沖縄旭琉会と、三代目旭琉会が拮抗していた1990年当時の沖縄。両者の対立は激しく、無関係な高校生がピストルで撃たれて亡くなるといった痛ましい事件も起きるなど、街は物騒な雰囲気に包まれていた。いったい、そのとき沖縄では何が起きていたのか。
ここでは、沖縄ヤクザの組長を経て、現在は出家して整体師になった新垣玄龍氏の著書『任侠 愚狂に死す 闇社会から光の社会へ』(さくら舎)を抜粋。激動の沖縄ヤクザ抗争史に迫る。(全3回の1回目/続きを読む)
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暴対法のきっかけとなった第六次抗争
私の高校在学中はヤクザの抗争がすごかった。1990(平成2)年から沖縄旭琉会と三代目旭琉会の第六次抗争が始まっていたのです。沖縄のニュースといえば抗争のことで、町なかでバンバン撃っていた。
抗争には必ずピストルが出てきます。だから死傷者の数もすごい。民間人も巻き込んで20名もの死傷者が出ました。
沖縄のヤクザの抗争では、ヤクザはまず警察官を殺しました。どういうことかというと、ヤクザ同士の抗争になると、警察は機動隊をヤクザの事務所前に並ばせて構えるわけです。ヤクザは、その列にピストルを撃ち込んで事務所になだれ込み、そこからヤクザ同士の撃ち合いが始まるのです。
有名な言葉があります。「いったからさちにくるさや」という沖縄の言葉なんですが、「おまえから先に殺してやるぞ」という意味です。沖縄のヤクザは、いったん火がつくと止まらない。
県警本部長から「そういうことがあったら、撃ってくるヤクザを、全員撃ち殺せ」という射殺命令が出たほどです。これは本当に異例なことです。本土でも山口組が抗争していますが、「ヤクザが何かしたら撃ち殺せ」という命令なんか絶対に出ません。
二つの勢力が拮抗してくると、町中は一気に物騒な感じになってきます。1990年には、無関係な高校生がピストルで撃たれて亡くなりました。その定時制の高校生は、一方のヤクザの事務所のフェンスの看板のつけかえか何かのバイトをしているとき撃たれた。流れ弾でした。警察官も襲撃され、二人撃たれて死んでいます。
この事件がきっかけで、暴対法(暴力団対策法、1992年施行)がつくられることになったのです。
総力戦の末、旭琉會に一本化
抗争の勃発には、いろんな理由があるけれど、結局は、縄張りをめぐる争いです。シマをめぐって、下同士が収まりがつかなくなって撃ったり、喧嘩になったりする。こんなのは当たり前のことで、小競り合いはいつもやっている。それが上同士で我慢がいかなくなって暴発する。そして抗争が始まる、という流れです。