ニュースな本写真しゃしんはイメージです　Photo:PIXTA

1998年ねん、文芸ぶんげい評論ひょうろん家かの江藤えとう淳あつしの愛妻あいさい・慶子けいこは末期まっきがんで余命よめい僅わずかながら入院にゅういん生活せいかつを続つづけていた。江藤えとうや医師いしたちは懸命けんめいの看病かんびょうを続つづけていたが、症状しょうじょうは進行しんこうし、治療ちりょうの甲斐かいも虚むなしく妻つまはだんだん衰弱すいじゃくしていく。そんななか、2人ふたり共通きょうつうの思おもい出でに浸ひたることで一時いちじの癒いやしを感かんじるも、哀かなしい予よ感かんは確実かくじつに迫せまっていた。※本稿ほんこうは、江藤えとう淳あつし『妻つまと私わたし・幼年ようねん時代じだい』（文春ぶんしゅん学藝がくげいライブラリー）の一部いちぶを抜粋ばっすい・編集へんしゅうしたものです。

「何なにもしないことがはじめて」
停とまっているような甘美かんびな時ときのなかで

　10月11日にちも終日しゅうじつ病状びょうじょうが思おもわしくなかったので、泊とまり込こむことにした。

「あなたが仕切しきりはじめると、急きゅうにいろいろなことが動うごきはじめるのね」

　と、家内かないは満足まんぞくそうにいったが、私わたしは何なにを「仕切じきり」っていたわけでもなく、背せの低ひくい簡易かんいベッドに横よこになりながら、しびれていないほうの家内かないの左手ひだりてを握にぎりしめているに過すぎなかった。

　それに加くわえて、9日にちに泊とまったときには家内かないのそばにいる安心あんしん感かんでしばらくぐっすりと眠ねむれたのに、11日にちは終夜しゅうや眠ねむりが浅あさく、看護かんご婦ふの動うごきがしきりと気きになった。

「こんなに何なににもせずにいるなんて、結婚けっこんしてからはじめてでしょう」

　と、家内かないがふと微笑びしょうを浮うかべていった。

「たまにはこういうのもいいさ。世間せけんでも充電じゅうでんとか何なにとかいうじゃないか」

　と、月並つきなみなことを口くちにしながら、私わたしはそのとき突然とつぜんあることに気きが付ついた。

　入院にゅういんする前まえ、家いえにいるときとは違ちがって、このとき家内かないと私わたしのあいだに流ながれているのは、日常にちじょう的てきな時間じかんではなかった。それはいわば、生なまと死しの時間じかんとでもいうべきものであった。

　日常にちじょう的てきな時間じかんのほうは、窓まどの外そとの遠とおくに見みえる首都高しゅとこう速そく道路どうろを走はしる車くるまの流ながれと一緒いっしょに流ながれている。しかし、生なまと死しの時間じかんのほうは、こうして家内かないのそばにいる限かぎりは、果はたして流ながれているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛たたえられて停滞ていたいしているのかも知しれない。だが、家内かないと一緒いっしょにこの流ながれているのか停とまっているのか定さだかではない時間じかんのなかにいることが、何なんと甘美かんびな経験けいけんであることか。

　この時間じかんは、余儀よぎない用事ようじで病室びょうしつを離はなれたりすると、たちまち砂時計すなどけいの砂すなのように崩くずれはじめる。けれども、家内かないの病床びょうしょうの脇わきに帰かえり着ついて、しびれていないほうの左手ひだりてを握にぎりしめると、再ふたたび山奥やまおくの湖みずうみのような静しずけさを取とり戻もどして、2人ふたりのあいだをひたひたと満みたしてくれる。

　私わたしどもはこうしているあいだに、一いち度ども癌がんの話はなしもしなければ、死しを話題わだいにすることもなかった。家政かせいの整理せいりについても、それに附随ふずいする法律ほうりつ的てきな問題もんだいについても、何一なにひとつ相談そうだんしなかった。私わたしたちは、ただ一緒いっしょにいた。一緒いっしょにいることが、何なによりも大切たいせつなのであった。

　何故なぜなら、私わたしたちの別わかれは遠とおくないからである。そのときまでは、できるだけ一緒いっしょにいたい。専門医せんもんいの予測よそくした長ながくて半年はんとしという期限きげんは、既すでに2ヶ月かげつも過すぎていた。こうしてまだ一緒いっしょにいられるのが、ほとんど奇蹟きせきのように感かんじられた。