「トランスジェンダー問題」を論じる前に
トランスジェンダーが解放されれば、私たちの社会の全ての人の生がより良いものとなるだろう。
そんな宣言から始まる本書は、トランス排除的な首相が誕生するような英国で、トランス女性であるライターのショーン・フェイによって書かれた。トランスジェンダーたちの抱える問題が全7章で論じられている。わずか一年で邦訳が叶ったのは、日本の読者にも今まさに必要な一冊だからだ。
そう。トランスの存在は、この世界を豊かにする。だからこの本は1人でも多くの人に読まれてほしい。けれども、事前にいくつか注意が必要だろう。
たとえば「著者は、すでに性器の手術をしたの?」と聞きたくなったあなた。他者のプライベートゾーンが真っ先に気になる侵略的な発想はまさしくセクシスト的であり、そうした疑問に応えるのはこの本の主旨ではないため、読み進めるのをやめたほうがよかろう(第2章)。
たとえば「オンライン上のトランス差別が激しいみたいだけど、どう対抗したらいい?」と熱心なあなた。ありがとう。けれどもトランスジェンダーにとって差別的でない時代なんて、そもそも無いにひとしい。トランスの人々は、シスの人々によって都合よく作られたこの世の中で、つねにすでに生活してきた。まずそんな現実がある。「昨今の」「ネット上に」だけトランスの人々が生息しているわけではないため、勝手に実情を矮小化してはならない。そうした目くらましへの応答は、トランスの人権をまともに取りあわない右派政権や、フェミニストの名を騙るトランスヘイターの思うツボである。『トランスジェンダー問題』はまさにそんな惨状をひっくり返すために、あえてこのタイトルを引き受けている本なのだ。いいじゃないか、ここからはトランスたちのしたい話、すべき話をしていこう。
たとえば「日本にトランスジェンダー差別なんてある?」と本書の意義にピンとこないあなた。見えなくとも、差別はあるのだ。英国におけるトランス差別の悲惨さは、そのまま日本を連想せざるをえない。性被害にあったトランスの労働者による裁判を知っているか(第3章)。刑務所で放置や隔離をされるトランスの人々や、勾留センターにいてトランス差別的な祖国へ帰されるかもしれない難民を考えたことがあるか(第5章)。メディアに面白おかしく身体を暴かれる「お笑い」あるいは「同情」はいつまで許されるのか。国際的に人権侵害とみなされている「特例法」を改善すべきだと思っているか。日本の動向については、訳者の高井による「訳者解題」にくわしい。
トランスジェンダーは一筋縄ではない
当たり前の話をするようだが、トランスの人々は多種多様である。もしトランスの人を思い浮かべてみて、資本主義で成功したようにみえるごく一部のトランス女性のセレブや、パレードを取りしきる裕福なトランス当事者しか出てこないのだとしたら、階級や人種や障害の問題を置き去りにしている。そうした目立つトランスの人でさえ、システムをつくっているシスの人々から「きちんとしている」「口に合う」とみなされなければ表舞台には立てない。第3章の「階級闘争」でフェイ自身が述べているように、こうしてものを書ける場が与えられていること自体がきわめて特権的な立場であり、ある一人がトランスの代表者であるかのようにみなすのは不正確なのだ。この私の文章も同様である。
なかには、唯一知っているトランス当事者として、トランスのセックスワーカーを思い浮かべる人もいるかもしれない。だからこそ、第4章でフェイは「セックスワーク」に焦点をおく。トランスのセックスワーカーはポルノや映画での描写から知られる機会が多く、ある意味では一番可視化されているにもかかわらず、トランスのアクティヴィズムから簡単に見落とされるからだ。弱い立場に置かれがちなトランス当事者を思うときに、セックスワーク抜きでは語れない。セックスワークに従事する人々の声を掬いあげた本章は、まだ類書の少ない日本において必読だ。
社会的に弱い立場におかれる者ほど、権力に対峙させられ、理不尽さを思い知るはめになる。この意味がわかるだろうか。身近な例を挙げよう。トランスの中には、男女分けのきびしい学校を不登校になったり退学したり、戸籍の都合で結婚できなかったり、高額の医療費を全額自費で払ったり、性暴力を告発しても信じてもらえなかったりする者がたくさんいる。あなたが悪い、と思い込まされる。生きているだけマシだ、と希望を失っていく。それらが積み重なる。一方で、巨大な壁は揺るがない。
しかし、トランスの被る境遇はほかの多くの人々にとっても重なり合うため、「トランスジェンダーの」問題を論じることは、社会全体の改善へとつながっていくはずである。身近な困りごとで精いっぱいになるトランスの人にとって、社会全体を見通して変えていけるかもしれないという希望は、なかなか抱けないものだ。そんな希望は、とおい絵空事にしか見えていなかったからだ。ずっとそうだった。そうしたトランスたちの諦めを痛いほど知っているからこそ、フェイが「希望」を糧に、本書をとおして言葉を与える意義ははかりしれない。どうか「結論」まで読んでみてほしい。
視野を広げて、第5章のテーマはずばり「国家」である。警察や刑務所などの国家権力は一般に悪者を取り締まるものとして配置されているが、しかし弱者がより一層抑圧されたり、暴力が起きたときにさらに大きな暴力で封じたりする機能をもっているため、フェイはそうした国家権力に疑いをなげかける。トランス女性を女性刑務所と男性刑務所のどちらに入れるべきか、あるいは「トランス刑務所」を新設すべきか。そんな一部の事例の是非を問うまえに、はたしてその前提は正しいのだろうか。『トランスジェンダー問題』は、社会正義を考えるチャンスをくれる。
これからも共に
第6章ではLGBTの連帯、第7章ではトランスと共にあるフェミニズムが主題となる。LGBTとは「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー」の頭文字であり、性的マイノリティの総称をさす。LGBTといっしょくたにされる当事者のなかにも、なぜ違いがあるにもかかわらず他の属性といっしょにされるのかわからないという人はいる。だが、差別する側はLGBTの区別を設けずに同じようなやり方で抑圧してくる。より良い未来のために、LGBTの連帯が必要な場面はあるのだ。フェイが「LGBT」と呼びかけるとき、そこには「共に闘う仲間」としての熱量が感じられる。
また、当事者の繊細な事情を考慮すれば、「同性愛者なのかトランスジェンダーなのかわからない」という性への違和感を、本人や家族でさえ抱くことがある。意外と知られていないことだが、性別移行をとおして性的指向に変化が生まれるトランスの人もいる。だから、LGBTにおけるゆるやかな繋がり、そして差別対抗への強固な連帯は捨てておけないものなのだ。
フェミニズムがテーマとなる第7章は、フェイの実話から始まる。女だけのフェスティバルにトランス女性のフェイが呼ばれた際、一部のひとたちが「本物の女性に与えられるはずだった場が奪われている」と主張して、フェイの解任を求める署名をおこなったというのだ。フェミニスト的な場からトランス女性を排除する試みは、1970年代にも起きており、今に始まったことではない。だが、トランス排除の主張が叫ばれるなかでも、多数派のフェミニストたちはトランスと共に運動をしてきた。ある属性の女性を排除するフェミニズムは、人種差別の点からも批判されている。「白人の、中産階級のシスジェンダーの女性たち」がフェミニズムを占有してきた英国の反省は、日本においても大いに活かされるべきだ。
さて日本の話をすれば、一部の女子大で戸籍が「女性」でない女性も入学可能にすると発表された際、トランス女性へのバッシングが起きた。なにが火付け役だったのだろう。戸籍が「女性」であるトランス男性やノンバイナリー、戸籍変更後のトランス女性はすでに在学している可能性があったというのに。トランスインクルーシブなフェミニズムは、代々続いてきた。トランスがフェミニズムを必要とするだけでなく、フェミニズムこそがトランスの存在を必要とすることだってある。いまだ言語化が不十分だとしても、その潜在可能性にフェミニストたちは気づいてきたのではないか。
本書では多岐にわたる「トランスジェンダー問題」が論じられている。読者は、トランスの人々が受ける不平等は、ほかのマイノリティ集団とよく似ていると気づくだろう。トランスの抱える問題は、トランスだけの課題ではない。もちろん、トランスの存在自体がトラブルとなっているわけでもない。そしてまた、問題を生み出したり仕組みを運用したりしている人の多くは、トランスではない、シスジェンダーの人々である。だから枠組みを変えるために、いっしょに考え、行動してほしい。原書とそっくりな赤い表紙が目印だ。