「今夜こんやは一緒いっしょに休やすもうね」末期まっきがんの妻つまは目めを輝かがやかせ笑えみを浮うかべた

戦後せんごを代表だいひょうする文芸ぶんげい評論ひょうろん家か江藤えとう淳あつしの愛妻あいさい・慶子けいこは末期まっきがんと診断しんだんされ、さらに医師いしからも余命よめいが持もって半年はんとし以内いないであると宣告せんこくされてしまう。弱よわりゆく妻つまを支ささえるべく江藤えとうは医師いしや看護かんご師しとともに不治ふじの病やまいに向むき合あうのだった。※本稿ほんこうは、江藤えとう淳あつし『妻つまと私わたし・幼年ようねん時代じだい』（文春ぶんしゅん学藝がくげいライブラリー）の一部いちぶを抜粋ばっすい・編集へんしゅうしたものです。

『メリーちゃん』が鳴なり止やまない
電話でんわ口こうの向むこうの妻つまは……

　慶子けいこの入院にゅういん以来いらい、私わたし（編集へんしゅう部ぶ注ちゅう／江藤えとう淳あつし）は毎朝まいあさ9時じに定時ていじの電話でんわを掛かけていた。

　直通ちょくつうではないので、まず交換こうかん手しゅが出でる。そして、しばらく「メリーちゃんの仔こ山羊やぎ」の音楽おんがくが鳴なっているうちに、家内かないが出でて、その声こえが聴きこえる。

　電話機でんわきは、入院にゅういん当初とうしょはベッド脇わきのサイド・テーブルに置おいてあったが、右手みぎてのしびれが進すすむにつれて、受話器じゅわきを取とり易やすいように折畳おりたたみの椅子いすの上うえに移うつされた。

　10月2日にちの金曜日きんようびも、私わたしはいつものように定時ていじの電話でんわを掛かけた。この日ひは大学だいがくの開講かいこう日びに当あたっていたので、まず大学だいがくに行いき、学生がくせいに自分じぶんの身辺しんぺんの事情じじょうを説明せつめいして、その理解りかいを求もとめるつもりであった。この日ひから次つぎの週しゅうにかけて、多おおくは大学院だいがくいんの自分じぶんの担当たんとう科目かもくをひと渡わたり開講かいこうしてしまい、今こん学期がっき休講きゅうこうが多おおくなるかも知しれない事情じじょうを簡単かんたんに告つげて置おく。そのために今日きょうは、病院びょういんに立たち寄よれるのが夕刻ゆうこくになるということを、私わたしは家内かないに連絡れんらくして置おこうと思おもっていた。

　ところが、その家内かないが、電話でんわ口こうに出でないのである。「メリーちゃんの仔こ山羊やぎ、仔こ山羊やぎ、仔こ山羊やぎ、メリーちゃんの仔こ山羊やぎは真まっ白しろよ」のメロディーが、何なん度ど繰くり返かえされても家内かないは出でて来こない。

　異常いじょうを感かんじて、私わたしはいったん電話でんわを切きり、7階かいのナース・ステーションに掛かけ直なおして、出でて来きた婦長ふちょうに家内かないがどうなっているか見みてくれるように頼たのんだ。そして、もう一度いちど、頃合ころあいを見計みはからって家内かないの病室びょうしつにつないでくれるよう、交換こうかん手しゅに依頼いらいした。

　今度こんどは「メリーちゃんの仔こ山羊やぎ」が1回かいだけで、婦長ふちょうが出で、

「ちょっとお待まち下ください」

　と受話器じゅわきを家内かないに手渡てわたす気配けはいがした。

「どうした？　大丈夫だいじょうぶか」

「大丈夫だいじょうぶ」

　と、辛かろうじて発はつ語ごした家内かないの声こえは、少すこしも大丈夫だいじょうぶどころではなかった。

　そこへ、婦長ふちょうの声こえで、

「これからすぐ、病院びょういんにお出いでいただくわけにはいきませんでしょうか？　今朝けさは奥様おくさまの御ご容態ようだいに、急変きゅうへんがあったと思おもわれますので……。はい、先生せんせいにはすぐ連絡れんらくして、必要ひつような処置しょちを取とります」

　と、畳たたみ掛かけるようにいわれた。

「それでは大学だいがくに出でる予定よていを変更へんこうして、できるだけ早はやく病院びょういんに向むかいます。家内かないには、私わたしが行いくから安心あんしんしろとお伝つたえ下ください」

　私わたしは、ちょうどその頃ころ来きてくれたお手伝てつだいさんに状況じょうきょうを説明せつめいし、大学だいがくの教務きょうむに連絡れんらくしてこの日ひは開講かいこうできない旨むねを伝つたえた。そして、取とるものも取とり敢あえずという想おもいで、タクシーを呼よんだ。