藤井ふじいさとしふとしつづける理由りゆう 王座おうざせん――はちかんさき 』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃへん日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱん)は、おおきな話題わだいんだだい71王座おうざせんをもとに、藤井ふじい王座おうざつよさにせまろうとこころみた1さつ。2012ねん当時とうじ10さい奨励しょうれいかい会員かいいんだった藤井ふじい王座おうざ日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃはじめて取材しゅざいした記者きしゃいた。

前編ぜんぺん藤井ふじい王座おうざ 伝説でんせつの「そべり写真しゃしん」はどう撮影さつえいされたのか

 奨励しょうれいかいはいってプロを目指めざしたばかりの当時とうじ10さい藤井ふじいさとしふとし少年しょうねんを、日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ取材しゅざいしていた。『 藤井ふじいさとしふとしつづける理由りゆう 王座おうざせん――はちかんさき 』に掲載けいさいされている、リラックスしてそべる写真しゃしんはそのときに撮影さつえいされたもので、はちかん達成たっせい記念きねん写真しゃしんもそのオマージュで撮影さつえいされたものだ。

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 いまつうじる天才てんさい少年しょうねん面影おもかげはどこにあったのか。当時とうじ取材しゅざい担当たんとうしたのは、記者きしゃ岩村いわむら高信たかのぶさんと、写真しゃしん記者きしゃ小園こぞの雅之まさゆきさん。岩村いわむらさんは名古屋なごや支社ししゃ社会しゃかいニュース全般ぜんぱんあつか社会しゃかいグループのキャップで、連載れんさい「きらり中部ちゅうぶ」を担当たんとうしていた。

 「中部ちゅうぶならではのひとげようというしゅう1のコーナーでして、取材しゅざい相手あいてさがしていたら、小学生しょうがくせいのすごい奨励しょうれい会員かいいんがいるといたんです。一般いっぱんメディアでは、全国ぜんこく地方ちほうばんすこげた程度ていどだったとおもいます。幸運こううんにも日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃでは、わたしはじめて藤井ふじい王座おうざ取材しゅざいした記者きしゃになります。おかあさまに電話でんわして依頼いらいしたところ、こころよけてくださって、実家じっかにお邪魔じゃましました。記事きじ掲載けいさいは2013ねん1がつ12にち取材しゅざいは2012ねん12月26にち夕飯ゆうはんまえでしたね」

日本経済新聞社の岩村高信記者。名古屋支社で小学生奨励会員だった藤井少年の噂を聞き、取材を申し込んだ
日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ岩村いわむら高信たかのぶ記者きしゃ名古屋なごや支社ししゃ小学生しょうがくせい奨励しょうれい会員かいいんだった藤井ふじい少年しょうねんうわさき、取材しゅざいもうんだ
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 当時とうじ藤井ふじい王座おうざは10さい小学校しょうがっこう4年生ねんせいで、奨励しょうれいかい5きゅう(プロはよんだんからで、奨励しょうれいかい5きゅうはアマチュアよんだんクラスに相当そうとうする)。のちに史上しじょう最年少さいねんしょうの14さい2カ月かげつでプロデビューし、いきなり連勝れんしょうかさねて話題わだいになった。社会しゃかい現象げんしょうになるほど注目ちゅうもくされればがりそうなものだが、本人ほんにん取材しゅざい淡々たんたんおうつづけた。20連勝れんしょう大台おおだい達成たっせいしても「自分じぶん実力じつりょくからすれば、僥倖ぎょうこう(ぎょうこう)としかいいようがない」と大人おとな顔負かおまけの語彙ごいりょく披露ひろうしている。
 さて、あれだけの取材しゅざいじんまえにしても平常へいじょうしんたもっていた藤井ふじい王座おうざのことだ。しょう4でも自分じぶんかんがえをハキハキとかたったかとおもいきや……。

 「いや、すごくハニカミさんでした(笑)。わたしはおかあさまとはなしをしている時間じかんがほとんどで、本人ほんにんにちょっとみずけてもニコニコしたまま、『はい』とこたえるぐらいでした。取材しゅざいをほとんどけたこともなければ、らない大人おとな2にん突然とつぜん自宅じたくにやってきたわけですからね。いろいろかれても戸惑とまどったのは無理むりもないでしょう。プロになってから会見かいけんのぞ姿すがた拝見はいけんし、『え、こんなにしゃべれるんだ』とおどろきました。ほそめて『うーん』とかんがえるしぐさに、当時とうじ面影おもかげがありますね」

けずぎらいの少年しょうねん史上しじょう最年少さいねんしょうプロに

 岩村いわむらさんからすれば、まえれたままほとんどしゃべらない少年しょうねんが、けずぎらいだとまったく想像そうぞうできなかったという。

 「当時とうじ記事きじにもいたのですが、じゃんけんやカードゲームを自分じぶんつまで『もういちかい』とつづけたそうです。将棋しょうぎ大会たいかい反則はんそくけをしたときは、くやしくて椅子いすすわったままうごかなくなり、賞状しょうじょうをおかあさまがったんだとか。おかあさまからそういうはなしいてもギャップがあったのですが、それほどけずぎらいのだからこそ上手じょうずになっていくのかなとかんじました。取材しゅざい日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい公式こうしきホームページで奨励しょうれいかい成績せいせきていて、史上しじょう最年少さいねんしょうでプロになったのをったときは『やっぱりすごいんだ』とおもいました。ただ、次々つぎつぎとタイトルを奪取だっしゅしてはちかん達成たっせいをされるとは、正直しょうじき想像そうぞうできませんでした」

当時の取材ノート。メモには「谷川 できればこしたい(超したい)」と書いてある
当時とうじ取材しゅざいノート。メモには「谷川たにがわ できればこしたい(したい)」といてある
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 藤井ふじい少年しょうねんはっした数少かずすくない言葉ことばで、印象いんしょうのこっているのは2つあるそうだ。
 まず『名人めいじんよりつよくなりたい』。もうひとつは『あこがれの将棋しょうぎ谷川たにがわ浩司こうじきゅうだん』。岩村いわむらさんがせてくれた当時とうじ取材しゅざいノートにものこっている。
 谷川たにがわじゅうななせい名人めいじんは1962ねんまれの61さいで、羽生はぶ善治よしはるきゅうだんの8さいじょうである。「光速こうそくせ」とばれる終盤しゅうばんじゅつは、従来じゅうらいのスピード感覚かんかくえた。藤井ふじい王座おうざ谷川たにがわじゅうななせい名人めいじん将棋しょうぎ武器ぶきにしていることも共通きょうつうしている。藤井ふじい王座おうざ谷川たにがわじゅうななせい名人めいじんげたのは、自分じぶん自身じしん将棋しょうぎちかいものをかんじたからだろうか。

 「いまかえると、その年齢ねんれいで、ものをるセンスをあわせもっているのはすごいことですよね」と岩村いわむらさん。将棋しょうぎ芸術げいじゅつおなじように、うつくしい棋譜きふがある。超絶ちょうぜつ技巧ぎこう収束しゅうそく、また双方そうほうちから発揮はっきされたねじりごういは、いくらがたとうともまえているかのような迫力はくりょくつたわってくる。盤上ばんじょうつうじたコミュニケーションは、過去かこ現在げんざい未来みらいをつなぐだけではない。実際じっさいたたかっているもの同士どうしもまた、対局たいきょくちゅうにしゃべらずとも相手あいてねらいをむうちに盤上ばんじょう会話かいわかさねている。
 そうして、当時とうじ少年しょうねんがプロとなり、あこがれた世界せかいはちかんという前人未到ぜんじんみとう記録きろくてた。

取材しゅざいぶん小島こじま わたる 写真しゃしん稲垣いながきじゅん