バルト三国とは、バルト海に面するエストニア、ラトビア、リトアニアの三国のことである。東欧、北欧、或いは中東欧に分類される。
よく一緒に纏められるが、歴史的には別たれていた時代の方が相当長い。
歴史
紀元前4000年頃フィン・ウゴル系民族がウラル山脈から現在のバルト海北欧に向けて定住する。その後、印欧語族の北西語群を話す一団が中東欧の平原部に拡大。その中で、バルト語群に属する一団はバルト地方へと浸透をし、現在のバルト地域へと定住するようになった。ただし、バルト北端へは定住されず、これが現在のエストニアの原形となっている。
バルト地域に国家が建設されるのは13世紀である。中世の西欧世界において、十字軍の機運が高まっており、当時まだ自然信仰が行われていたバルト地域に対して、ドイツ騎士団やリヴォニア騎士団によって改宗を伴う征服運動が行われていた。これに対し、リトアニアではミンダウガスが諸部族を統一し、王国を形成する。最も、騎士団の攻撃はこれのみではやまず、最終的には14世紀のリトアニア全土のキリスト教改宗と、15世紀におけるポーランド・リトアニアによるタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)での勝利を経て、プロシア地域のポーランドへの従属という形で決着する。
リトアニアは騎士団による征服を逃れたものの、クーロニア、リヴォニア、セミガリア地域はリヴォニア帯剣騎士団によって征服され、14世紀にはエストニアがデンマークから買収される。転機となったのはイヴァン4世(イヴァン雷帝)率いるモスクワ大公国のバルト海進出の動きである。この動きに対し、弱体化したリヴォニアにスウェーデン王国とリトアニア大公国が進出。リヴォニア騎士団領は崩壊し、北のエストニア地域はスウェーデン王国に、ラトヴィア、リガはリトアニア大公国に組み込まれ、残った南部のクーロニア、セミガリアのみがリトアニアと同君連合であったポーランド王国の庇護のもと、クールラント公国として存続した。スウェーデン・ポーランド戦争によって北部リヴォニアがリトアニアからスウェーデンへ割譲される。
大洪水時代のケダイネイ合同から暫くが至上初めて、この三国地域が統合された時期である。ただ、此れも長くは続かず、スウェーデン王国が北方覇権を失うのと軌を一にして、ロマノフ朝ロシア帝国が勢力を拡大し、バルト地域のスウェーデン領を獲得する。更に、18世紀末のポーランド分割によって、南部リヴォニア、クールラント、リトアニア地域も併合する。
再び転機が訪れたのは、20世紀に第一次世界大戦のロシア帝国崩壊に伴い、リトアニア、エストニア、ラトビアの三国も独立。しかし、第二次世界大戦がはじまると、三国とも今度はソ連に併合される。しかし、ソ連の混乱に伴い1990年にソ連を離脱して独立を達成。欧州連合に入るなどして今に至っている。
関連項目