(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三國史記/卷14 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

さん國史こくし/まき14

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 高句麗こうくり本紀ほんぎ だいいち さん國史こくし
まき十四とし 高句麗こうくり本紀ほんぎ だい
高句麗こうくり本紀ほんぎ だいさん 

だい武神ぶしんおう

[编辑]

 だい武神ぶしん王立おうりつあるうんだいかいしゅとめおういみな恤,琉璃おうだい三子みつごなま而聰としたけし而雄すぐるゆう大略たいりゃく。琉璃おう在位ざいいさんじゅうさんねんかぶといぬたてため太子たいしねんじゅういちさいいたり即位そくいははまつ勿國おうまつゆずるじょ也。

 ねんはる正月しょうがつ京都きょうとしん大赦たいしゃ百濟くだらみんいちせんあまり戸來へらいとう

 さんねんはるさんがつたてひがし明王みょうおうびょうあききゅうがつおうこつかわとく神馬しんめめい駏䮫。ふゆじゅうがつ,扶餘おうたい使送しそうあかがらすいちとうはつ,扶餘じんとく此烏けんじこれおうある曰:「がらすしゃくろ也,こんへん而為あかまたいちとう,幷二こくちょう也,おう其兼高句麗こうくり乎?」おびもとおくこれけんしめせあるものげんおうあずか群臣ぐんしんこたえ曰:「くろしゃ北方ほっぽういろこんへん而為南方なんぽういろまたあかがらすみずぶつ也,きみとく而不ゆう,以送於我,兩國りょうこく存亡そんぼう知也ともや。」おびもと聞之,おどろき悔。

 よんねんふゆじゅうがつおう出師すいし扶餘,にえ流水りゅうすいじょう望見ぼうけんすい涯,わかゆう女人にょにん,舁鼎ゆうおどけ。就見ただゆうかなえ使つかい炊,まちねついんとくさくしょく,飽一ぐんゆるがせゆういち壯夫たけお曰:「かなえわれぶつ也,わがいもうとしつおうこんとく請負うけおい以從。」とげたまものせいかなえ。抵理[1]勿林宿やどよる聞金ごえむかいあきら使つかいじんひろとくきん璽兵ぶつとう,曰:「てんたまもの也。」拜受はいじゅ上道じょうとうゆう一人ひとり身長しんちょうきゅうしゃくもと面白おもしろ而目有光ありみつはいおう曰:「しんきた溟人かいよし。竊聞大王だいおうきた扶餘,しん請從ぎょう扶餘おうあたま。」おうえつもとまた有人ゆうじん曰:「しん赤谷あかたにじんあさ,請以ちょうほこためしるべ。」おうまたもと

 ねんはるがつおう進軍しんぐん於扶あまりこくみなみ,其地どろぬりおう使平地ひらちため營,かいくらきゅうそつ恐懼きょうくたい。扶餘おう擧國きょこくせんよく掩其不備ふびさく以前いぜんおちい不能ふのう進退しんたいおう於是揮怪よしかいよし拔劍ばっけんごうほえげきまんぐん披靡,不能ふのうささえ直進ちょくしん扶餘おうあたま。扶餘じんすんでしつ其王,おり,而猶こごめかこえすうじゅうおう以糧つきひだるゆう不知ふち所為しょい。乃乞れい於天,ゆるがせだいきり咫尺しせき不辨ふべん人物じんぶつななにちおうれいさくくさ偶人ぐうじんへいりつ營內がいためうたぐへいしたがえ間道かんどうせんぐんよるしつこつかわ神馬しんめにえりゅうげんだいかなえいたり勿林,へいかつえ不興ふきょうとく野獸やじゅう給食きゅうしょくおうすんでいたりこく,乃會群臣ぐんしんいんいたり曰:「不德ふとくけい扶餘。雖殺其王,めつ其國,而又しつわが軍資ぐんし,此孤也。」とげしんつるしといやまし,以存慰百姓ひゃくしょう以國じんかんおう德義とくよしみなもところせ國事こくじ矣。三月さんがつ神馬じんば駏䮫はた扶餘ひゃくひき,俱至づるばんみね下車げしゃまわりだになつよんがつ,扶餘おうたいもとおとうといたり曷思水濱みずはま立國りっこくしょうおう扶餘おうきんかえる季子としこふみしつ其名。はつたいもところせ也,こくはたほろびあずか從者じゅうしゃひゃく餘人よにんいたりかも渌谷,みるかいあたまおう出獵しゅつりょうとげころせこれ百姓ひゃくしょういたり此始ため曷思おうあきなながつ,扶餘おう從弟じゅうていいい國人くにびと曰:「わが先王せんおう亡國ぼうこくほろびみんしょおうおとうと逃竄,於曷おもえわれまた不肖ふしょう以興ふく。」乃與まん餘人よにんらいとうおうふうためおう安置あんちじょう。以其ゆうからまぶんたまものせいからまふゆじゅうがつかいよしそつはつやましかわおう親臨しんりんそんといかいよしごと:「しんきた溟微賤之じん,屢蒙厚恩こうおん。雖死なおなま敢忘ほう。」おうよし其言,また以有だい功勞こうろうそう於北溟山陽さんよういのち有司ゆうし以時まつこれ

 はちねんはるがつはいおつまめさとしためみぎ輔,以軍こくこと

 きゅうねんふゆじゅうがつおうちかしせいぶたこくころせ其王,慰安いあん百姓ひゃくしょうははきんとりこかすめただし以其ためこおりけん十二月じゅうにがつちゃ國王こくおう,聞蓋ほろび,懼害及己,擧國きょこくよしつぶせひたこう

 じゅうねんはる正月しょうがつはいおつまめさとしためひだり輔,松屋まつやためみぎ輔。

 じゅういちねんあきなながつかん遼東りゃおとん太守たいしゅ將兵しょうへいらいおうかい群臣ぐんしんもんせん守之もりゆきけいみぎ輔松曰:「しん聞恃とくしゃあきら,恃力しゃほろびこん中國ちゅうごくあら儉,盜賊とうぞく蜂起ほうき,而兵無名むめい,此非君臣くんしんじょうさく,必是はたぶんまわし,擅侵われくにぎゃくてんたがえじん必無こう,憑險やぶこれ必矣。」ひだり輔乙まめさとし曰:「小敵しょうてきつよ大敵たいてき禽也。しん大王だいおうへい,孰與かんへい以謀不可ふかりょくしょう。」おう曰:「はかりごとわかなに?」たい曰:「こんかんへいどおたたかえ,其鋒不可ふかとう也。大王だいおう閉城かたまち其師おい而擊可也かなり。」おうしかこれにゅうじょう巖城いわき固守こしゅすうしゅんかんへいかこえかいおう以力つきへいつかれいいまめさとし曰:「いきおい不能ふのうもり為之ためゆき奈何いかん?」まめさとし曰:「漢人かんどいいわがいわおせき無水むすいいずみ以長かこえ,以待われじんこまむべいけちゅうこいぎょつつみ以氷水草みずくさけんむねしゅ若干じゃっかん,致犒かんぐん。」おうしたがえこれ,貽書曰:「寡人愚昧ぐまいざい於上こく,致令將軍しょうぐんそちひゃくまんこれぐん暴露ばくろへいさかい以將厚意こうい,輒用薄物うすもの,致供於左右さゆう。」於是,かんしょういいじょう內有すい不可ふか猝拔。乃報曰:「わが皇帝こうてい以臣駑,したれい出師すいしもん大王だいおうつみ。及境踰旬,とく要領ようりょうこん聞來むねげんじゅん且恭,敢不藉口しゃこう以報皇帝こうてい。」とげ引退いんたい

 じゅうさんねんあきなながつかい溝谷みぞたにじんなお須,あずか其弟じょう須及どうおとうと于刀とうらいとう

 じゅうよんねんふゆじゅういちがつゆうかみなりゆき

 じゅうねんはるさんがつ,黜大臣だいじんかたきいっ苟、焚求とうさん人為じんい庶人。此さん人為じんいにえりゅう部長ぶちょうむさぼひなびだつ人妻ひとづまわらわ牛馬ぎゅうば財貨ざいかほしいまま其所よくゆうあずかしゃそくむちにんみなふところ[2]忿怨。おう聞之,よくころせこれ以東いとうあかり舊臣きゅうしんにん致極ほう,黜退而已。とげ使南部なんぶ使者ししゃ[3]もとだいため部長ぶちょう[3]すんでじょうにんべつさく大室おおむろ以處,以仇とう罪人ざいにんれいますどうかたきとうまいまえつげ曰:「われ儕小じんはん王法おうほうかち愧悔。ねがいこう赦過,以令しんのり恨矣。」[3]素引すびきじょうきょうすわ曰:「ひと不能ふのう而能あらためのりぜん莫大ばくだい焉。」乃與ためともかたきとうかん愧,ふくためあくおう聞之曰:「もと不用ふよう威嚴いげんのう以智懲惡,いいのう矣。」たまものせい曰大しつなつよんがつ王子おうじこうわらわゆう於沃沮。らくなみおうちぇぎょういんこれとい曰:「かんくん顔色かおいろ非常ひじょうじんあに北國きたぐにしんおう之子ゆきこ乎?」とげどう,以女つまこうわらわかえくにせんひとつげちぇおんな曰:「わかのうにゅう而國武庫むこわりやぶかくのりわが以禮むかえしかのっといな。」さきらくなみゆうかくわかゆうてきへいのりれいやぶこれ。於是,ちぇ女將おかみがたな潛入せんにゅうちゅうわりめん角口すみぐち,以報こうわらわこうわらわすすむおうかさねらくなみちぇさとし以鼓かく不備ふびわがへい掩至城下じょうかしかこうかくみなやぶとげころせ女子じょしあるうんよくめつらくなみ とげ請婚 めと其女 ためつま こう使つかい本國ほんごく 壞其へいぶつふゆじゅういちがつ王子おうじこうわらわ自殺じさつこうわらわおうつぎ曷思おうまごおんな所生しょせい也。かおよう美麗びれいおう甚愛めいこうわらわもとおそれだつ嫡為太子たいし,乃讒於王曰:「こうわらわ以禮まちわらわ,殆欲らん乎。」おう曰:「わか以他にくやまし乎?」おう不信ふしんおそれはた及,乃涕泣ていきゅう而告曰:「請大おうひそかこうわか此事,わらわふくざい。」於是,大王だいおう不能ふのううたぐしょうざいあるいいこうわらわ曰:「なんしゃく乎?」こたえ曰:「わがわかしゃくあらわははあく,貽王ゆういいこう乎?」乃伏けん而死。

 ろん曰:こんおうしん讒言ざんげんころせ無辜むこ愛子あいこ,其不仁ふじん不足ふそくどう矣,而好わらわとく無罪むざいなにそくせめ於其ちち也,むべわかしゅん於瞽叟[4]しょうつえそく受,だいつえそくはしおちいちち不義ふぎこうわらわ不知ふち於此,而死其所,いい於小謹而昧於大義たいぎ,其公子こうしさるせいたとえ耶?十二月じゅうにがつたて王子おうじかいため太子たいし使つかいいれかん朝貢ちょうこう光武みつたけ[5]みかどふく其王ごうけん[6]はちねん也。

 じゅうねんおうかさねらくなみめつ

 じゅうよんねんはるさんがつ京都きょうと雹。あきなながつ,隕霜ころせこくはちがつ梅花ばいかはつ

 じゅうななねんあききゅうがつかん光武みつたけみかどへい渡海とかいらくなみ其地,ためこおりけん,薩水やめ南北なんぼくぞくかんふゆじゅうがつおう薨。そう於大おだいじゅうりん[7]げんごうためだい武神ぶしんおう

閔中おう

[编辑]

 閔中おういみなかい[8]しゅだい武神ぶしんおうおとうと也。だい武神ぶしんおう薨,大子だいご太子たいし幼少ようしょうかつそくせい。於是,國人くにびと推戴すいたい以立ふゆじゅういちがつ大赦たいしゃ

 ねんはるさんがつうたげ群臣ぐんしんなつがつ國東くにさき大水おおみずみんひだるはつくらにぎわいきゅう

 さんねんあきなながつおうひがしかりしろ獐。ふゆじゅういちがつほし孛于みなみじゅうにち而滅。十二月じゅうにがつ京都きょうとゆき

 よんねんなつよんがつおう於閔中原なかはらあきなながつまた石窟せっくつ,顧謂左右さゆう曰:「われ,必葬於此,須更さく陵墓りょうぼ。」きゅうがつ東海とうかいじんだかしゅとしけんじくじらぎょよる有光ありみつふゆじゅうがつかいこささえ[9]落部おちべ大家たいか戴升とういちまんいえまいらくなみとうかんこう漢書かんしょうん:「だい戴升とうまんくち。」

 ねんおう薨。おうきさき群臣ぐんしんじゅうたがえ遺命いめい,乃葬於石くつごうため閔中おう

慕本おう

[编辑]

 慕本おういみなかいいちうんかいあい婁。だい武神ぶしんおう元子もとこ。閔中おう薨,つぎ卽位そくいためじん暴戾ぼうれい不仁ふじん國事こくじ百姓ひゃくしょう怨之。

 元年がんねんあきはちがつ大水だいすい山崩やまくずれじゅう餘所よそふゆじゅうがつたて王子おうじ翊為おうふとし[10]

 ねんはるはたかさねかん北平きたひらりょう上谷うえたにふとしはら。而遼ひがし太守たいしゅまつり[11],以恩しんまち,乃復和親わしん三月さんがつ暴風ぼうふう拔樹。なつよんがつ,殞霜雹。あきはちがつはつ使賑恤しんじゅつこく內饑みん

 よんねんおうにちぞう暴虐ぼうぎゃく居常きょじょうすわひとそくまくらじんひとある動搖どうようころせ赦,しんゆう諫者,彎弓しゃ

 ろくねんふゆじゅういちがつもり魯弑其君。もり魯,慕本じんさむらいおう左右さゆうおもんばか其見ころせ,乃哭。ある曰:「大丈夫だいじょうぶなん哭為?古人こじん曰:『なでわがのりきさきしいたげわがのり讎。』こんおうぎょうしいたげ以殺じん百姓ひゃくしょう讎也,しか其圖。」もり魯藏がたな以進おうまえおう引而坐。於是,拔刀ばっとう[12]がいとげそう於慕本原もとはらごうため慕本おう


 さん國史こくし まきだいじゅうよん

註釋ちゅうしゃく

[编辑]
  1. 原本げんぽん
  2. 原本げんぽんかけこく
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 此处乃「勃-孑+ゆみ
  4. 原本げんぽん「瞍」
  5. 原本げんぽんとら
  6. 原本げんぽんだて
  7. 原本げんぽんむら
  8. 原本げんぽんいろ
  9. 原本げんぽんとも
  10. 原本げんぽんだい
  11. 原本げんぽん「蔡彤」
  12. 原本げんぽんちから