舵かじのない舟ふね

かくて早はやくも彼かれの心しんは、洗練せんれんされた隠遁いんとんの地ち、心地ここちよき無人むじんの境さかい、人間にんげん的てき愚おろかさの絶たえざる氾濫はんらんを遠とおく逃のがれた、びくとも動うごかぬ、なまぬるい方舟はこぶねを夢ゆめみつつあった。
ユイスマンス『さかしま』

さかしま (河出かわで文庫ぶんこ)

思おもえばおれの人生じんせいというのは舵かじのない舟ふねに乗のって川かわを流ながれてきただけだ。みすぼらしい帆ほや、壊こわれかけのエンジンはついていたかもしれない。ただ、流ながれてくるように、流ながれてきた。

 

おれは人生じんせいに興味きょうみがなかった。正確せいかくにいえばおれはおれの人生じんせいに興味きょうみがなかった。明日あした、どうしよう。五ご年ねん後ご、どうしよう。大人おとなになったら、どうしよう。なに一ひとつ向むき合あってこなかった。

親おやだとか誰だれかだとかにいわれるがままに、適当てきとうに流ながれてきた。意思いしというものがなかった。

 

べつに親おやだとか誰だれかだとかを信しんじていていたとか、そんな話はなしもない。自分じぶんは確固かっこたる意思いしをもって、意思いしを持もたずに生いきてきた。

人生じんせいの岐路きろに立たって自分じぶんで道みちを選えらんだという覚おぼえもなければ、なにごとかに目覚めざめて、未知みちの進路しんろに踏ふみ込こんだこともない。親おやも他人たにんも含ふくめて、ただそこにある環境かんきょうの中なかで、ただただ漂ただよっていた。人生じんせいの川かわは自動的じどうてきに流ながれていった。

 

こういう意志いし薄弱はくじゃくな人間にんげんの行いき着つく先さきは悲惨ひさんなものである。

おれは『さかしま』のデ・ゼッサントのような莫大ばくだいな遺産いさんを持もっているわけでもない。気きづいたら大学だいがくに入はいっていたし、気きづいたら大学だいがくを辞やめていた。なにも考かんがえずにニートをしていたら、家いえがなくなった。

 

そのとき、さすがになにかを決断けつだんしただろう？　という声こえも聞きこえてきそうだが、そんなこともなかった。

なにかの理由りゆうで父親ちちおやをつよく殴なぐったことは覚おぼえているが、どうやって横浜よこはまに流ながれ着ついたのかは記憶きおくがすっぽり抜ぬけ落おちている。ただ、そこでおれはなにかを選えらんだという覚おぼえがない。母ははがなんとか見みつけた安やすいアパートに流ながれ着ついていた。

 

金かねにならない労働ろうどうの日々ひび

働はたらく場ばも、なんとなく決きまっていて、おれはなんとなく働はたらいた。いいかげん正社員せいしゃいんにしようということになって、正社員せいしゃいんになった。

おれはこの仕事しごとの正式せいしきな教育きょういくを受うけたことはないし、そもそも社会しゃかい人じんとしてのルールもマナーもしらなかった。いまも知しらない。

 

給料きゅうりょうが出でることもあったし、出でないこともあった。遅配ちはいということもあったのだが、前まえに出でなかった分ぶんがきちんと支払しはらわれたかどうかもわからなかった。

とりあえずおれは安やすいアパートでお好このみ焼やきを毎晩まいばん焼やいては食くっていた。お好このみ焼やきは完全かんぜんな食たべ物もののひとつだ。

 

楽たのしみがなにもなかったわけではなかった。はじめて女性じょせいとつきあって、夢中むちゅうになった。あれのことで頭あたまがいっぱいになって、あればかりしていた。

そうだ、おれはなにも決断けつだんしたことがない、勇気ゆうきをもって踏ふみ出だしたことがないと書かいたが、あれは嘘うそだ。女性じょせいに思おもいを告つげるときは決断けつだんをしている。なぜなら、あれをしたいからだ。

 

おれは二に十じゅう代だいのころ、世間せけんの二に十じゅう代だいがするべき経験けいけんをしてこなかった。なにせおれは、就職しゅうしょく活動かつどうをしたことがないどころか、履歴りれき書しょを書かいたこともない。アルバイトというものをしたこともない。おれは社会しゃかいをしらない。社会しゃかいもおれをしらない。

 

おれは三さん十じゅう代だいのころ、世間せけんの三さん十じゅう代だいがするべき経験けいけんをしてこなかった。婚こん活かつもなければ結婚けっこんもない。車くるまもなければマイホームもない。クレジットカードくらいは持もつようになったが、大おおきな買かい物ものもせず、ぼんやりと流ながされるがままに生いきてきた。

 

二に十じゅう代だいと三さん十じゅう代だいのころ、おれはなにをしていたのだろうか。競馬けいばはしていたと思おもう。どんなに金かねがなくても馬券ばけんは買かってきた。競馬けいばなしには生いきてこられなかったとはいえないが、競馬けいばなしに生いきてこなかったということもない。

 

異い世界せかいの夢ゆめ

三さん十じゅう代だいに入はいったころか。アニメを見み始はじめた。人生じんせいを回顧かいこするにあたって、ひとつ記しるしておいておかしくはない。

深夜しんやアニメというものを知しって、夢中むちゅうになった。おれは今年ことしで四よん十じゅう代だいも半分はんぶんを過すぎるが、目覚めざめたのが遅おそいので、アニメという趣味しゅみに飽あきるということをしらない。

 

このごろのアニメといえば、異い世界せかい転生てんせいものが少すくなくない。現代げんだい日本にっぽんの、おもに冴さえない人間にんげんがトラックなどに轢ひかれて死しぬ。死しんでファンタジーの世界せかいに転生てんせいする。転生てんせいした先さきでは特殊とくしゅな能力のうりょくを持もっていて、英雄えいゆうになれる。そんな話はなしばかりでもないが、そんな話はなしばかりでもある。

 

おれはずいぶん昔むかしから、二に十じゅう代だいのころから、トラックに轢ひかれて死しにたいと思おもっていた。

不老おいず町まちの交差点こうさてんで信号しんごう待まちをしている。急きゅうにトラックが突つっ込こんでくる。おれは死しんだ。そんなことを夢見ゆめみていた。その先さきは考かんがえたことがなかった。

 

異い世界せかい転生てんせいものには、その先さきがあった。それは悪わるくない夢ゆめのように思おもえる。

最初さいしょに考かんがえたやつはきっと頭あたまがよくて、人ひとの心しんがわかって、あまり恵めぐまれていないやつだと思おもう。だれだかはしらない。

 

おれは四よん十じゅう歳さいを過すぎて、異い世界せかい転生てんせいものをよろこんで見みている。

どのアニメのどの主人公しゅじんこうがどんな死しに方かたをしたのか、どのギルドの受付うけつけの子こがどのアニメの子こなのか、まったく見分みわけはつかないが、ただただ懐なつかしい未来みらいを見みるように異い世界せかいを眺ながめている。

 

会社かいしゃが浮上ふじょうした

そんなおれが少すこしだけ浮上ふじょうした。いや、おれが浮上ふじょうしたわけではない、おれの会社かいしゃが少すこし浮上ふじょうした。M&Aではないが、そのようなもので（それはとても特殊とくしゅな契約けいやくで、ずっとお世話せわになっている会社かいしゃの税理士ぜいりしも困惑こんわくした）、なんというか、親会社おやがいしゃのようなものができた。

 

そうなったらどうなった。給料きゅうりょうが安定あんていして出でるようになった。手取てどり19万まん円えん。これが毎月まいつき出でる。確実かくじつに出でる。ボーナスなんてものはない。

しかし考かんがえてみてほしい。毎月まいつき19万まん円えんもらえるのだ。これは驚おどろくべきことだった。

 

それはちょうど四よん十じゅう代だいになったころだったろうか、少すこし前まえだろうか。おれは一度いちどニートになってから時間じかん感覚かんかくというものを失うしなってしまったので、もう覚おぼえていない。いずれにせよ、生うまれて初はじめて安定あんていした収入しゅうにゅうというものをえられるようになった。

 

かといって、おれの仕事しごとは変かわらなかった。おれの仕事しごとに対たいする情熱じょうねつも変かわらなかった。おれにはやる気きがなかった。

おれにはあらゆるやる気きがなかった。それはおれが双極そうきょく性せい障害しょうがいという精神せいしん障害しょうがいにかかるずっと前まえ、ほとんど産うまれたときからの習性しゅうせいだった。勉強べんきょうもしたくない、仕事しごともしたくない。ただ、学校がっこうでの勉強べんきょうには宿題しゅくだいというものがあって、仕事しごとにはそれがないのは悪わるくない。

おれはいまだに宿題しゅくだいをしていない夢ゆめを見みる。病気びょうきで会社かいしゃを半休はんきゅうばかりしているので、学校がっこうの単位たんいが足たりなくて卒業そつぎょうできなくなる、という夢ゆめも見みる。目めを覚さましては、「安心あんしんしろ、もう学校がっこうはないんだ」とい聞いきかせる。今いまも昔むかしも学校がっこうは悪夢あくむだ。

 

学校がっこうは悪夢あくむだが、会社かいしゃはそうでもない。おれは情熱じょうねつ的てきな社員しゃいんとは言いい難がたいけれど、できるだけの労働ろうどう力りょくは提供ていきょうした。そのつもりだ。

むろん、おれの能力のうりょくをどう評価ひょうかするのか、まともに評価ひょうかされたことがないので、そのあたりはご自由じゆうに想像そうぞうされたい。ただ、タイムカードを見みて、ろくに朝あさ出社しゅっしゃできていないなということは客観きゃっかん的てきにわかるだろう。でも、仕事しごとは終おわらせることができる。

 

人間にんげん関係かんけいは悪わるくない。良よいといってよい。まともな人間にんげんしかいない。

おれがいう「まともな人間にんげん」というのがどういう人間にんげんかというと、これも説明せつめいしようがない。ただ、非常識ひじょうしきな人ひとはいない。技能ぎのうと良心りょうしんと知識ちしきがある。そしておれの障害しょうがいを理解りかいしてくれている。そんな場ばだ。

 

おれの仕事しごとが変かわらなくても、会社かいしゃは変かわるはずだった。親会社おやがいしゃの支援しえん、とくに我わが社しゃにまったく存在そんざいしていなかった営業えいぎょうを増員ぞういんしてくれるはずだった。営業えいぎょうと宣伝せんでんの強化きょうか。これによって売うり上あげは絶対ぜったいに増ふえる。親会社おやがいしゃの社長しゃちょうはそう言いった。

 

会社かいしゃが終おわる

うまくいかなくなってきたのはいつ頃ごろからだろうか。親会社おやがいしゃは別べつ業種ぎょうしゅの会社かいしゃを似にたように子会社こがいしゃ的てきなものにしては、再生さいせいしてきた。ただ、そういう会社かいしゃはあるものを生産せいさんし、売うるという類るいの仕事しごとだった。

うちの会社かいしゃの仕事しごとは「あるもの」が多様たようで、こういうい方いかたをすると生意気なまいきに見みえるかもしれないが、知的ちてきな生産せいさん物ぶつであって、統一とういつされたスペックのものをたくさん生産せいさんするというものではなかった。

 

親会社おやがいしゃはそういう会社かいしゃの取とり扱あつかいに困こまったようだった。正確せいかくには、この話はなしを持もちかけてきた社長しゃちょう自体じたいが困こまったみたいだった。

おまけに、親会社おやがいしゃ自体じたいが人材じんざい難なんになってきた。内定ないていした新入しんにゅう社員しゃいん10人にんのうち7人にんに辞退じたいされた、などという話はなしもあった。転職てんしょくして行いく人ひとも少すくなくなかった。

 

ようするに、うちの会社かいしゃに割さける人員じんいんがいなくなっていた。毎月まいつきの会議かいぎでは、ひたすらにコストカットの話はなしと、「このメンバーで」でがんばればなんとかなるという精神せいしん論ろんになっていった。

 

そして、我わが社しゃの取締役とりしまりやくの一人ひとりを事実じじつ上じょうのクビにするように要求ようきゅうしてきた。役員やくいんとしての責任せきにんを果はたしていないからだという理由りゆうだ。コストカットもあったろうし、こちらの分断ぶんだんをはかってきたのかもしれない。

 

話はなしが違ちがうな、と思おもった。うちの会社かいしゃは明あきらかに赤字あかじで親会社おやがいしゃの負担ふたんになっていった。

しかし、そちらの支援しえんの話はなしはどうなったのか。営業えいぎょうを増員ぞういんしてくれるという話はなしはどうなったのか。むしろ減へらすのか。こちらはできるところまでギリギリやってきてあの惨状さんじょうだったのだ。それを好転こうてんさせる可能かのう性せいを見みて、金かねを出だすことを決きめたのだろうに。

 

先行さきゆきはあやしいかもしれないと思おもい始はじめていた。でも、おれはとくになにもしなかった。できることはなかった。

変かわらずに、仕事しごとをするだけだ。そうすれば19万まん円えんもらえるのだ。19万まんあれば、馬券ばけんもたくさん買かえるし、酒さけも買かえる。悪わるくない。おれは見みて見みぬふりが得意とくいだ。いや、抗こう不安ふあん剤ざいを飲のまなければやっていけないので、下手へたなのかもしれない。

 

それはある日ひ突然とつぜんやってきた。我わが社しゃの社長しゃちょうが親会社おやがいしゃの社長しゃちょうにこう言いわれた。「もう限界げんかいだ。すぐに会社かいしゃを倒産とうさんさせて、自己じこ破産はさんしろ。自己じこ破産はさんして生活せいかつ保護ほごを受うけろ」と。

相手あいては上場じょうじょう企業きぎょうなので、これ以上いじょうの赤字あかじがゆるされなくなったということらしい。それにしても、人間にんげんが人間にんげんに「自己じこ破産はさんして生活せいかつ保護ほごをうけろ」というのは常識じょうしき的てきな話はなしなのだろうか。おれには社会しゃかいがよくわからない。

 

この世よの栄光えいこうの終おわりに

さて、この話はなしがどうなるのか、今いまのところわからないで書かいている。親会社おやがいしゃの我わが社しゃに同情どうじょう的てきな重役じゅうやくは、「うちへの負債ふさいは事実じじつ上じょうの帳消ちょうけしにして、関係かんけいを解消かいしょうさせる方向ほうこうで社長しゃちょうを説得せっとくしたい」と言いってきた。

 

つまりは、親会社おやがいしゃのなかった以前いぜんの状態じょうたいに戻もどるということだ。

とはいえ、経理けいり上じょう、いきなり切きり離はなされた我わが社しゃに支払しはらい能力のうりょくはあるのか。会社かいしゃは維持いじできるのか。まったく不透明ふとうめいだ。すくなくとも、おれが安楽あんらくに毎月まいつき19万まん円えんもらえる生活せいかつは終おわるだろう。

 

思おもえば、黄金おうごん時代じだいであった。物心ぶっしんついたころからずっと不安ふあんだった。それが、毎月まいつき19万まんもらえることで、少すこし解消かいしょうされた。

人並ひとなみとはいえないけれど、ある種しゅの「生活せいかつ」をしていたように思おもう。短みじかい夢ゆめだった。おれの黄金おうごん時代じだいは終おわった。

 

最悪さいあくのところでは、おれは無職むしょくになる。無職むしょくになってどうする。就職しゅうしょくできるのか。就職しゅうしょく。まったく違ちがう場所ばしょで、まったく違ちがう仕事しごとをする。その前まえにしばらく休やすむ。そんなのも悪わるくない。

 

……などと書かくと、なにかおれに余裕よゆうがありそうに見みえるだろうが、そんなはずはない。おれの心しんはズタズタになっていて、抑そもそもうつと不安ふあん症しょうがひどいことになっている。おまけに銀ぎん歯はまで取とれた。抗こう不安ふあん剤ざいと酒さけと鎮痛ちんつう剤ざいの日々ひび。それがいまのおれである。

 

そんな現状げんじょうを少すこしだけ自分じぶんのブログで報告ほうこくした。「いざとなったらどうにかします」というありがたいメールをいただいた。

「今いまは人材じんざい不足ふそくだからなんとかなりますよ」というコメントとともに、お米べいなどを送おくってもらったりもした。思おもい切きって東ひがしへ行いくか、西にしへ行いくか。ひょっとしたら、おれははじめて人生じんせいの岐路きろに立たってなにかを選えらぶ可能かのう性せいというものがでてきた。

 

しかし、もういいかなという気持きもちも強つよい。おれはそもそも人間にんげんが苦手にがてだった。だれもいないところ生いきたい。一人ひとりになりたい。そうも思おもう。だが、そんなことは現実げんじつ的てきではない。

 

いずれにせよ、おれの慢性まんせい的てきな微熱びねつと倦怠けんたい感かんは何なにに対たいして前向まえむきになれない。ただ、こうしてただ時間じかんが流ながれるのを黙だまってみていたら、どうにかなっているんじゃないかと、そう思おもいたい。

なにも考かんがえたくもないし、決きめたくもない。おれの舟ふねに舵かじはついていない。

 

 

 

 

 

【著者ちょしゃプロフィール】

著者ちょしゃ名めい：黄金おうごん頭あたま

横浜よこはま市し中なか区く在住ざいじゅう、そして勤務きんむの低てい賃金ちんぎんDTP労働ろうどう者しゃ。『関内せきうち関せき外がい日記にっき』というブログをいくらか長ながく書かいている。

趣味しゅみは競馬けいば、好すきな球団きゅうだんはカープ。名前なまえの由来ゆらいはすばらしいサラブレッドから。

双極そうきょく性せい障害しょうがいII型がた。

ブログ：関内かんない関せき外がい日記にっき

Twitter：黄金おうごん頭あたま

Photo by ：Osman Rana