森下整鎮(もりした のぶやす)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
1933年9月4日生まれ。福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)出身。
八幡工業高等学校へ進学。強打の内野手として活躍し、2年時には春の甲子園大会に出場。準々決勝まで勝ち進んだものの、自らのエラーで敗北するという苦い経験をしている。
この活躍に目をつけた南海から声がかかり八幡高を中退し、1951年に南海ホークスの実質二軍チームにあたる南海土建野球部へ進んだ。チームは都市対抗野球大会に出場し、初出場ながら決勝まで勝ち進むという快進撃を見せたが、決勝戦では森下のエラーによる失点が決勝点となり敗れている。その後、実質的にプロ球団のファームにあたるチームのアマチュア大会での活躍は大反発を受け、社会人野球協会は「プロ選手の集団登録を一切禁止する」という処置がとられた結果、南海土建は休部となった。
所属チームの休部に伴い、1952年に南海ホークスに入団。
入団当時の南海には「百万ドルの内野陣」と呼ばれた木塚忠助や飯田徳治、蔭山和夫らが活躍する選手層の厚いチームであったが、森下がユーティリティプレイヤーであったことから初年度から出場機会を得ることに成功。58試合に出場した。
1953年、前年より出場機会を増やし、打率.280、5本塁打、23打点、20盗塁という成績を残す。
1954年、主に6番セカンドのレギュラーとして起用され、オールスターゲームにも出場。最終的には全試合に出場し、打率.285、6本塁打、58打点、51盗塁を記録し、ベストナインにも選出された。
1955年、ショートやサードで起用され、打撃面では前年より数字を下げたものの、59盗塁をマークしてパ・リーグ制覇に貢献。盗塁王のタイトルを獲得した。
1956年、打率.284、6本塁打、61打点、56盗塁という成績を残し、3年連続で50盗塁を記録。オールスターゲームでは第1戦目のMVPに選ばれた。
1958年、シーズン序盤に左足のアキレス腱を断裂。当時南海は首位を独走していたものの、中盤戦以降西鉄ライオンズが追い上げてきたところで、鶴岡一人監督はたまらず森下に「なんとかならんか」と復帰を要請。森下も快諾し練習を再開したところで再びアキレス腱を断裂。結局このシーズン中に森下は復帰できず、チームも西鉄に抜かれ2位に終わってしまった。
翌1959年には復帰し、94試合に出場。日本シリーズにも出場している。
1960年、レギュラーとして134試合に出場し、打率.275、5本塁打、45打点、24盗塁と復活をアピール。オールスターゲームでも自身二度目となるMVP(第1戦目)に選ばれた。
1961年、打率.281、20盗塁を記録しベストナインにも選出されたが、1962年またしてもアキレス腱を断裂。
それでもめげずにリハビリに取り組み、1963年には復帰し、139試合に出場している。
1965年にはシーズン中は低調だったものの、日本シリーズでは20打数6安打と奮闘し日本シリーズ敢闘賞を受賞。
1966年、現役引退。
引退後は南海をはじめ、中日ドラゴンズ、横浜大洋ホエールズでコーチを歴任し、1992年には野球兄弟エレファンツの監督に就任。台湾プロ野球初の日本人監督であったが、同チームを優勝に導いた。ただ、熱血指導が過ぎたか、選手や首脳陣たちとの間で度々衝突を起こし、1シーズン限りで退任している。
その後は野球解説者・評論家を務める傍ら、少年野球チームの監督として後進の育成にもあたっていたようである。
2018年10月26日、老衰のため死去。享年85歳。
人物・エピソード
内野ならどこでも守れるユーティリティ性と俊足を武器に、南海黄金時代を支えたマルチプレイヤー。走塁面では相手投手の癖を盗み、激しいスライディングで相手の守備陣を恐れさせていたという。
常に闘志むき出しでプレーし、内角球を恐れないことから死球の数は非常に多く、シーズン最多死球を4度記録している。
守備時には投手が投球するたびに声を出し続け、味方が手抜きや雑なプレーをした際には厳しく叱りつけていた。
通算成績
打撃成績
獲得タイトル
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