき認識にんしきろん種別しゅべつせい
 『千里山せんりやま経済けいざいがく関西大学かんさいだいがく大学院だいがくいん経済けいざいがく研究けんきゅう院生いんせい協議きょうぎかい だい16‐1・2合併がっぺいごう 1982.12 p57〜119

◆1983
秋永あきなが雄一ゆういち「<教育きょういくてき関係かんけい>の特質とくしつについて――アルチュセールとブルデューの批判ひはんてき検討けんとう
 『東京大学とうきょうだいがく教育きょういく学部がくぶ紀要きよう東京大学とうきょうだいがく教育きょういく学部がくぶ 23 1983 p287〜296
浅田あさだあきら「アルチュセールイデオロギーろんさい検討けんとう
 『思想しそう岩波書店いわなみしょてん 707 1983.5 p38〜65

◆1984
浅田あさだあきら報告ほうこく アルチュセールとポスト構造こうぞう主義しゅぎ〔含 質疑しつぎ応答おうとう〕」
 『社会しゃかい思想しそう研究けんきゅう学文社がくぶんしゃ 8 1984 p59〜65
◇A. デミロヴィチ、古賀こが暹(わけ解説かいせつ)「 哲学てつがく戦場せんじょう――アルチュセールの哲学てつがくてき戦略せんりゃく哲学てつがくのヘゲモニーてき位置いち
 『思想しそう岩波書店いわなみしょてん 718 1984.4 p329〜347
鷲田わしだ小彌太こやた現代げんだい家族かぞくろん背景はいけい――浅田あさだあきらからイバン・イリイチまでの距離きょり
 『円卓えんたく会議かいぎ』1(3) 1984.7 p168〜71

◆1986
今村いまむら仁司ひとし現代げんだいヨーロッパ思想しそうへの視点してん――ポスト構造こうぞう主義しゅぎ台頭たいとう意味いみするもの」
 『エコノミスト』64(5) 1986.2.4 p77〜83

◆1987
富山とみやまふとし佳夫よしお「「おおきな物語ものがたり再考さいこう―ポスト・モダニズムとマルクス主義まるくすしゅぎ
 『思想しそう』 754 1987.4 p8〜28

◆1988
清水しみずまこと「エピステモロジーの系譜けいふ――バシュラールからアルチュセールまで」
 『思想しそう岩波書店いわなみしょてん 764 1988.2 p60〜76
古賀こが暹「グラムシとアルチュセール――デミロヴィチの科学かがくろんをめぐって」
 『現代げんだい理論りろん現代げんだい理論りろんしゃ 25(3) 1988.3 p40〜49
廣松ひろまつわたるさいくびさとる今村いまむら仁司ひとし「パリがつ革命かくめいから20ねん――転換てんかんへのふとながれのはじまりかあるいは結局けっきょくは「ゼロ」なのか(座談ざだんかい)」
 『朝日あさひジャーナル』30(24) 1988.6.10 p74〜8
河村かわむらのぞむ「アルチュセ-ルの構造こうぞう主義しゅぎ国家こっかろん批判ひはん
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 69 1988.7 p66〜83
向井むかい俊彦としひこ「アルチュセールのイデオロギーろんについての批判ひはんてき検討けんとう
 『唯物ゆいぶつろん現代げんだい文理ぶんりかく だい2ごう 1988.9 p19〜46
田代たしろ忠利ただとし「マルクスに「裏切うらぎられた」アルチュセール――『資本しほんろんむ』における認識にんしきろん問題もんだい
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 70 1988.10 p440〜468

◆1989
山本やまもと哲士てつし社会しゃかい科学かがく方法ほうほうとしての<理論りろんてきデプラスマン>――「ルイ・アルチュセールをむ」―1―」
 『信州大学しんしゅうだいがく教養きょうよう紀要きよう信州大学しんしゅうだいがく教養きょうよう 23 1989.2 p63〜83
上野うえの俊樹としき「アルチュセールの認識にんしきろんとイデオロギーろん―1―」
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 73 1989.7 p167〜192
田代たしろ忠利ただとし「アルチュセールの国家こっかろんにおけるふるさとあたらしさ――「国家こっか生産せいさん関係かんけいさい生産せいさん保証ほしょうせつ批判ひはんてき検討けんとう(ネオ・マルクス主義まるくすしゅぎ批判ひはん―3―)」
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 74 1989.10 p353〜381
池田いけだしん「イデオロギーろんについての若干じゃっかん考察こうさつ――アルチュセルたいハースト―1―」
 『経済けいざいがく論究ろんきゅう関西学院大学かんせいがくいんだいがく経済けいざいがく研究けんきゅうかい 43(3) 1989.10 p371〜388

◆1990
石井いしいきよし英国えいこくにおけるアルチュセ-ル理論りろんいち展開てんかい――P.ハーストの場合ばあい
 『静岡大学しずおかだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう報告ほうこく 人文じんぶん社会しゃかい科学かがくへん静岡大学しずおかだいがく教育きょういく学部がくぶ 41 1990 p63〜74
上野うえの俊樹としき「アルチュセ-ルの認識にんしきろんとイデオロギーろん―2―」
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 75 1990.1 p720〜746
池田いけだしん「イデオロギーろんについての若干じゃっかん考察こうさつ――アルチュセルたいハースト―2かん―」
 『経済けいざいがく論究ろんきゅう関西学院大学かんせいがくいんだいがく経済けいざいがく研究けんきゅうかい 43(4) 1990.2 p57〜71
浜田はまだただし「ルイ・アルチュセールと哲学てつがく
 『白山はくさん哲学てつがく東洋大学とうようだいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく研究けんきゅうしつ 24 1990.3 p94〜114
上野うえの俊樹としき「アルチュセールの認識にんしきろんとイデオロギーろん―3―」
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 76 1990.4 p1244〜1279
上野うえの俊樹としき「アルチュセールの認識にんしきろんとイデオロギーろん―4かん―」
 『季刊きかん科学かがく思想しそうしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ 77 1990.7 p295〜318

◆1991
阪上さかうえたかし孤独こどく狂気きょうき――アルチュセールをいたむ」
 『思想しそう岩波書店いわなみしょてん799 1991.1 p4〜15

◆1992
大谷おおやゆうかい「アルチュセール理論りろん全体ぜんたいぞう
 『東経とうけいだい論叢ろんそう東京経済大学とうきょうけいざいだいがく大学院だいがくいん経済けいざい経営けいえい研究けんきゅうかい だい13ごう 1992.3 p1〜30
田中たなかひろし構造こうぞう―イデオロギー関係かんけい転換てんかん――アルチュセールの社会しゃかい構想こうそうとその批判ひはんてきえ」
 『思想しそう岩波書店いわなみしょてん 818 1992.8 p79〜99
丹生たんじょうたに貴志たかしいの言葉ことば―5―アルチュセールの言葉ことばから」
 『現代げんだい手帖てちょう思潮しちょうしゃ 35(9) 1992.9 p162〜167

◆1993
◇宇城輝人てるひと国家こっかのイデオロギー装置そうちについて――アルチュセールにおける闘争とうそう社会しゃかい契約けいやくさい生産せいさん
 『ソシオロジ』社会しゃかいがく研究所けんきゅうじょ37(3) 1993.2 p77〜93
市田いちだ良彦よしひこ未来みらいながつづく――アルチュセールのヨーロッパ」
 『文芸ぶんげい河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ32(4) 1993.11 p323〜328

◆1994
伊藤いとう高史たかし「アルチュセールのイデオロギーろんとディスクールの理論りろん、およびその方法ほうほうについて」
 『マス・コミュニケーション研究けんきゅう日本にっぽんマス・コミュニケーション学会がっかい 44 1994.3 p1〜14
池田いけだきよし「アルチュセールにおける「徴候ちょうこうてき読解どっかい」について――いとこたえのズレの反復はんぷく/更新こうしん/統一とういつだい53かい日本にっぽん哲学てつがくかい大会たいかい一般いっぱん研究けんきゅう発表はっぴょう要旨ようし)」
 『哲学てつがく日本にっぽん哲学てつがくかい 44 1994.4 p104〜106
馬淵まぶち浩二こうじ「「主体しゅたい目的もくてきもない過程かてい」と自然しぜん――アルチュセ-ルからマルクスへ」
 『文化ぶんか東北大学とうほくだいがく文学ぶんがくかい 58(1・2) 1994.9 p36〜53

◆1995
池田いけだきよし「アルチュセ-ルにおける「徴候ちょうこうてき読解どっかい」について――いとこたえのズレの反復はんぷく/更新こうしん/統一とういつ
 『哲学てつがく日本にっぽん哲学てつがくかい 4 5 1995.4 p292〜301

◆1996
山田やまだ正行まさゆき生涯しょうがい学習がくしゅう実践じっせんろんにおける政治せいじ哲学てつがく――アルチュセールのマルクス理解りかいへの批判ひはんばんとおして」
 『秋田大学あきただいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう紀要きよう 教育きょういく科学かがく秋田大学あきただいがく附属ふぞく図書館としょかん 49 1996.3 p75〜86
酒井さかい隆史たかし「「物質ぶっしつせい」とその消去しょうきょ――アルチュセールイデオロギーろんによる「自明じめいせい」の考察こうさつとその限界げんかい
 『年報ねんぽう社会しゃかいがく論集ろんしゅう関東かんとう社会しゃかい学会がっかい 9 1996.6 p163〜174
大中おおなか一弥かずや「ルイ・アルチュセールの国家こっかとイデオロギーの理論りろん――『さい生産せいさんについて』を中心ちゅうしんに」
 『早稲田わせだ政治せいじ公法こうほう研究けんきゅう早稲田大学わせだだいがく大学院だいがくいん政治せいじがく研究けんきゅう 53 1996.12 p261〜292

◆1997
沢里さわさとたけし前期ぜんきアルチュセールの科学かがく哲学てつがくについて」
 『哲学てつがく世界せかい早稲田大学わせだだいがく大学院だいがくいん哲学てつがく院生いんせい自治じちかい哲学てつがく世界せかい刊行かんこう委員いいんかい 20 1997 p77〜88
馬淵まぶち浩二こうじ「イデオロギーと想像そうぞうてきなもの――アルチュセールのイデオロギーろんをめぐって」
 『倫理りんりがく年報ねんぽう日本にっぽん倫理りんり学会がっかい 46 1997 p203〜217
杉山すぎやま吉弘よしひろ「ルチュセ-ルにおける適用てきよう理性りせい主義しゅぎ認識にんしき生産せいさん理論りろん
 『札幌学院大学さっぽろがくいんだいがく人文じんぶん学会がっかい紀要きよう札幌学院大学さっぽろがくいんだいがく人文じんぶん学会がっかい 60 1997.3 p93〜110
細谷ほそやみのる「フェミニズムとアルチュセール」
 『理想りそう理想りそうしゃ 659 1997.6 p53〜63
吉川よしかわしん「モリーと家族かぞくとイデオロギー―アルチュセールからの批判ひはん
 『中央ちゅうおうえいべい文学ぶんがく中央ちゅうおうえいべい文学ぶんがくかい だい31ごう 1997.12 p15〜25

◆1998
池田いけだきよし「アルチュセールにおける読解どっかい循環じゅんかんせいについて――弁証法べんしょうほうてき循環じゅんかん自己じこ言及げんきゅうてき循環じゅんかん混同こんどう分析ぶんせき
 『Etudes francaises』大阪外国語大学おおさかがいこくごだいがくフランス語ふらんすご学科がっか研究けんきゅうしつ 31 1998 p93〜118
◇マウリチオ・ラッツアラ-ト、アンヌ・ケリアン、市田いちだ良彦よしひこやく「「未来みらいながつづく」とルイ・アルチュセールはいった。今日きょう、トニ・ネグリはこの未来みらい征服せいふくふたた旅立たびだった」
 『インパクション』インパクト出版しゅっぱんかい 106 1998.1 p93〜96
今野こんの あきら 19981122 「Sur Reproduction──もうひとつのアルチュセール・イデオロギーろん
 日本にっぽん社会しゃかい学会がっかいだい71かい大会たいかい報告ほうこく ※
岩尾いわお竜太郎りゅうたろう「アルチュセールのEdde homo『未来みらい永遠えいえんつづく』」
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p179〜195
石井いしいきよし「アルチュセール、ドラキュラのとも
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p222〜229
十川そがわ幸司こうじしろそとること アルチュセールと精神せいしん分析ぶんせき
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p196〜212
◇Francois Matheron、まもりえい直幹なおみき「ルイ・アルチュセールにおける真空しんくう回帰かいき
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p112〜131
今村いまむら仁司ひとし市田いちだ良彦よしひこ討議とうぎ アルチュセールのアクチュアリティ」
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p68〜92
上野うえのおさむ「アルチュールとスピノザ」
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p213〜221
阪上さかうえたかし「アルチュセールをはじめてんだころ
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p94〜97
市田いちだ良彦よしひこ佐藤さとう吉幸よしゆきやく「ルイ・アルチュセールにおける時間じかん概念がいねん
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p162〜178
◇Jacques Ranciere、篠原しのはら洋治ようじやく「テクストの舞台ぶたい
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p132〜148
毛利もうり嘉孝よしたか文化ぶんか過剰かじょう決定けってい アルチュセールとカルチュラル・スタディーズ」
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 26(15) 1998.12 p98〜111

◆1999
目黒めぐろつよし「「児童じどう発見はっけん再考さいこう――イデオロギー装置そうちろん(アルチュセール)にむけて」
 『児童じどう文学ぶんがく研究けんきゅう日本にっぽん児童じどう文学ぶんがく学会がっかい 32 1999 p40〜52
今野こんのあきら理論りろんについて/実績じっせきについて――アルチュセール・イデオロギーろん再考さいこう
 『情況じょうきょう だい情況じょうきょう出版しゅっぱん 10(4) 1999.4 p95〜122
◇Judith P. Butler、伊吹いぶき浩一こういちやく良心りょうしんがわれわれみなを主体しゅたいにする――アルチュセール」
 『情況じょうきょう だい情況じょうきょう出版しゅっぱん 10(8) 1999.9 p49〜70
なかただし昌樹まさき「アルチュセールとデリダ――ふたつのマルクス読解どっかい
 『情況じょうきょう だい情況じょうきょう出版しゅっぱん 10(8) 1999.9 p27〜48
的場まとば昭弘あきひろ「アルチュセールとマルクス――「沈黙ちんもく」と「不在ふざい」、そしてきられたマルクス」
 『情況じょうきょう だい情況じょうきょう出版しゅっぱん 10(10) 1999.11 p93〜117
中谷なかたに陽二ようじ犯罪はんざいしゃかたはじめるとき――アルチュセールのクリミノグラフィー」
 『日本にっぽんびょうあとがく雑誌ざっしつよし出版しゅっぱん58 1999.12 p24〜30

◆2000
浜田はまだただしわかきアルチュセールのプロブレマティック〔含 質疑しつぎ応答おうとう〕」
 『社会しゃかい思想しそう研究けんきゅうきたじゅ出版しゅっぱん 24 2000 p50〜52
澤里さわさとたけし「アルチュセールのルソー読解どっかい
 『フィロソフィア』早稲田大学わせだだいがくあきら学会がっかい 88 2000 p93〜107
伊吹いぶき浩一こういち主体しゅたい主体性しゅたいせいをめぐって――サルトルとアルチュセール」
 『理想りそう理想りそうしゃ 665 2000 p15〜25
上野うえの おさむ 20000305 「書評しょひょう:ルイ・アルチュセール『哲学てつがく政治せいじ著作ちょさくしゅう』,藤原ふじわら書店しょてん』 思想しそう』909(2000-03):094-098 ※
伊吹いぶき浩一こういち「アルチュセール・イデオロギーろん、そのマトリックスと帰結きけつするもの――精神せいしん分析ぶんせきとイデオロギー装置そうち
 『情況じょうきょう だい情況じょうきょう出版しゅっぱん 11(2) 2000.3 p84〜113
◇Yann Moulier Boutang、市田いちだ良彦よしひこやく「インタヴュー ヤン・ムーリエ・ブータンにく 『Multitudes』/移民いみん運動うんどう/アルチュセール」
 『批評ひひょう空間くうかん 2太田おおた出版しゅっぱん 25 2000.4 p132〜146
宇波うなみあきら「アルチュセールと現代げんだい思想しそう
 『アソシエ』御茶おちゃみず書房しょぼう 3 2000.7 p159〜164
箱田はこだてっ「アルチュセールと後期こうきフーコーの主体しゅたいろんにおける理論りろん実践じっせん
 『国際こくさい文化ぶんかがく神戸大学こうべだいがく国際こくさい文化ぶんか学会がっかい 3 2000.9 p91〜104
福井ふくい和美かずみ「「あたらしい」アルチュセール―「理論りろん」と「自伝じでん」のあいだ」
 『たまき藤原ふじわら書店しょてん 3 2000.10 p250〜263
◇Louis Althusser、福井ふくい和美かずみやく「マキャヴェリの孤独こどく
 『たまき藤原ふじわら書店しょてん 3 2000.10 p232〜249
◇Judith Butler、井川いかわちとせ(わけ)、竹村たけむら和子かずこ「テクスト 良心りょうしんがわたしたちみな主体しゅたいにする――アルチュセールの主体しゅたい隷属れいぞく(サブジェクション)〔含 解題かいだい〕」
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 28(14) 2000.12 p84〜103

◆2001
浜田はまだただし初期しょきアルチュセールのマキャヴェッリろん、そして偶然ぐうぜんてき唯物ゆいぶつろん(〔社会しゃかい思想しそう学会がっかいだいかい大会たいかい記録きろく――自由じゆう論題ろんだい)」
 『社会しゃかい思想しそう研究けんきゅうきたじゅ出版しゅっぱん 25 2001 p79〜83
せんわきおさむ「ル・ゴフとアルチュセール ジャック・ル・ゴフちょ(立川たちかわ孝一こういちやく)『歴史れきし記憶きおく』(法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、1999ねん)への書評しょひょうえて」
 『西洋せいよう論叢ろんそう早稲田大学わせだだいがく学会がっかい西洋せいよう部会ぶかい だい22ごう 2001.1 p9〜20
高橋たかはし順一じゅんいち「『フォイエルバッハ・テーゼ』の言語げんご理論りろん――革命かくめいてき位置いちについて アルチュセールからの視角しかく
 『情況じょうきょう だいさん情況じょうきょう出版しゅっぱん 2(6) 2001.7 p184〜189
今野こんのあきら「アルチュセール アルチュセール・イデオロギー再考さいこう理論りろん実践じっせん
 (情況じょうきょう出版しゅっぱん編集へんしゅうへん社会しゃかい学理がくりろんの(可能かのうせい)をむ』情況じょうきょう出版しゅっぱん 2001.7 p129〜)
石井いしいきよし「レヴュー・エッセイ のこされたテキスト――アルチュセール『哲学てつがく政治せいじ著作ちょさくしゅう1・2』をむ」
 『唯物ゆいぶつろん研究けんきゅうねん唯物ゆいぶつろん研究けんきゅう協会きょうかい 6 2001.10 p313〜320
伊吹いぶき浩一こういち主体しゅたい目的もくてきもない過程かていとしての歴史れきし――アルチュセ-ルのマルクス学位がくい論文ろんぶん言及げんきゅうをめぐって」
 『情況じょうきょう だいさん情況じょうきょう出版しゅっぱん 2(8) 2001.10 p212〜226

◆2002
岩本いわもとはじめ「アルチュセ-ルのディスク-ルの理論りろんについて」
 『言語げんご文化ぶんか東洋大学とうようだいがく言語げんご文化ぶんか研究所けんきゅうじょ設置せっち準備じゅんび委員いいんかい 2 2002 p35〜44
山本やまもと雄二ゆうじ教育きょういく主体しゅたい問題もんだい
 『関西大学かんさいだいがく社会学部しゃかいがくぶ紀要きよう関西大学かんさいだいがく 34(1) 2002.12 p185〜206

◆2003
山家やまやあゆみ「アルチュセール国家こっかイデオロギーろんさい検討けんとう――最終さいしゅうしんきゅうをめぐる問題もんだい中心ちゅうしんとして」
 『現代げんだい社会しゃかい理論りろん研究けんきゅう』「現代げんだい社会しゃかい理論りろん研究けんきゅう編集へんしゅう委員いいんかい事務じむきょく 13 2003 p342〜353
大中おおなか一弥かずや「ポスト・アルチュセールの政治せいじ思想しそう――エティエンヌ・バリバールちょわれらヨ-ロッパ市民しみん?』からのいち考察こうさつ
 『情況じょうきょう だいさん情況じょうきょう出版しゅっぱん 4(1) 2003.1 p203〜220
伊吹いぶき浩一こういち「アルチュセールの唯物ゆいぶつろん
 『情況じょうきょう だいさん情況じょうきょう出版しゅっぱん 4(1) 2003.1 p221〜243
的場まとば昭弘あきひろなかただし昌樹まさきいま、アルチュセ-ルをひらく」
 『情況じょうきょう だいさん情況じょうきょう出版しゅっぱん 4(1) 2003.1 p167〜188
柳内やないたかし「スピノザというレンズ――アルチュセールのなかのスピノザ」
 『情況じょうきょう だいさん情況じょうきょう出版しゅっぱん 4(1) 2003.1 p189〜202
佐藤さとう嘉幸よしゆき精神せいしん分析ぶんせき理論りろんから構造こうぞう変動へんどう理論りろんへ――アルチュセールにおける構造こうぞう変動へんどう偶然ぐうぜんせい
 『思想しそう岩波書店いわなみしょてん 950 2003.6 p130〜148
佐藤さとう紀子のりこ「サルトルとアルチュセールの階級かいきゅうかんする認識にんしきろんてき立場たちば
 『聖心女子大学せいしんじょしだいがく大学院だいがくいん論集ろんしゅう聖心女子大学せいしんじょしだいがく 25 2003.7 p94〜77

◆2004
桑野くわの弘隆ひろたか国家こっかとイデオロギーについて――アルチュセール「イデオロギーと国家こっかのイデオロギー装置そうち」をめぐる思想しそうてきいち考察こうさつ
 『社会しゃかい思想しそう研究けんきゅう藤原ふじわら書店しょてん 28 2004 p99〜115
大中おおなか一彌かずや政治せいじ出会であ理論りろん可能かのうか――晩期ばんきアルチュセールという対象たいしょう
 『理想りそう理想りそうしゃ 673 2004 p59〜68
立木たちきやすしかい質料しつりょう偶然ぐうぜん――アルチュセールの「出会であいの唯物ゆいぶつろん」について、そしてアリストテレスの自然しぜんがくについて」
 『人間にんげん存在そんざいろん京都大学きょうとだいがく大学院だいがくいん人間にんげん環境かんきょうがく研究けんきゅう総合そうごう人間にんげん学部がくぶ人間にんげん存在そんざいろん刊行かんこうかい 10 2004 p117〜131
佐治さじ孝夫たかお「アルチュセールとポスト近代きんだいてきマルクス主義まるくすしゅぎ――L.アルチュセールの政治せいじ思想しそう(1)」
 『社会しゃかいとマネジメント』椙山女学園大学すぎやまじょがくえんだいがく現代げんだいマネジメント学部がくぶ 1(2) 2004.3 p37〜56
◇宇城輝人てるひと「『マルクスのために』Pour Marx(1965) ルイ・アルチュセール(1918-1990)(ブックガイド60)」
 『現代げんだい思想しそう青土おうづちしゃ 32(11臨増) 2004.9 p198〜201
植村うえむら邦彦くにひこ重層じゅうそうてき決定けってい偶然ぐうぜんせい――あるいはアルチュセールの孤独こどく
 『関西大学かんさいだいがく経済けいざい論集ろんしゅう関西大学かんさいだいがく経済けいざい学会がっかい 54(3・4) 2004.11 p337〜354

◆2005
松浦まつうら寿ひさしてる文化ぶんかひょう(6)アルチュセール、アーレント、パース」
 『UP』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 34(4) 2005.4 p43〜47



●アルチュセールとフーコーの関係かんけいについてのメモ●

□アルチュセール研究けんきゅう
今村いまむら仁司ひとし19930810『アルチュセールの思想しそう講談社こうだんしゃ

「ヘーゲルは常識じょうしきせんえば、西欧せいおう形而上学けいじじょうがくの、とくに近代きんだい哲学てつがく総合そうごうてき完成かんせいしゃであるということになっているが、アルチュセールの観点かんてんえば、ヘーゲルはむしろ現代げんだい思想しそう、とりわけマルクスとハイデガーから開始かいしする「主体しゅたいなき過程かてい」の哲学てつがく真実しんじつ開拓かいたくしゃであるとなすことすらできるのである。フーコーもドゥルーズもデリダもヘーゲルをこのようには規定きていしないだろう。かれらはむしろヘーゲルを伝統でんとうてき見解けんかいにしたがって「西欧せいおう形而上学けいじじょうがく最後さいご哲学てつがくしゃ」とみなしている。だからこそ、とくにフーコーとドゥルーズはヘーゲルを批判ひはんするために、そしてついでにマルクスからはなすために、ニーチェにたよらざるをえない。しかしそうなると、ヘーゲルはいずれにせよ「過去かこ思想家しそうか」として博物館はくぶつかんりさせるほかはなくなるのだ。そんなことでいいのだろうか。事態じたいはそれほど簡単かんたんではない。けれどもアルチュセールは、すでにたように、ヘーゲルとマルクスとのたね明示めいじすることで、かえってあたらしい仕方しかたでヘーゲルのアクチュアリティーをすことができたとえよう。」(p.28)

「(…)フーコーやブルデューはけっしてそんな部類ぶるいはいらないが、それでもかれらはアルチュセールの影響えいきょうないしインパクトを最小限さいしょうげん限定げんていしようとする「フランス知識ちしき人的じんてき傾向けいこう」からまぬかれていない。フーコーは『考古学こうこがく以来いらい、「ディスクルシーヴ」(言説げんせつてき)な形成けいせいたい」という用語ようご使つかっている。この「言説げんせつ形成けいせいたい」をとおして権力けんりょくてき支配しはい効果こうか社会しゃかいのすみずみまで浸透しんとうしていく事態じたいかれ説明せつめいしている。かれう「言説げんせつ形成けいせいたい」の具体ぐたいは、『かん処罰しょばつ 監獄かんごく誕生たんじょう』のなかでは、学校がっこう監獄かんごく工場こうじょう病院びょういん軍隊ぐんたいという装置そうちである。そこでは言説げんせつ形成けいせいたいによって、「自発じはつてき服従ふくじゅうする主体しゅたい」が形成けいせいされる。これなどは議論ぎろん核心かくしんのみをせば、まさにアルチュセールの理論りろんそのものであろう。勿論もちろん、フーコーならではの記述きじゅつ絢爛けんらんたる描写びょうしゃをこそ賞賛しょうさんすべきではあろうが、しかし理論りろんてき方向ほうこうはアルチュセールてきであることは否定ひていしようもない。ところがだれもフーコーとアルチュセールとの継承けいしょう関係かんけいかたろうとせず、アルチュセールをわすれたがっているみたいだ。(フーコーをたくみに利用りようして「オリエンタリズム」をろんじたサイードですら、アルチュセールの理論りろんにはまった無関心むかんしんなのだ。してるべし。)フーコー自身じしんけっして理論りろんひとではないから、ときに概念がいねん規定きてい曖昧あいまいであり、理論りろんてきかたるべきところを歴史れきしてき記述きじゅつ社会しゃかいがくてき説明せつめい満足まんぞくするところがある。だからこそ、フーコーのすぐれた仕事しごと理論りろんてきさらふかめたり、かれがわずかにしかれていないが大切たいせつ事柄ことがら蘇生そせいさせていくためにも、アルチュセールのイデオロギーろん不可欠ふかけつなのである。
 (…)アルチュセールが「イデオロギーてき主体しゅたい形成けいせい」を「国家こっか装置そうちろんでやったことを、フーコーは「訓練くんれん装置そうち」の具体ぐたいてき歴史れきし記述きじゅつによって、ブルデューは身体しんたいてきなハビトゥスの場面ばめんへの「信念しんねん」のみ(これがブルデューてきな「主体しゅたい形成けいせいろんである)を微細びさい記述きじゅつすることによって、それぞれに固有こゆう仕方しかたゆたかに展開てんかいしていった。(…)」(p.45-46)

たとえばミシェル・フーコーの一種いっしゅ独特どくとく認識にんしきろんてき見解けんかいも、一見いっけんバシュラールてき立場たちばからとおくへだたるごとくであっても、かれもまたバシュラールの哲学てつがくてき地平ちへいにおいては自己じこ出発しゅっぱつてん確立かくりつすることができなかったとおもわれる。かえってフーコーの科学かがく思想しそうかんする歴史れきしかん(アルケオロジーろん)とバシュラールの正統せいとうてきになたち(カンギレーム=アルチュセールの弟子でしたち)との論争ろんそう自体じたいが、じつはバシュラールてき問題もんだい設定せっていうえでこそ可能かのうであったのであり、またこの論争ろんそう自体じたいがバシュラールのひらいたみちゆたかに発展はってんさせていくものと期待きたいされるのである(…)。」(p.106-107)

「したがって、われわれは一巡いちじゅんして、ふたた理論りろんてき実践じっせん科学かがくてき認識にんしきそのものの研究けんきゅう直面ちょくめんせざるをえない。なぜなら、理論りろんてき実践じっせん科学かがくてき認識にんしきを、諸々もろもろ実践じっせん(イデオロギーてき政治せいじてき、その)との関係かんけいにおいて研究けんきゅうすることなしには、理論りろんてき階級かいきゅう闘争とうそうはたらきの場所ばしょさえ見出みいだすことができないであろうからである。そして、この研究けんきゅう領域りょういきは、マルクス主義まるくすしゅぎのなかでももっとおくれている場面ばめんであり、また「マルクス主義まるくすしゅぎはこの領域りょういきいちるべき仕事しごとをしたことがない」とフーコーが批判ひはんする場所ばしょであるだけに、アルチュセールの開拓かいたくてき認識にんしきろんてき研究けんきゅうは、たか評価ひょうかされねばならない(フーコーの批判ひはんすこおおげさだが、アルチュセールよりも具体ぐたいてきにこの領域りょういき仕事しごとをしたひともすでにある。たとえば、ルフェーブルとJ.T.デザンティ)。」(p.121-122)

今村いまむら仁司ひとし19970210『アルチュセール――認識にんしきろんてき切断せつだん講談社こうだんしゃ

「(…)カントなら拒否きょひするようなアプリオリ=アポステリオリという逆説ぎゃくせつてき事実じじつこそ、歴史れきしてき現実げんじつである。それをアルチュセールは「経験けいけんてき超越ちょうえつろんてきなもの」(le transcendental empirique)とよぶ。(フーコーは『言葉ことばもの』のなかで、近代きんだいてき主体しゅたいにおける経験けいけんてきなものと超越ちょうえつてきなものとの重態じゅうたいをさすために、アルチュセールのこの用語ようごそっくりおな言葉ことば使つかうが、ひょっとすると、アルチュセールからの口頭こうとうによる示唆しさがあったかもしれない。)(…)」(p.106)

「ここで構造こうぞう主体しゅたいかんするあるしゅ誤解ごかい指摘してきしておきたい。たとえば、ろく年代ねんだいから現在げんざいまで、構造こうぞう主体しゅたいせい反対はんたいであり、構造こうぞう主体しゅたい放棄ほうきしたり、主体しゅたい消滅しょうめつあるいは死滅しめつさせるとわれてきた。たとえば、フーコーは「主体しゅたいないし人間にんげん」をかたった。かれがかたっている「主体しゅたい」とは、近代きんだい哲学てつがくつくってきた「人間にんげんてき主体しゅたい」のことである。それは特定とくてい時代じだい産物さんぶつであり、それはとおざからず消滅しょうめつするだろうとフーコーはう。近代きんだい哲学てつがくの「主体しゅたい」が世界せかい構成こうせい原理げんりであることの不可能ふかのうせいかたかぎりでは、フーコーてき表現ひょうげんただしいが、それを一般いっぱんして、構造こうぞう主体しゅたい死滅しめつさせるとか、構造こうぞう主体しゅたいあいいれないとかたるのは錯覚さっかくである。
 構造こうぞう主体しゅたい排除はいじょするどころか、主体しゅたい要求ようきゅうし、かりに主体しゅたい存在そんざいしなければ無理むりにもつくりだす。アルチュセールはまさにこの事実じじつ洞察どうさつしたが、これはかれ傑出けっしゅつした理論りろんてき貢献こうけんである。かれうように、構造こうぞう社会しゃかいてき)はかならずそれ固有こゆう主体しゅたい主観性しゅかんせい形式けいしき算出さんしゅつし、この主体しゅたい主観性しゅかんせい構造こうぞうにな機能きのう担当たんとうさせる。」(p.272-273)

□フーコー研究けんきゅう
中山なかやまもと19960620『フーコー入門にゅうもん筑摩書房ちくましょぼう

マルクス主義まるくすしゅぎのアルチュセールのイデオロギーの理論りろんは、イデオロギーをしんじる主体しゅたいがいかにして形成けいせいされるかという視点してんをそなえていたてんで、マルクス主義まるくすしゅぎ権力けんりょくろんとしては例外れいがいてきなものであった。しかしこのアルチュセールのイデオロギーろんも、社会しゃかい主体しゅたい外部がいぶからイデオロギー(虚偽きょぎ意識いしき)によって統制とうせいされるとかんがえるものであった。
 これにたいしてフーコーの権力けんりょくろんは、権力けんりょく虚偽きょぎ意識いしき観点かんてんからではなく、主体しゅたい内部ないぶから機能きのうするちからとして分析ぶんせきするものである。フーコーはそれまでの権力けんりょくろん批判ひはんする――これまで権力けんりょくは「排除はいじょする」「抑圧よくあつする」「隠蔽いんぺいする」「まる」などの否定ひていてき用語ようごかんがえられてきたが、権力けんりょく主体しゅたい内部ないぶから、現実げんじつてきなものをしているちからとして理解りかいする必要ひつようがあるのではないか。
 フーコーが権力けんりょくを、このような外部がいぶからの強制きょうせい抑圧よくあつとしてではなく、主体しゅたい内部ないぶからはたらちからとして、複数ふくすう人間にんげんあいだ成立せいりつするちからとしてかんがえたことによって、権力けんりょく理論りろんあらたな可能かのうせいまれた。
 まず、権力けんりょく理論りろんマルクス主義まるくすしゅぎてき階級かいきゅう抑圧よくあつ理論りろんとしてとらえるのではなく、社会しゃかい内部ないぶ普遍ふへんてきはたらくものであるとかんがえることによって、権力けんりょく行使こうしかんする微細びさい分析ぶんせき可能かのうとなった。階級かいきゅう対立たいりつろんでは、アルチュセールのようにブルジョワ階級かいきゅうあるいは国家こっかによる権力けんりょく行使こうし分析ぶんせきできても、学校がっこう会社かいしゃやさまざまな制度せいど組織そしき内部ないぶでの権力けんりょく装置そうち微細びさい分析ぶんせきは、そもそも必要ひつようかんがえられなかっただろう。
 権力けんりょくが、これまでのように抑圧よくあつてきなブルジョワ権力けんりょくや、革命かくめいてきなプロレタリア権力けんりょくのようなイメージではなく、真理しんりかたると自称じしょうするものとその真理しんりしんじるもの教師きょうし生徒せいと上司じょうし部下ぶか男性だんせい女性じょせい父親ちちおや母親ははおや子供こどもといった日常にちじょう生活せいかつのすみずみにりめぐらされた人間にんげんあいだちから関係かんけいあみとして理解りかいされるようになることによって、現実げんじつ生活せいかつでの社会しゃかい批判ひはん視点してん確保かくほされるのである。」(p.136-137)

せき良徳よしとく20010405『フーコーの権力けんりょくろん自由じゆうろん』勁草書房しょぼう

ほう政治せいじかんする理論りろん領域りょういきでは、これまで概説がいせつしてきた法的ほうてき権力けんりょくモデルという視座しざから権力けんりょく問題もんだい理解りかいすることが自明じめい真理しんりとして通用つうようしてきた。これにたいし、フーコーは、そうした定式ていしき裏面りめんとらえられた現実げんじつ権力けんりょく現象げんしょうとらえようとしているてんでL.アルチュセールらどう時代じだいマルクス主義まるくすしゅぎしゃから影響えいきょうけていたことは間違まちがいないだろう(14)。しかし、マルクス主義まるくすしゅぎしゃ権力けんりょく問題もんだい階級かいきゅう構造こうぞう社会しゃかいてき矛盾むじゅんとしてさい発見はっけんしながら、それを再度さいどこれまでの法的ほうてき権力けんりょくモデルのなか解決かいけつ解放かいほうしようとしたのにたいし、フーコーは従来じゅうらい権力けんりょく概念がいねんそのものを問題もんだいしようとこころみる。その意味いみで、両者りょうしゃあいだにはおおきな隔絶かくぜつがあるといえよう。ここでは近代きんだい以降いこう権力けんりょくかた焦点しょうてんわせ、法的ほうてき権力けんりょくモデルのゆうするしょ特徴とくちょう現実げんじつ権力けんりょくとのあいだにいかなる関係かんけいせいゆうするのか、そのモデルが近代きんだい以降いこう権力けんりょく現象げんしょう十分じゅうぶんうつしているのかかといった問題もんだい検討けんとうする。」(pp.10-11)

(14)桜井さくらい哲夫てつお[1996]いち-いちろくぺーじ(=桜井さくらい哲夫てつお『フーコー――権力けんりょく講談社こうだんしゃ

「このようなフーコーの記述きじゅつから、おおくの論者ろんしゃ支配しはい階級かいきゅうのイデオロギーを下部かぶ構造こうぞうとの関連かんれんにおいて発見はっけんし、その虚偽きょぎせい批判ひはんしようとするマルクス主義まるくすしゅぎてきなイデオロギーろん想起そうきした。フーコーが近代きんだい立憲りっけん主義しゅぎ支配しはい階級かいきゅうのイデオロギーとしてとらえていることを指摘してきした人々ひとびとは、法的ほうてき思考しこう枠組わくぐみが現実げんじつ身体しんたいてき権力けんりょくおおかく役割やくわりたしてきたとするかれ歴史れきし認識にんしき批判ひはん中心ちゅうしんえた(25)。ほう排除はいじょろん提起ていきした人々ひとびとは、この「ほう=イデオロギー」ろんむことで、フーコーとほうとのあいだがたい「断絶だんぜつ」をつくりあげようとしたのである。しかしながら、このような批判ひはん簡単かんたん誤解ごかい根深ねぶか偏見へんけんのうちにされたものである。フーコーとアルチュセールのようなマルクス主義まるくすしゅぎしゃとの関係かんけい指摘してきする研究けんきゅう存在そんざいしているが(26)、フーコー自身じしん基本きほんてきに「イデオロギー」や「抑圧よくあつ」といったマルクス主義まるくすしゅぎ概念がいねんたいして批判ひはんてきであり、そうした概念がいねん基礎きそ思索しさく構成こうせいしたとはかんがえられない(27)。そして、前述ぜんじゅつしたとおり、かれは「ほう」をたんなる規律きりつ権力けんりょくへの「おおい」として理解りかいする立場たちばはなれ、近代きんだい社会しゃかい権力けんりょく構成こうせいするもう一方いっぽう還元かんげん不可能ふかのう要素ようそとして認識にんしきしている(28)。法的ほうてき権力けんりょくとして表象ひょうしょうされた「ほう」は、それ自体じたいとしてわたしたちの現実げんじつてき行為こういむすいた思考しこう枠組わくぐみを産出さんしゅつしているのである(29)。このような議論ぎろん帰結きけつとして、フーコーを規律きりつ権力けんりょく中心ちゅうしん主義しゅぎ位置付いちづけるのは不可能ふかのうであろう。」(pp.144-145)

「(27) Foucault [1977a] pp.146-149(はちさん-はちろくぺーじ)。「イデオロギー」という概念がいねんもちいようとしない理由りゆうとして、フーコーはつぎみっつをげている。@イデオロギーはつねに「真理しんり」と潜在せんざいてき対置たいちされている。Aイデオロギーの観念かんねんは、かならず「主体しゅたい」に準拠じゅんきょしている。Bイデオロギーは、その下部かぶ構造こうぞうたいしていち退しりぞいた位置いちにある。」

桜井さくらい哲夫てつお20010510『教科書きょうかしょ フーコー』講談社こうだんしゃ

「ところで、周囲しゅうい人間にんげんたちは、フーコーが資格しかく試験しけん失敗しっぱいしたのはその直前ちょくぜんのフランス共産党きょうさんとう入党にゅうとうのせいだとかたっていたといます。口述こうじゅつ試験しけん試験管しけんかんたちの政治せいじてき偏見へんけんゆえではなかったのか、というのです。むろん真偽しんぎさだかではありません。アルチュセールも恋人こいびとのエレーヌの影響えいきょう入党にゅうとうしていましたので、アルチュセールに影響えいきょうされたのかもしれません。(…)」(p.24)

「『狂気きょうき歴史れきし』は、アルチュセールやカンギレム、フェルナン・ブローデルらの絶賛ぜっさんびますが、フーコーが期待きたいしたように、論壇ろんだん賞賛しょうさんされるという事態じたいにはなりませんでした。」(p.33)

「1980ねんはじめにイタリアの雑誌ざっし掲載けいさいされたフーコーへのインタビュー記事きじのなかで、トロンバドリは、ろくはちねん学生がくせい反乱はんらんさいにフランクフルト学派がくはのテーマが、いわば学生がくせいたちの言葉ことばのようになっていたことを指摘してきしています。そしてその事実じじつとフーコーとの関係かんけいについて質問しつもんします。これにたいして、フーコーは、つぎのようにこたえています(以下いかは、翻訳ほんやくではなく要約ようやくです)。
(…)
これにたいして、トロンバドリは、しかし、フランクフルト学派がくはは、たとえばアルフレート・シュミットなどのように、レヴィ=ストロースやアルチュセールの仕事しごと論評ろんぴょうしながらフランス構造こうぞう主義しゅぎそのものを批判ひはんしているではありませんか、といかけています。
 フーコーは、つぎのようにこたえます。
 かれらは、フロイトてき概念がいねんやらマルクス主義まるくすしゅぎヒューマニズム(疎外そがいろん)にまっているところがあるので、我々われわれが、うしなわれたアイデンティティの回復かいふくだの、とらわれた本質ほんしつ解放かいほうだのをめざしていないということを理解りかいできないことはわかっています。たとえば、マルクスにもどれば、かれう「人間にんげん人間にんげん生産せいさんする」という言葉ことばをどのように理解りかいすべきなのでしょうか。価値かち生産せいさんとみ生産せいさんおなじように人間にんげんによる人間にんげん生産せいさんおこなわれるとかんがえているフランクフルト学派がくは人々ひとびとわたし同意どういできません。かれらの、この人間にんげんによる人間にんげん生産せいさんについてのかんがかたこそが、合理ごうりせいむすびつけられる抑圧よくあつてきシステムないし階級かいきゅう社会しゃかいむすびつけられる搾取さくしゅシステムにおいて、人間にんげんをその本質ほんしつから疎外そがいするものすべてから解放かいほうする必然ひつぜんせいがある、という議論ぎろんかたちづくっているわけなのです。
 フーコーは、かれらの、完全かんぜん人間にんげん回復かいふく疎外そがいからの解放かいほう)という、ありもしないファンタジーにとらわれていると批判ひはんするわけです。つづけてフーコーは、フランクフルト学派がくは人々ひとびと歴史れきしたいするかんがかたは、自分じぶんかれらに失望しつぼうした部分ぶぶんだったとべています。」(p.130-132)


●アルチュセールとブルデューとの関係かんけいについてのメモ●

□ブルデューによるコメント
■ピエール・ブルデュー(ちょ),加藤かとう晴久はるひさ(へん)19901100『ピエール・ブルデュー―ちょう領域りょういき人間にんげんがく藤原ふじわら書店しょてん

「(…)アルチュセールの功績こうせきは、マルクスをデカルトやカントのように普通ふつう哲学てつがくしゃとしてあつかったこと、マルクスのもの神化しんかおこなったこと、スターリン主義しゅぎ思想しそうてきテロリズムのもとになった神秘しんぴ主義しゅぎてきなマルクスかん打破だはしたことにあります。
 一緒いっしょにやった共同きょうどうゼミナールは、かれが『資本しほんろんむ』のグループをつくるひとつのヒントになったのではないかとおもいます。アルチュセールの世代せだいにとっては、いやわたし世代せだいにとっても、共同きょうどう研究けんきゅうなるものは存在そんざいしなかったのです。(…)わたし社会しゃかいがくで、トゥレーヌしきの、霊感れいかんみちびかれたかのような社会しゃかいがく、あれもかわる、これもかわる、おおいにけっこうしき社会しゃかいがく対立たいりつしていましたし、アルチュセールは歴史れきしてき必然ひつぜんせいとか構造こうぞうとかのセンスをわせていましたから。
 ただ、その構造こうぞう主義しゅぎてきマルクス主義まるくすしゅぎなるものがもてはやされるようになると、かれ自身じしんけっしてひと攻撃こうげきしたりすることはなく、かれ弟子でしたちが……いや、かれいち、ある序文じょぶんのなかで「いわゆる〈社会しゃかい科学かがくなるもの」といういいかたをしたのですね。これはちょっとゆるせないとおもいましたね。そうしたことでなん議論ぎろんしたことをおぼえています。結局けっきょく、アルチュセールにはしたしみをっているけれども、アルチュセール主義しゅぎには批判ひはんてきといってよいでしょうね。」(p.35)

□アルチュセール研究けんきゅう
今村いまむら仁司ひとし19930810『アルチュセールの思想しそう講談社こうだんしゃ

他方たほう、ブルデューはどうかといえば、かれには『さい生産せいさん』や『ディスタンクシオン』という書物しょもつがある。ブルデューはけっしてだれかの「影響えいきょう」をけて追随ついずいするひとではないが、かれ理論りろんてき関心かんしんはおどろくほどアルチュセールとかさなる。かれがある時期じきからバシュラールの「認識にんしきろんてき切断せつだん」を問題もんだいにしはじめたり、象徴しょうちょうてき暴力ぼうりょくろんによるさい生産せいさんろん議論ぎろんしたり、象徴しょうちょう資本しほんろんによる階級かいきゅう分析ぶんせきをおこなうなどといったことは、アルチュセールの理論りろんてき刺激しげきなしにはかんがえられない。人類じんるいがくてきフィールドで社会しゃかいさい生産せいさん研究けんきゅうしてきたブルデューは、独自どくじ構想こうそうをもっていて、たとえばウエーバーのエートスろんをハイビトゥスろん改造かいぞうして独創どくそうてき理論りろん構成こうせい社会しゃかいがくてき記述きじゅつをおこなう。この方面ほうめんでは、アルチュセールにはないゆたかな内容ないようがブルデューにはあるのだから、われわれにとってはむしろ、アルチュセールとブルデューとの結合けつごうこそが生産せいさんてきになるだろう。アルチュセールが「イデオロギーてき主体しゅたい形成けいせい」を「国家こっか装置そうちろんでやったことを、フーコーは「訓練くんれん装置そうち」の具体ぐたいてき歴史れきし記述きじゅつによって、ブルデューは身体しんたいてきなハビトゥスの場面ばめんへの「信念しんねん」のみ(これがブルデューてきな「主体しゅたい形成けいせいろんである)を微細びさい記述きじゅつすることによって、それぞれに固有こゆう仕方しかたゆたかに展開てんかいしていった。(…)」(p.46)


●アルチュセールとグラムシの関係かんけいについてのメモ●

□アルチュセール研究けんきゅう
今村いまむら仁司ひとし19930810『アルチュセールの思想しそう講談社こうだんしゃ

「(…)社会しゃかい構成こうせいさい生産せいさん過程かていは、無数むすうの「イデオロギー装置そうち」によってささえられる。こうした問題もんだい意識いしきは、よくられているように、グラムシの「市民しみん社会しゃかいろんと「ヘゲモニー」ろんからつよ影響えいきょうけている。グラムシのいたかったことも、「市民しみん社会しゃかい」のさい生産せいさんは、特定とくてい支配しはい階級かいきゅうのイデオロギーてきヘゲモニーが市民しみん社会しゃかいのすみずみまで浸透しんとうすることなしにはありえないというものであった。しかしアルチュセールの関心かんしんは、このグラムシてきヘゲモニーが社会しゃかいのなかでどのように効果こうか発揮はっきするのかであり、この効果こうかのメカニズムを概念がいねんにまで仕上しあげることにあった。ここでアルチュセールはグラムシからはなれる。アルチュセールは問題もんだい所在しょざいをグラムシからまなんだが、その問題もんだいへの接近せっきんはむしろ独自どくじ構想こうそうによる。」(p.42)

「なぜマルクスにたいして批判ひはんてきかたをおこなわねばならないのか。その理由りゆうとして若干じゃっかんれいげておこう。マルクスは古典こてん批判ひはんする場合ばあいに、古典こてん経済けいざいがくてきしょカテゴリーが、「歴史れきしてき」、「永遠えいえんてき」、「固定こていてき」、「抽象ちゅうしょうてき」であるという批判ひはんくわえている。そうなると、マルクスの理論りろんてき立場たちばは、「歴史れきしてき」、「永遠えいえんてき」、「具体ぐたいてき等々とうとう用語ようごをもって特色とくしょくづけられよう。こうした判断はんだん――歴史れきしてき歴史れきしてきか、固定こていてき運動うんどうか――は、マルクスと古典こてんとの差異さい、マルクスの理論りろんてき革新かくしんせいをくもらせてしまう。このたねかんがかたは、マルクス自身じしんにおいても『哲学てつがく貧困ひんこん以来いらい一貫いっかんして存在そんざいしているが、その解釈かいしゃくしゃたちにおいてはさら拡大かくだいされてマルクス経済けいざいがく哲学てつがくなか支配しはいてきちからをふるっている。このようなかんがかたは、同時どうじに、マルクスとヘーゲルとの関係かんけい、とりわけ弁証法べんしょうほう特質とくしつ問題もんだいふかくかかわっているけれども、それらの問題もんだい適切てきせつ理解りかい不可能ふかのうとするかたむきがある。マルクス主義まるくすしゅぎへの敵対てきたいしゃについてはさておくとしても、マルクス主義まるくすしゅぎ立場たちばおおくの論者ろんしゃ、とくに「急進きゅうしんてき根源こんげんてき歴史れきし主義しゅぎ」の特徴とくちょうづけによってまとめられる思想家しそうかたち(たとえば、ルカーチ、コルシュ、グラムシなど)は、このたね見解けんかい徹底的てっていてきにおしすすめ、ひとつの重要じゅうよう理論りろん領野りょうやひらいた。しかし、かれらの理論りろんてき研究けんきゅうとその成果せいかは、その最深さいしんにおいては重大じゅうだいなマルクスへの誤解ごかいをひそめている。アルチュセールは、このてんかれらと決定的けっていてき対立たいりつし、「急進きゅうしんてき歴史れきし主義しゅぎ」の根源こんげん理論りろんてきにあばこうとする。」(p.74)

「マルクス=『資本しほんろん』において、《理論りろん》と《歴史れきし》とが問題もんだいとなるとき、その理論りろんとは経済けいざい抽象ちゅうしょうてき一般いっぱんてき理論りろんであり、その歴史れきしとは人間にんげんきる実在じつざいてき具体ぐたいてき歴史れきしである、というのが一般いっぱんてき了解りょうかい事項じこうであろう。そして、マルクスにおける資本しほん主義しゅぎ経済けいざい抽象ちゅうしょう理論りろん実在じつざいてき資本しほん主義しゅぎ経済けいざい歴史れきしとの関係かんけいは、ヘーゲルにおける哲学てつがく哲学てつがくとの関係かんけい比定ひていされる、というのがシュミットの見解けんかいである。ところが、アルチュセールは、このような形式けいしきでの《理論りろん》と《歴史れきし》との関係かんけいづけを否定ひていした。アルチュセールによれば、このたね理論りろん歴史れきし関係かんけい問題もんだいは、だいインターの主要しゅよう思想家しそうかたちの経済けいざい主義しゅぎてき問題もんだい設定せってい抽象ちゅうしょう理論りろん歴史れきしへの適用てきようというかたちでの両者りょうしゃ関係かんけいづけ)にもとづくか、あるいはグラムシ、ルカーチ、コルシュとう歴史れきし主義しゅぎてき問題もんだい設定せってい歴史れきし論理ろんり理論りろん〉との歴史れきし哲学てつがくてき実践じっせん哲学てつがくてき統一とういつ)にもとづいている。経済けいざい主義しゅぎ歴史れきし主義しゅぎ共通きょうつうかんがかたは、理論りろんという思考しこう過程かてい歴史れきしという人間にんげんによってきられた―きられる実在じつざいてき過程かていとをどういち平面へいめん結合けつごうできるとすることである。一方いっぽうこうに《理論りろん》があり、他方たほうこうに《きられる歴史れきし》がある、このりょうこうをうまくつなぐ解釈かいしゃく方式ほうしきつけすことがそれぞれの理論りろん課題かだいとなる。一方いっぽう理論りろんは、経済けいざいがくとそのそとさがせほう他方たほう理論りろん形而上学けいじじょうがくてき歴史れきし哲学てつがく
 アルチュセールが主張しゅちょうしたことは、科学かがくてき認識にんしき過程かてい思考しこう過程かてい理論りろん)と実在じつざいてき社会しゃかいてき過程かていとを直接的ちょくせつてき連関れんかんさせることは、認識にんしきろんてきには不可能ふかのうである、というのであった。(…)」(p.286-287)

■ジャック・ビデ1995→20050520「序文じょぶんにかえて」(アルチュセール『さい生産せいさんについて』平凡社へいぼんしゃ

「アルチュセールがここでグラムシから自分じぶん着想ちゃくそう一部いちぶていることはられている。グラムシは、「市民しみん社会しゃかい」――「政治せいじてき社会しゃかい」すなわち、狭義きょうぎ国家こっか行政ぎょうせいしょ機構きこう対置たいちされる――ののもとで、私的してきであれ、公的こうてきであれ、それらをつうじて、指導しどうてき階級かいきゅうのヘゲモニー、かれらのイデオロギーの優位ゆうい実現じつげんされるしょ制度せいど総体そうたいしめす。しかし、グラムシは、世界せかいかん文化ぶんか倫理りんりといったひろ意味いみを、このイデオロギーの概念がいねんあたえ、市民しみん社会しゃかいというでは上昇じょうしょう階級かいきゅう、すなわちプロレタリアートによる漸進ぜんしんてき闘争とうそうおこなわれ、ヘゲモニーの獲得かくとく同一どういつされた革命かくめいてきプロセス自体じたい進行しんこうする、とかんがえる。それゆえ、アルチュセールは、ブルジョアジーがみずからの支配しはい保証ほしょうするための手段しゅだんである国家こっか機構きこうしょ要素ようそとして、しょ制度せいど総体そうたいしめすことによって、このかんがえを転倒てんとうさせる。」(p.14)


●アルチュセールとフーコーとの関連かんれんについてのメモ●

□アルチュセールのフーコーへの言及げんきゅう

■1967-1968「哲学てつがくについてのノート」(19990720『哲学てつがく政治せいじ著作ちょさくしゅうU』藤原ふじわら書店しょてん

理論りろんてき生産せいさん関係かんけい定義ていぎ必要ひつようである。しかし、以下いか結合けつごう関係かんけいふくんでいなければならない。マルクスの「モデル」におけるのと同様どうよう理論りろんてき生産せいさんしょちからのなかにあらわれるしょ要素ようそが、交差こうさしたかたちであらわれること。ただし、ことなる構造こうぞうてき関係かんけいむすんであらわれること。本質ほんしつてき要素ようそとしては、科学かがくてきであり理論りろんてきであるもの/イデオロギーてきであり理論りろんてきであるもの、というたいである。つまり哲学てつがく効果こうかである。)
 注意ちゅうい理論りろんてき生産せいさん関係かんけいは、フーコーがエピステーメーという逸脱いつだつした用語ようごおこなっているむなしい探求たんきゅうともかかわる。しかし我々われわれ原理げんりじょうかれよりはるかにすすんでいる。」(p.914)

■1995→2005『さい生産せいさんについて』

「(…)封建ほうけんせい、およびその教会きょうかい筆頭ひっとうとする国家こっかしょ装置そうちによりおこなわれた、こうした「イデオロギーてき階級かいきゅう闘争とうそうしんじがたい暴力ぼうりょくのことをかんがえていただきたい。こうした階級かいきゅう闘争とうそうは、禁止きんし異端いたん放棄ほうきちかいだけでなく、拷問ごうもん火刑かけいちている。ガリレイとジョルダノ・ブルーノ、この二人ふたり名前なまえしかげないが、それ以外いがいにも宗教しゅうきょう戦争せんそう国家こっか宗教しゅうきょうてきイデオロギー装置そうち内部ないぶで、異端いたん正統せいとうのあいだであらそわれたはげしい階級かいきゅう闘争とうそう)で虐殺ぎゃくさつされた無数むすうひとびと、また刑罰けいばつや〈だい監禁かんきん〉に見舞みまわれるよう運命うんめいづけられたおおくの「悪魔あくま憑き」、「魔女まじょ」、そして「狂人きょうじん」たちがおり、これについてミシェル・フーコーは、フランスにおいてはじめてひとつのかんがえをおおやけにする勇気ゆうきをもった(97)。(…)」(p.227)

「(97)Histoire de la Folie, Plon [『狂気きょうき歴史れきし』、田村たむら俶訳、新潮社しんちょうしゃいちきゅうななねん]。われわれの資本しほん主義しゅぎてき社会しゃかい構成こうせいたいにおいて、国家こっかの「医療いりょうてき」イデオロギー装置そうち権利けんりがあるとかんがえられるものについて、われわれはこれまで沈黙ちんもくしてきた。この装置そうちは、それだけでいち研究けんきゅう全体ぜんたいあたいするものであろうが、われらが〈医学いがくかい権威けんい〉たちによって無視むしされたフーコーのこの注目ちゅうもくすべき著作ちょさく残念ざんねんながら、われらが〈権威けんい〉たちは、もはやこうした著作ちょさくやしてしまうことができないのだ)は、この装置そうちにかんする重要じゅうようしょ要素ようそ系譜けいふがくを、われわれにあたえてくれる。じっさい、ピネルの〈ヒューマニズム〉やドレーの薬理やくりがくによって緩和かんわされたとはいえ、依然いぜんとしていち抑圧よくあつ歴史れきしである〈狂気きょうき〉の歴史れきしつづいている。そしてこの歴史れきしは、おおくの医師いしたちが自分じぶんたちの便宜べんぎのために「狂気きょうき」とぶものを、きわめて大幅おおはばにはみしている。」(p.420)

□フーコーのアルチュセールへの言及げんきゅう
(とりあえずミシェル・フーコー『思考しこう集成しゅうせい』からアルチュセールについて直接的ちょくせつてき言及げんきゅうしている部分ぶぶん抜書ぬきがき)

■37「マドレーヌ・シャンプサルとの対談たいだん

「――これらの饒舌じょうぜつにして、理論りろんてき実践じっせんてきこころみは、人間にんげんすくうこと、人間にんげんのうちに人間にんげんさい発見はっけんすることなどなどを目的もくてきとし、たとえばマルクスとテイヤール・ド・シャルダンをわせようとする(こうしたヒューマニズムにあふれたこころみが知的ちてき作業さぎょう総体そうたいをもうなんねん麻痺まひさせているのです)。わたしたち課題かだいはヒューマニズムから完全かんぜん自由じゆうになることで、その意味いみわたしたち仕事しごと政治せいじてきなのです。なにしろ、東西とうざい諸々もろもろ政治せいじ体制たいせいが、その出来できわる商品しょうひんを、ヒューマニズムのパヴィリオンにんで通過つうかさせようとするのですから……こうした迷妄めいもう数々かずかず告発こくはつしなくてはなりません、たとえば現在げんざい共産党きょうさんとう内部ないぶでアルチュセールとその勇敢ゆうかん仲間なかまが「シャルダン−マルクス主義まるくすしゅぎ」とたたかっているように……」(U,p.332-333)

■48「歴史れきしかたについて」

「――あなたがおっしゃる歴史れきし研究けんきゅうあたらしさは正確せいかくにはどこにあるのでしょうか。

――これらの研究けんきゅう特徴とくちょうをいささか図式ずしきてきにですが、つぎのように整理せいりすることができるでしょう。
(1)こうした歴史れきしたちは時代じだい区分くぶんという非常ひじょうにむずかしい問題もんだいんでいます。(…)
(2)それぞれの時代じだい区分くぶんは、歴史れきしにおけるある一定いってい水準すいじゅん出来事できごとっているわけですが、ぎゃくに、出来事できごとをなすそうのそれぞれが固有こゆう時代じだい区分くぶん必要ひつようとしてもいる。(…)
(3)人間にんげんしょ科学かがく歴史れきしがくむかしながらの伝統でんとうてき対立たいりつ前者ぜんしゃともてきなものと進化しんかてきなものを研究けんきゅうし、後者こうしゃえざるだい変動へんどう次元じげん分析ぶんせきする)がなくなりました。(…)
(4)歴史れきしがくてき方法ほうほう定義ていぎするものとかんがえられていた普遍ふへんてき因果いんが関係かんけいよりも、ずっと多数たすう関係かんけいのタイプやむすびつきの様態ようたいが、歴史れきし分析ぶんせき導入どうにゅうされています。
 こうして、たぶんはじめて、記号きごう痕跡こんせき制度せいど実践じっせん作品さくひんといったかたちで時間じかんながれのなかに堆積たいせきされてきた素材そざい総体そうたい対象たいしょうとして分析ぶんせきされうることになったわけです。これらの変化へんかには、ふたつのはっきりとした重要じゅうよううごきがれます――
歴史れきしたちのがわでは、ブローデル、ケンブリッジ学派がくは、ロシア学派がくは等々とうとう仕事しごと
他方たほうでは、『「資本しほんろん」をむ』の冒頭ぼうとうでアルチュセールが展開てんかいした歴史れきしという概念がいねんじつ見事みごと批判ひはん分析ぶんせき、です。

――あなたはご自分じぶん仕事しごととアルチュセールの仕事しごととのあいだには直接的ちょくせつてき親近しんきんせいがあるとおかんがえなのですね?

――かつてかれの生徒せいとであり、かれにおおくをっているので、たぶんわたしはかれが非難ひなんするであろうようなこころみまでもかれの影響えいきょうだといがちです。だからかれのがわでどうかんがえているかについてはおこたえできません。いずれにしてもえるのは、アルチュセールの著作ちょさくをひもといてください、ということですね。
 とはいえ、アルチュセールとわたしのあいだには、はっきりとしたちがいがひとつあります。かれはマルクスについて認識にんしきろんてき切断せつだんという言葉ことばもちいるのですが、わたしのほうぎゃくにマルクスは認識にんしきろんてき切断せつだん代表だいひょうしてはいないとはっきりとっています。」(U,p.432-433)

■54「ミシェル・フーコーとのインタヴュー」

「――まずはじめに、レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、バルト、そしてあなた自身じしんといった研究けんきゅうしゃあいだには、なにが共通きょうつうしているのでしょうか?

――構造こうぞう主義しゅぎ攻撃こうげきしている人々ひとびとたずねると、かれらはわれわれすべてのうちにある共通きょうつう特徴とくちょうており、それがかれらの不信ふしんいかりをまねいているような印象いんしょうけます。それにたいして、レヴィ=ストロースやラカン、アルチュセール、あるいはわたし自身じしんいてごらんになれば、われわれはそれぞれ、自分じぶんさんにんあいだには共通きょうつうなものはなにもない、またこれらさんにんあいだにもなに共通きょうつうなものはない、と明言めいげんするでしょう。(…)この人間にんげん主体しゅたい意識いしき実存じつぞん排除はいじょが、現代げんだい研究けんきゅうを、おおまかに、否定ひていてき仕方しかた特徴とくちょうづけているようにおもわれます。肯定こうていてきには、構造こうぞう主義しゅぎはなによりも無意識むいしき探求たんきゅうする、といっておきましょう。現在げんざいひとが解明かいめいしようとしているのは、言語げんご文学ぶんがく作品さくひん認識にんしき無意識むいしきてき構造こうぞうなのです。だいに、本質ほんしつてき研究けんきゅう対象たいしょうとなっているのは、形式けいしき体系たいけいであり、つまり言語げんごやイデオロギー(アルチュセールの分析ぶんせきのように)、社会しゃかい(レヴィ=ストロースにおけるように)、あるいはことなった認識にんしき領野りょうや――これがわたし自身じしんんだことでした―― にぞくするすうおおくの要素ようそあいだ存在そんざいする、論理ろんりてき相関そうかん関係かんけいさせるべく努力どりょくがなされているといってよかろうとおもいます。おおまかにえば、構造こうぞう主義しゅぎとは、それがしょうじえたとこではどこでもなされうる論理ろんりてき構造こうぞう研究けんきゅうである、と記述きじゅつできるでしょう。」(V,p.41-42)

「(…)サルトルやガロディといったひとが、さまざまな知的ちてき潮流ちょうりゅうあいだの、こうした平和へいわ共存きょうぞんのためにはたらいているのはあきらかですし、かれらはまさしく、ヒューマニズムを放棄ほうきするべきではないし、テイヤール・ド・シャルダンも放棄ほうきすべきではない、また実存じつぞん主義しゅぎもいくらかはただしいし、教条きょうじょう主義しゅぎてきではなく、具体ぐたいてき世界せかいひらかれてさえいれば構造こうぞう主義しゅぎもそうだ、というふうにっているのです。共存きょうぞん前面ぜんめんしたこうしたながれの対極たいきょくに、「右寄みぎよりの人々ひとびと」が教条きょうじょう主義しゅぎてきしんスターリン主義しゅぎてき中国ちゅうごくてきながれがあります。フランス共産党きょうさんとう内部ないぶでのこうした傾向けいこうは、一貫いっかんした、イデオロギーてきれうる、マルクスの教義きょうぎ合致がっちした政治せいじ科学かがく哲学てつがくマルクス主義まるくすしゅぎてき理論りろんふたた確立かくりつしようとするこころみです。現在げんざい共産党きょうさんとうない左翼さよくぞくする共産きょうさん主義しゅぎてき知識ちしきじんらによっておこなわれているのはこのこころみであり、かれらはおおかれすくなかれアルチュセールのまわりに集結しゅうけつしています。この構造こうぞう主義しゅぎてきなグループは、左寄ひだりよりなのです。(…)」(V,p.47- 48)

■55「フーコー、サルトルにこたえる」

「――構造こうぞう主義しゅぎは、今日きょうどのように定義ていぎなさいますか?

――「構造こうぞう主義しゅぎしゃ」という項目こうもくした分類ぶんるいされるひとたち、レヴィ=ストロースでもラカンでもアルチュセールでも、また言語げんご学者がくしゃなど、だれでもいいのですが、このひとたちにたずねてごらんになれば、かれらは、自分じぶんたちにはたがいに共通きょうつうなものなどまったくない、あるいはほんのわずかしかない、とこたえるでしょう。構造こうぞう主義しゅぎというのは、ひとのために、そうでないひとのために存在そんざいするカテゴリーなのです。このひととこのひと、そしてこのひと構造こうぞう主義しゅぎしゃだ、などとえるのは、外部がいぶからにかぎります。構造こうぞう主義しゅぎしゃなんたるかは、サルトルにくべきです、というのもかれは、構造こうぞう主義しゅぎしゃ(レヴィ=ストロース、アルチュセール、デュメジル、ラカンそしてわたし)が一貫いっかんしたグループ、一種いっしゅ統一とういつせい構成こうせいするグループをなすとかんがえているからですが、この統一とういつせいというのが、いいですか、われわれには、えてこないのです。」(V,p.57-58)

■85「ミシェル・フーコーとの対談たいだん

「S.P.ルアネ――やはりマルクス主義まるくすしゅぎかんして、もうひとべつ質問しつもんをさせていただきたいとおもいます。『言葉ことばもの』のなかで「経験けいけんてき超越ちょうえつろんてき重体じゅうたい」についてかたりつつ、あなたは、現象げんしょうがくマルクス主義まるくすしゅぎとが、ポジティヴィスムあるいは終末しゅうまつろんのいずれかへと必然ひつぜんてきみちび運動うんどうたんなる異本いほんぎない、とおっしゃいました。一方いっぽう、アルチュセールの思考しこうは、一般いっぱんてきって諸々もろもろ構造こうぞう主義しゅぎがわに、そしてしばしばあなたご自身じしん仕事しごとおながわ分類ぶんるいされます。あなたは、アルチュセールてきマルクス主義まるくすしゅぎについて、それがポジティヴィスムと終末しゅうまつろんによって限界げんかいづけられた布置ふちえているとおかんがえになりますか。あるいはそれとも、アルチュセールの思考しこうもやはり、そうした布置ふち内部ないぶ位置いちづけられるとかんがえていらっしゃるのでしょうか。

M.フーコー――だいいちこたえをえらびたいとおもいます。この問題もんだいかんして、わたし自己じこ批判ひはんおこなわなければなりません。『言葉ことばもの』のなかでマルクス主義まるくすしゅぎについてかたったさいわたしは、自分じぶんなにおうとしているのかということを十分じゅうぶん明確めいかくにしませんでした。このほんのなかでわたしは、自分じぶん歴史れきしてき分析ぶんせきが、ある特定とくてい期間きかん、すなわち、おおまかにっていちろくねんからいちはちねんまで、もしくはせいぜいじゅうきゅう世紀せいきまついたるまでの期間きかんについてのものであり、また、言語げんご生命せいめい労働ろうどうかんするしょ科学かがくによって構成こうせいされる特定とくてい領域りょういきについてのものであるということを、はっきりとしめしたつもりでした。このほんのなかでマルクス主義まるくすしゅぎについてかたったとき、わたしは、このテーマに過大かだい重要じゅうようせい付与ふよされていることはっていたわけですから、そこで問題もんだいにしているのがせいぜいヨーロッパにおいてじゅうきゅう世紀せいきはじめまで機能きのうしたものとしてのマルクス主義まるくすしゅぎである、ということを、ことわっておくべきでした。また、このてんわたし失敗しっぱいであったのですが、問題もんだいになっているのが、たとえばエンゲルスのような、マルクスを注釈ちゅうしゃくしているいくにんかの人々ひとびとのうちにいだされるものとしての特定とくていマルクス主義まるくすしゅぎである、ということも、明確めいかくしめしませんでした。そして、そのようなものとしてのマルクス主義まるくすしゅぎはまた、マルクス自身じしんのうちにもいだすことができます。わたし一種いっしゅマルクス主義まるくすしゅぎてき哲学てつがくのことをかんがえているのですが、わたしかんがえではこれは、マルクスの歴史れきしてき社会しゃかいてき分析ぶんせきとその革命かくめいてき実践じっせんとから派生はせいしたイデオロギーてき付随ふずいぶつであり、マルクス主義まるくすしゅぎ中心ちゅうしんてき思想しそうではありません。マルクス主義まるくすしゅぎ核心かくしんを、資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい分析ぶんせきとそうした社会しゃかいにおける革命かくめいてき行動こうどう図式ずしきとしてかんがえるならば、わたしマルクス主義まるくすしゅぎについてかたったのではなく、一種いっしゅマルクス主義まるくすしゅぎてきヒューマニズムについてかたったということになります。イデオロギーてき付随ふずいぶつ哲学てつがくてきバックグラウンド・ミュージックとしての。
J.G.メルキオール――「マルクス主義まるくすしゅぎてきヒューマニズム」という表現ひょうげんをお使つかいになることで、あなたの批判ひはん自動的じどうてきにひとつの理論りろんてき領域りょういきへとけられることになり、それによってアルチュセールは、あなたの批判ひはんまぬかれることになります。
M.フーコー――はい。わたし批判ひはんは、たとえばガロディのような著作ちょさくたいしては依然いぜんとして有効ゆうこうであるとおもわれますが、アルチュセールのような知識ちしきじんたいしては適用てきようされません。」(W,p.55-57)

■103「歴史れきしへの回帰かいき

現象げんしょう学者がくしゃ実存じつぞん主義しゅぎしゃによってとなえられた異議いぎは、一般いっぱんに、あるしゅマルクス主義まるくすしゅぎしゃたちがそのままかれらにけたものにほかなりません。もっともここでいうマルクス主義まるくすしゅぎしゃは、いわばおおざっぱで短絡たんらくてきマルクス主義まるくすしゅぎしゃ、いいかえれば自分じぶんたちの準拠じゅんきょする理論りろんとしてマルクス主義まるくすしゅぎそのものをとりあげるのではなく、まさに現代げんだいのブルジョワ・イデオロギーによりかかっている連中れんちゅうというくらいの意味いみなのですが。ぎゃくに、より真剣しんけんマルクス主義まるくすしゅぎ、いいかえればしん革命かくめいてきマルクス主義まるくすしゅぎがわからも異議いぎがとなえられています。かれらがもうてる異議いぎは、つぎのような事実じじつにもとづいています。すなわち、学生がくせい知識ちしきじんのなかでこった、あるいはいまなおこりつつある革命かくめい運動うんどうは、構造こうぞう主義しゅぎ運動うんどうにほとんどなにもっていないということ。この原則げんそくかんして例外れいがいというべきケースは、おそらくひとつしかありません。アルチュセールの場合ばあいです。マルクスのテキストをみ、これを分析ぶんせきするにあたって、アルチュセールは構造こうぞう主義しゅぎてき方法ほうほうとみなしうるものをいくつか適用てきようしたマルクス主義まるくすしゅぎしゃであり、かれ分析ぶんせきはヨーロッパにおけるマルクス主義まるくすしゅぎ最近さいきん歴史れきしのなかで、きわめておおきな重要じゅうようせいをもっていたといわなければなりません。その重要じゅうようせいつぎにような事実じじつむすびついています。つまりアルチュセールは伝統でんとうてきなマルクス解釈かいしゃくを、あらゆるヒューマニズム、あらゆるヘーゲル主義しゅぎ、さらにはおもくのしかかっていたあらゆる現象げんしょうがくから解放かいほうし、そのかぎりにおいてかれは、大学だいがくじんのそれではないマルクスのかた純粋じゅんすい政治せいじてきかたをふたたび可能かのうにしたのです。しかしながら、最初さいしょはどんなに重要じゅうようだったにせよ、アルチュセールの分析ぶんせき革命かくめい運動うんどう自体じたいによってたちまちえられてしまいました。その革命かくめい運動うんどうは、周知しゅうちのように学生がくせいそう知識ちしきじんそうのなかでこった運動うんどうでありながら、本質ほんしつてきはん理論りろんてき運動うんどうでした。そのうえ、最近さいきん世界中せかいじゅうこった革命かくめい運動うんどうおおくは、レーニンよりローザ・ルクセンブルクにちかいものでした。いいかえれば、これらの運動うんどう理論りろんてき分析ぶんせきより大衆たいしゅう自発じはつせいによりおおくのしんをおくものだったのです。」(W,p.205-206)

■119「アルケオロジーからディナスティックへ」

「――わたしは、ヨーロッパのあるしゅマルクス主義まるくすしゅぎしゃたちが歴史れきし分析ぶんせき実践じっせんする場合ばあい、そのかれらのやりかたというものにおそろしくはらをたてています。また、かれらがマルクスを参照さんしょうする場合ばあいのやりかたにも、ひどくはらをたてているのです。
 なにかんにさわるかといえば、そのだいいちのものは、かれらがマルクスを参照さんしょうする場合ばあいのやりかたということになりましょう。わたしは最近さいきん、「パンセ」掲載けいさいされたある論文ろんぶんみました。けっして駄目だめ論文ろんぶんではない。むしろたいそううつくしいいちへん論文ろんぶんなのです。それは、じつはわたし自身じしんとも面識めんしきのある青年せいねんによってかれたもので、アルチュセールの協力きょうりょくしゃとしてよくられているバリバールのになるもので、マルクスてき概念がいねんによる国家こっかとその変換へんかんをめぐるざましい研究けんきゅうになっています。」(W,p.400-401)

■139「真理しんり裁判さいばん形態けいたい

「(…)だれかが、人間にんげん具体ぐたいてき本質ほんしつ労働ろうどうだ、といました。えば、このテーゼは何人なんにんものひとくちにしました。それはヘーゲルにも、ポスト・ヘーゲルにも、またマルクスにもられます。アルチュセールなら、ある時期じきのマルクスとうでしょうが。わたしだれったかということに関心かんしんがあるのではなく、げんひょう機能きのう関心かんしんをもっていますから、だれがいつったかといったことにはおもきをきません。(…)」(X,p.187)

■160「精神せいしん病院びょういんせい監獄かんごく

「(…)わたしがサン・パウロ大学だいがく講座こうざ説明せつめいしようとしたのは、ナチズムとスターリニズムの終焉しゅうえん以来いらい資本しほん主義しゅぎおよび社会しゃかい主義しゅぎ社会しゃかい内部ないぶでの権力けんりょく機能きのう問題もんだいになってきたということです。ただしわたし権力けんりょく機能きのううときには、たん国家こっか機構きこう支配しはい階級かいきゅう覇権はけんてき特権とっけん階級かいきゅうといった問題もんだいだけをすんではなく、むしろ末端まったん付近ふきん微細びさいなところではたらいている一連いちれんのミクロ権力けんりょく、つまり個人こじん個人こじん日常にちじょう行為こういはおろか身体しんたいそのものにまでおよんでいく権力けんりょくしているんです。我々われわれ権力けんりょく策略さくりゃくあみにからめられて生活せいかつしている。わたしうのはそういう意味いみでの権力けんりょくです。ナチズムとスターリニズムの終焉しゅうえん以降いこうだれにとってもそれが問題もんだいになっている。今日きょうきってのだい問題もんだいです。
 付言ふげんしておけば、この問題もんだいかんしては従来じゅうらいふたつのかんがかたかたがあって、それはそれなりに面白おもしろいんですが、そのいずれもわたし見解けんかいとはまったくことなっています。ひとつは正統せいとうてきとも伝統でんとうてきともいえるマルクス主義まるくすしゅぎてき見解けんかいで、これらの問題もんだいはすべてむかしながらの国家こっか機構きこう問題もんだいふくめて考察こうさつするといったやりかた。「国家こっかのイデオロギー装置そうち」という概念がいねんしたアルチュセールのこころみがこれにたります。ふたのものは構造こうぞう主義しゅぎ言語げんごがく記号きごうがくといった流派りゅうはで、この問題もんだいすべて「意味いみするもの(シニフィアン)」の次元じげん公式こうしきして片付かたづけるやりかたです。だい大戦たいせん以後いごしょうじた具体ぐたいてき問題もんだい全体ぜんたいをあっさり単純たんじゅんしてしまうやりかたとして、このようにかたマルクス主義まるくすしゅぎてきな、かたやアカデミックなふたつの方法ほうほうがあるわけです。」(X,p.399)

■219「フーコーによる序文じょぶん

「その結果けっかひとつの逆説ぎゃくせつまれる。カンギレムの作品さくひんかざがなく、科学かがくのある特定とくてい領域りょういきにあえて注意ちゅうい集中しゅうちゅうさせている。いずれにせよ科学かがくなどはおもしろおかしい学問がくもんとしては通用つうようしないのだが、そのカンギレム自身じしんがおよそ参加さんかしようなどとはおもっていなかった議論ぎろんかお破目われめになったのである。だがカンギレムをったら、アルチュセールもアルチュセール主義しゅぎもよく理解りかいできないし、フランスのマルクス主義まるくすしゅぎにおける一連いちれん議論ぎろんもすべて理解りかいできなくなってしまうだろう。またブルデュー、カステル、パスロンといった社会しゃかい学者がくしゃたちの特殊とくしゅせいも、社会しゃかいがく分野ぶんやかれらの影響えいきょうきわだたせているのがなんなのかもわからなくなるだろう。精神せいしん分析ぶんせきとりわけラカン主義しゅぎしゃたちの理論りろんてき研究けんきゅういち側面そくめんもまったく見逃みのがしてしまうことになる。そればかりではない。いちきゅうろくはちねん運動うんどう前後ぜんご思想しそうてき論争ろんそうにおいて、おおかれすくなかれカンギレムの教育きょういくけたもの位置いちづけることは簡単かんたんなことなのだ。」(Z,p.4)

■234「哲学てつがく舞台ぶたい

「このような〈主体しゅたい〉の根底こんていてき根源こんげんてき性格せいかくこそ、構造こうぞう主義しゅぎしゃばれた人々ひとびと共通きょうつうのものだった。それが先行せんこう世代せだいにとって、きわめて不愉快ふゆかいなことだったわけですが、ラカンの精神せいしん分析ぶんせきにせよ、レヴィ=ストロースの構造こうぞう主義しゅぎにせよ、バルトの分析ぶんせき、アルチュセールの仕事しごと、あるいはわたし仕事しごとにせよ、わたしたちはすべてこのいちてんについては意見いけん一致いっちしていた。すなわち、デカルトてき意味いみでの〈主体しゅたい〉、そこからすべてがまれてくるような根源こんげんてきてんとしての〈主体しゅたい〉から出発しゅっぱつしてはならない、ということでした。そしてだいさんには、〈主体しゅたい解体かいたい〉をつうじて、ニーチェへとみちびかれたことです。」(Z,p.178-179)

■281「ミシェル・フーコーとの対話たいわ

「――共産党きょうさんとうにおけるこのみじか経験けいけん終了しゅうりょうしたのちは、けっして政治せいじ活動かつどうには参加さんかされなかったのですか。

――参加さんかしませんでした。わたし学生がくせい時代じだいえました。この時期じきわたしは、フランス共産党きょうさんとう活動かつどうしていたルイ・アルチュセールと頻繁ひんぱんにつきあっていました。そもそも、入党にゅうとうしたのは、すこしはかれ影響えいきょうからでした。そして、離党りとうしたとき、かれからはなんら破門はもん制裁せいさい(アナテマ)はありませんでした。離党りとうしたからといって、かれわたしとの関係かんけいとうとはしなかったのです。

――アルチュセールとあなたとのきずな、あるいはすくなくともおにん一定いってい知的ちてき類縁るいえん関係かんけいは、一般いっぱんられているよりもとお起源きげんをもっていますね。わたしいたいのは、とりわけ、いちきゅうろく年代ねんだいフランスで理論りろんてき議論ぎろん舞台ぶたい支配しはいした構造こうぞう主義しゅぎをめぐる論争ろんそうにおいて、あなたのなんもアルチュセールのむすびつけられていたという事実じじつですが。アルチュセールはマルクス主義まるくすしゅぎしゃで、あなたはちがいます。レヴィ=ストロースそのもそうではありません。批評ひひょうは、あなたがた全員ぜんいんおおかれすくなかれ「構造こうぞう主義しゅぎしゃ」というタームのもとにまとめました。それをどうやって説明せつめいされますか。そしてあなたがたの探求たんきゅう共通きょうつう下地したじ、そういったものがあるのならばですが、それはなにだったのでしょうか。

――ここじゅう年間ねんかん、「構造こうぞう主義しゅぎしゃ」とばれてきたけれども、もちろんレヴィ=ストロースをのぞいて、構造こうぞう主義しゅぎしゃではなかったひとびと、すなわちアルチュセール、ラカン、わたし、これらのひとびとのあいだにひとつの共通きょうつうてんがあります。実際じっさいのところ、この収斂しゅうれんてんなにだったのか。それは、主体しゅたいいをべつ仕方しかたいなおすこと、フランス哲学てつがくがデカルト以来いらいけっして放棄ほうきすることがなく、現象げんしょうがくによって強化きょうかされたあの基本きほんてき公準こうじゅんから自由じゆうになることです。精神せいしん分析ぶんせきから出発しゅっぱつして、ラカンは、無意識むいしき理論りろんは(デカルトてき意味いみばかりではなく主体しゅたいというかたり現象げんしょうがくてき意味いみにおいても)主体しゅたい理論りろんとは両立りょうりつ不可能ふかのうであることをあきらかにしました。
(…)アルチュセールは、主体しゅたい哲学てつがくいなおしましたが、それはフランスのマルクス主義まるくすしゅぎ現象げんしょうがく人間にんげん主義しゅぎによっていささか浸透しんとうされていたからであって、さらに疎外そがい理論りろん人間にんげんてき主体しゅたいをして、マルクスの政治せいじてき経済けいざいてきしょ分析ぶんせき哲学てつがくてき語彙ごい翻訳ほんやくすることを可能かのうにする基盤きばんとなしていたからなのです。アルチュセールの作業さぎょうは、マルクスのしょ分析ぶんせきをやりなおし、それら分析ぶんせきのなかに、たとえばロジェ・ガロディのような一部いちぶマルクス主義まるくすしゅぎしゃ理論りろんてき立場たちば依拠いきょする、あの人間にんげんてき本性ほんしょう主体しゅたい疎外そがいされた人間にんげんといったかんがえがあらわれているかどうかをうことにそんしていました。アルチュセールのこたえが完全かんぜんにネガティヴであったことはよくられたことです。」([,p.208-209)

「――けれども、奇妙きみょうなことに、ルイ・アルチュセールもそうした破門はもん譴責けんせき対象たいしょうとなりましたね。かれ探求たんきゅう十全じゅうぜんマルクス主義まるくすしゅぎ自己じこ同一どういつし、マルクス主義まるくすしゅぎのもっとも忠実ちゅうじつ解釈かいしゃくたろうとしていたというのに。というわけで、アルチュセールもまた、構造こうぞう主義しゅぎしゃのうちに位置いちづけられました。では、『資本しほんろんむ』のようなマルクス主義まるくすしゅぎ作品さくひんと、あなたの『言葉ことばもの』といった書物しょもつ、これらはろく年代ねんだい中頃なかごろ刊行かんこうされ、とてもことなった方向ほうこうをもっていたわけですが、これらがはん構造こうぞう主義しゅぎおな論争ろんそう標的ひょうてきになったということを、どうやって説明せつめいされるのでしょうか。

――アルチュセールについては、正確せいかくもうげることはできません。(…)」([,p.226-227)

■336「スティーヴン・リンギスによるミシェル・フーコーへのインタヴュー」

「――パリでのあなたの学業がくぎょうについてすこしおはないただけますか。今日きょうあなたがなさっているような仕事しごとについて、だれかが特定とくてい影響えいきょうおよぼしているのでしょうか。あるいは、個人こじんてき理由りゆうから、あなたが感謝かんしゃねんいだかれている教授きょうじゅはおられますか。

――いいえ。わたしはアルチュセールの生徒せいとでした。そして、当時とうじ、フランスにおける主要しゅよう哲学てつがくてき趨勢すうせいマルクス主義まるくすしゅぎ、ヘーゲル主義しゅぎ現象げんしょうがくだったのです。むろん、わたしはそれらをまなびましたが、はじめて個人こじんてき仕事しごとをやりげようという欲望よくぼういたのはニーチェの読解どっかいつうじてでした。」(\,p.430)


●ドゥルーズのアルチュセールへの言及げんきゅう

■ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ1972→19860510『アンチ・オイディプス』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ

「コード公理系こうりけいとのあいこと
何故なぜ資本しほん主義しゅぎは、たんにひとつのコードをいまひとつのべつのコードにえているだけなのだといってはいけないのか。あるいは、資本しほん主義しゅぎは、たんにあたらしいかたのコード実現じつげんしているだけなのだといってはいけないのか。それは、そういいることができないふたつの理由りゆうがあるからである。そのひとつは、いわば道徳どうとくてきにいって、いまひとつは、むしろ論理ろんりてきにいって不可能ふかのうであるという理由りゆうからである。(…)間接かんせつてき質的しつてき限定げんていてきといった、コードの関係かんけいにかかわるしょ性格せいかくはすべて、コードがけっして経済けいざいてきなものではなく、また経済けいざいてきなものではありえないということをあますところなくしめしている。むしろ、コードは、つぎのような外見がいけんじょう客観きゃっかんてき運動うんどう表現ひょうげんしているのである。つまり、あたかも、登記とうき土台どだい動因どういんをなすちょう経済けいざいてき決定けってい機関きかんしんきゅう〕から流出りゅうしゅつしてくるものででもあるかのように、種々しゅじゅ経済けいざいりょく生産せいさんてき接続せつぞくとがこのちょう経済けいざいてき決定けってい機関きかん帰属きぞくしているようにみえる客観きゃっかんてき運動うんどう表現ひょうげんしているのである。このことは、アルチュセールとバリバールとがきわめて明確めいかく指摘してきしていることである。かれらは、たとえば封建ほうけんせい場合ばあいにおいて、いかにして法律ほうりつてき政治せいじてきしょ関係かんけい支配しはいてきであると規定きていされるのかということを指摘してきしている。何故なぜなら、ここでは剰余じょうよ価値かち形態けいたいとしての剰余じょうよ労働ろうどうは、労働ろうどうながれとは質的しつてきにも時間じかんてきにも区別くべつされるながれを構成こうせいするものであり、したがって、経済けいざいてきしょ因子いんしふく質的しつてきふくごうぶつそのもののなかはいるべきものであるからである(98)。あるいはまた、かれらは、いわゆる原始げんし社会しゃかいにおいては、いかにして、縁組えんぐみ出自しゅつじとの土着どちゃくてきしょ関係かんけい支配しはいてきであると規定きていされるのかということを指摘してきしている。この社会しゃかいにおいては、種々しゅじゅ経済けいざいりょく種々しゅじゅ経済けいざいてきながれとが、大地だいち充実じゅうじつ身体しんたいうえ登記とうきされ、この身体しんたい帰属きぞくしているからである。アルチュセールとバリバールが指摘してきしていることは、こうしたてんである。ようするに、はん生産せいさん決定けってい機関きかんしんきゅう〕としての充実じゅうじつ身体しんたい経済けいざいうえかさなり、経済けいざい自分じぶんのものにしてしまうところにしか、コードは存在そんざいしないのだ。(…)したがって、コードの関係かんけいは、当該とうがい社会しゃかい存在そんざい存続そんぞくする条件じょうけんとして、ひとつの共同きょうどう評定ひょうじょう評価ひょうか体系たいけいといったものを前提ぜんていとしている。つまり、ひとまとまりをなしている知覚ちかく器官きかんを((あるいは、もっと正確せいかくにいえば信仰しんこう器官きかんを、といってもいい))前提ぜんていとしている。」(p.296-297)

「(98) Cf. Marx, Le Capital, V, 6, ch. 24, Pleiade U, p.1400.
「このような条件じょうけんのもとにおいて、名目めいもくじょう土地とち所有しょゆうしゃのための労働ろうどうをかれらに無理むりやりに実行じっこうさせるためには、いかなる性質せいしつのものであれ、経済けいざい外的がいてき理由りゆうがなければならない。」大月書店おおつきしょてんばん『マルクス・エンゲルス全集ぜんしゅう廿にじゅうかんb、いちいちよんぺーじ。」(p.503)

「では、何故なぜ劇場げきじょうであるのか。なんと奇妙きみょうであることか、この劇場げきじょう無意識むいしきは。このかみ粘土ねんど無意識むいしきは。劇場げきじょう生産せいさんのモデルとして理解りかいされることになるとは。アルチュセールにおいてさえ、ひとはつぎのような操作そうさちあうことになる。すなわち、まず、「機械きかい」あるいは「機械きかい機構きこう」としての社会しゃかいてき生産せいさん発見はっけんされる。この社会しゃかいてき生産せいさんは、客観きゃっかんてき表象ひょうしょう(〔まえてるという意味いみでの〕Vorstellung〔表象ひょうしょう〕)の世界せかいには還元かんげんされないものである。ところが、すぐさま、機械きかい構造こうぞう還元かんげんされる。生産せいさん構造こうぞうろんてき劇場げきじょうてき表象ひょうしょう(〔そこにくという意味いみでの〕Darstellung〔上演じょうえん〕)に一体化いったいかされる(26)、というわけである。」(p.363)

「(26) Louis Althusser, Lire le Capital, U,pp.170-177.(〈不在ふざい現在げんざい〉としての構造こうぞうについて)。」(p.508)

■ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ1980→19940930『アンチ・オイディプス』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ

「(…)権力けんりょく超越ちょうえつてき中心ちゅうしんなどもう必要ひつようではなく、むしろ「現実げんじつ」と一体いったいになり、正常せいじょうによって進展しんてんする内在ないざいてき権力けんりょく必要ひつようとなる。奇妙きみょう発明はつめいがそこにはある。あたかも二重化にじゅうかされた主体しゅたいが、そのひとつの形式けいしきにおいては、さまざまなげんひょう原因げんいんとなるようだ。ところがこの主体しゅたいは、もうひとつの形式けいしきにおいては、それ自身じしんこのようなげんひょう一部いちぶをなしているのである。それはシニフィアンの専制せんせい君主くんしゅにとってわった立法りっぽうしゃとしての主体しゅたいのパラドックスである。つまり、きみが支配しはいてき現実げんじつげんひょうしたがえばしたがうほど、きみは心的しんてき現実げんじつにおけるげんひょう行為こうい主体しゅたいとして命令めいれいするようになる。なぜなら、結局けっきょくきみが隷属れいぞくするのは、きみ自身じしん以外いがいのものではない。きみは、きみ自身じしんたいして隷属れいぞくするのだ。それでも理性りせいてき存在そんざいとして命令めいれいするのはきみである。あたらしい奴隷どれいせい形態けいたい発明はつめいされた。自分じぶん自身じしん奴隷どれいであること、あるいは「純粋じゅんすいな」理性りせい、コギトであること。純粋じゅんすい理性りせいほど情念じょうねんてきなものがあるだろうか。コギトよりも、つめたく、極端きょくたんで、私心ししんにみちた情念じょうねんがあるだろうか。
 アルチュセールは、社会しゃかいてき個人こじんがこのように主体しゅたいとして成立せいりつすることを的確てきかく指摘してきしたのである。かれはこれを「尋問じんもん」とんでいる(「おい、そこにいるおまえ」)。かれは、主体しゅたいてん絶対ぜったい主体しゅたいぶ。かれはさまざまな主体しゅたいの「かがみぞうてき二重化にじゅうか」を分析ぶんせきし、そしてそれをかみと、モーゼと、ユダヤじんれいについて論証ろんしょうする(23)。バンヴェニストのような言語げんご学者がくしゃはコギトに非常ひじょうによく興味深きょうみぶか言語げんごがくてき人称にんしょう指示しじすることができるが、それ以上いじょうに、各人かくじんがそこから自分じぶん主体しゅたいとして構成こうせいするようなひとつの主体しゅたいてんしめしている。げんひょう行為こうい主体しゅたいとしての「わたし」は、げんひょうにおけるそれ自体じたい使用しようげんあらわ反映はんえいするような人称にんしょうしめしているのであり(指示しじてきでない空虚くうきょ記号きごう)、それは「わたししんじる、わたし仮定かていする、わたしかんがえる」のようなタイプの命題めいだいあらわれるとおりである。最後さいごに、げんひょう主体しゅたいとしてのわたしがあり、これはいつも「かれ」にえることのできるようなある状態じょうたいしめしているのである(「わたしくるしむ、わたしあるく、わたし呼吸こきゅうする、わたしかんじる……(24)」)。といっても、問題もんだい言語げんご作用さようではない。なぜなら、ひとつの主体しゅたいけっして言語げんご条件じょうけんでもなければ、げんひょう原因げんいんでもないからである。主体しゅたい存在そんざいしない。ただげんひょう行為こういのさまざまな集団しゅうだんてきなアレンジメントが存在そんざいし、主体しゅたいはそのひとつにすぎず、このようなものとして表現ひょうげん形式けいしきあるいは記号きごう体制たいせい指示しじするのであって、言語げんご内的ないてき条件じょうけん指示しじするのではない。かといって、アルチュセールのいうような、イデオロギーを特徴とくちょうづけるひとつの運動うんどう問題もんだいになるのでもない。記号きごう体制たいせいあるいは表現ひょうげん形式けいしきとしての主体しゅたいは、アレンジメントにかかわる。つまり、すでに経済けいざいなか十全じゅうぜん機能きのうしている権力けんりょく組織そしきにかかわるのであり、この権力けんりょく組織そしきは、最終さいしゅうてきしんきゅうにほかならない現実げんじつとして定義ていぎされた内容ないよう内容ないよう関係かんけいあらたにくわえられるものではない。資本しほんとは、なによりもまず主体しゅたいてんなのである。」(p.151-152)


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UP:20051005 Rev:20051024, 20060703
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