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三國志/卷42 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

三國志さんごくし/まき42

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 しょくしょじゅういち 霍王こうちょう楊費でん 三國志さんごくし
しょくしょじゅう もりしゅうもりもとはじめらいいん譙郤でん
しょくしょじゅうさん りょちょうつたえ 


もりほろ

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もりほろこく輔,あずさ潼涪じん也。しょう受學於廣かんにんやすりゅうさわ辟為從事じゅうじ,以疾かん。及先ぬしていしょくほろつねしょうろう閉門へいもん不出ふしゅつ

けんきょうねん丞相じょうしょうあきらりょうえきしゅうまきせんむかえみなみょう簡舊とく,以秦宓為べつ,五梁為功曹,ほろためぬし簿ほろ固辭こじ,舉而致之。すんで致,あきら引見いんけんほろほろ陳謝ちんしゃあきら以微聞人,於坐じょうあずかしょ曰:

ふく聞德ぎょう飢渴きかつれき清濁せいだくことりゅう無緣むえんはか覯。おうもとやすしはくひとしおうぶん、楊季きゅうちょうくんひさしみなみ兄弟きょうだいぶんなかたからひとしまい歎高こころざし未見みけん如舊。猥以空虛くうきょみつるりょうしゅうとくうすにんじゅうむごむご憂慮ゆうりょ朝廷ちょうていぬしおおやけこん年始ねんしじゅうはちてん姿すがたじんさとしあい德下とくげ天下てんかひと思慕しぼかんしつほしあずかきみいんてんじゅんみん,輔此明主めいしゅ,以隆きょうこうちょくん於竹帛也。以謂賢愚けんぐ下相おりあいためはかりごとわりぜっまもりろう而已,こごめ也。


ほろ乞老びょうもとめあきらまたあずかしょこたえ曰:

曹丕篡弒,自立じりつためみかどこれなお土龍むぐらもち芻狗有名ゆうめい也。よくあずか羣賢いん其邪にせ,以正どうめつかいくんゆうしょう誨,便びん欲求よっきゅうかえ山野さんや。丕又だいきょう勞役ろうえき,以向くれすわえこんいん丕多つとむ,且以閉境つとむのうそだてやしなえみんぶつなみかぶとへい,以待其挫,しかこれ使つかいへい不戰ふせんみん不勞ふろう而天てい也。きみただしとう以德輔時みみせめくん軍事ぐんじなにため汲汲きゅうきゅう欲求よっきゅう乎!

其敬ほろ如此,はいため諫議大夫たいふ,以從其志。はりしゃ德山とくやま,犍為みなみやすじん也,以儒がく節操せっそうしょうしたがえろう遷諫大夫たいふ五官ごかんちゅうろうしょう

しゅう

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しゅう羣字仲直なかねともえ西にし閬中じん也。ちち舒,叔布,しょう學術がくじゅつ於廣かん楊厚,めいただし扶、にんやすかずちょうおわりまい時人じじんゆうとい:「《春秋しゅんじゅう》曰『だいかんしゃとうぬりだか』,此何いい也?」舒曰:「とうぬりだかしゃ也。」鄉黨きょうとう學者がくしゃわたしでん其語,羣少受學於舒,專心せんしんこうぎょう。於庭ちゅう做小ろう家富いえとみやつつねれいやつさらちょく於樓じょう天災てんさい才見さいみ一氣いっきそくしろ羣,羣自うえろうかん避晨よる凡有氣候きこうこれしゃ以所げんおおなかしゅうまきりゅうあきら辟以ため師友しゆう從事じゅうじぞく漢書かんしょ》曰:けんやすななねんえつ巂有男子だんしため女人にょにん羣言あいみかどまたゆう此,はたえきだいさち也。いたりじゅうねんけんじみかどはてふう於山じゅうねんじゅうがつゆうほし孛於うずら,荊州分野ぶんや,羣以ため荊州まきすすむ而失明年みょうねんあきりゅうひょうそつ,曹公平こうへい荊州。じゅうななねん十二月じゅうにがつほし孛於諸侯しょこう,羣以ため西方せいほうせんよりどころ土地とちしゃみなはたしつりゅうあきらよりどころえきしゅうちょう魯據かんちゅうかんとげよりどころりょうしゅうそうけんよりどころなら罕。明年みょうねんふゆ,曹公へんはたげきりょうしゅうじゅうきゅうねんそうけんかんとげ逃於羌中,ころせ。其年あきあきらしつえきしゅうじゅうねんあき,曹公おさむかんちゅうちょう魯降。さきぬしていしょくしょ儒林こうじょう

さきぬしよく曹公そうかんちゅうもん羣,羣對曰:「とうとく其地,とく其民也,わかへんぐん,必不利ふりとう戒慎かいしん!」しゅう後部こうぶ司馬しばしょくぐんちょうひろしまたあかつき佔候,而天才てんさい羣,ひろしみなみ諫先ぬし曰:「不可ふかそうかんちゅうぐん不利ふり。」さきぬし竟不ようひろしげんはてとく而不とくみん也。將軍しょうぐんらんかみなりどうとういれたけみなぼつかえ,悉如羣言。於是舉羣しげざい

ひろしまた私語しごじん曰:「としざいかのえ天下てんかとうえきだいりゅう祚盡矣。しゅおおやけとくえきしゅうきゅうねんこれとら卯之うのあいだとうしつ。」にゅうみつしろ其言。はつさきおもあずかりゅうあきらかい涪,ひろしためあきら從事じゅうじ侍坐じざ,其人にょう須,さきおもあざけこれ曰:「むかしわれきょ涿縣,とく多毛たもうせい東西とうざい南北なんぼくみな諸毛もろけ也,涿令しょう曰『諸毛もろけにょう涿居乎』!」ひろし即答そくとう曰:「むかし有作ゆうさくじょうとう潞長,遷為涿令しゃかんかえいえ時人じじんあずかしょよくしょ潞則しつ涿,よくしょ涿則しつ潞,乃署曰:『潞涿くん』。さきぬし須,ひろし以此及之。さきぬしつね銜莫不遜ふそん忿其漏ごと,乃顯ひろし諫爭かんちゅうけん下獄げごくはた誅之。しょかずらあきらおもて請其ざいさきぬしこたえ曰:「ろうらんせいもんとくすき。」ひろしとげ棄市。こうたかしだてさきぬし薨,みな如裕しょこくまたあかつきしょうじゅつまい舉鏡めん刑死けいしつねなぐこれ於地也。

羣卒,しん頗傳其術。

もり

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もり瓊字はく瑜,しょくぐんなるじん也。しょう受學於任やすせいきわむやすじゅつりゅうあきら辟為從事じゅうじさきぬしていえきしゅうりょうまき,以瓊ため從事じゅうじこうしゅ踐阼,はい諫議大夫たいふ,遷左ちゅうろうはただいおおとり臚、ふとしつねためじんしずかだましょうげん,闔門もりあずか世事せじ。蔣琬、禕等みな重之しげゆき。雖學ぎょういれふかはつ天文てんもんゆうしょ論說ろんせつこうきんつう儒譙しゅうつねとい其意,瓊答曰:「よくあきら此術甚難,須當身あてみ,識其がたしょく不可ふか信人のぶと也。晨夜げきしか知之ともゆきふく漏洩ろうえい不知ふち以不ふく也。」しゅういんとい曰:「むかししゅうしるしくん以為とうぬりだかしゃ也,其義なん也?」瓊答曰:「,闕名也,とうぬり而高,聖人せいじんるい而言みみ。」またといしゅう曰:「やすしふくゆうしょかいよこしま?」しゅう曰:「達也たつや。」瓊又曰:「いにしえしゃめい官職かんしょく不言ふげん曹,はじめかんやめらいめいかんつきげん曹。吏言ぞく曹,そつげん侍曹じそう,此殆天意てんい也。」

瓊年はちじゅうあまりのべじゅうさんねんそつちょかん章句しょうくじゅうあまりまんこときょう諸子しょし,內學つて業者ぎょうしゃ周緣しゅうえん瓊言,乃觸るい而長曰:

春秋しゅんじゅうでんちょはたきよしこうめい太子たいし曰仇,おとうと曰成ふく曰:『哉君名子なご也!よしみ耦曰,怨耦曰仇,いまくんめい太子たいし曰仇,おとうと曰成はじめちょうらん矣,あに其替乎?』其後はて如服ごと。及漢れいみかどめい曰史こうただしこうすんでりつためみかどみなめんため諸侯しょこうあずかふくげん相似そうじ也。さきぬしいみな備,其訓也,しゅいみなぜん,其訓授也,如言りゅうやめ矣,とう授與じゅよじん也;しゃ甚於きよしこうれいみかど名子なご

こう宦人あきらろうけん於內,けい耀ねん宮中きゅうちゅう大樹だいきおりしゅう深憂しんゆう所與しょよごと,乃書ばしら曰:「眾而だいかい而授,わかなんふく?」げん曹者眾也,しゃだい也,眾而だい天下てんか其當かい也,而授,如何いかふくゆうりつしゃ乎?しょくすんでほろび,咸以しゅうごとためけんしゅう曰:「此雖おのれしょ推尋,しかゆうしょいんゆかりもりくんやめ而廣みみことかみおもえどくいたり也。」

もと

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もと慈字じんあつし南陽なんようじん也。師事しじりゅう熙,ぜんていがくえき》、《尚書しょうしょ》、《さんれい》、《もう》、《論語ろんご》。けんやすちゅうあずかもとやすしとう俱自交州いれしょく時又ときまたゆうぐんえびすせんこうきょう不知ふち其所以在えきせん雖學沾洽,しかたく犖強識,祖宗そそう制度せいどふくすうみなゆびてのひら,舉手さきぬしていしょくうけたまわらんれき學業がくぎょうおとろえはい,乃鳩合きゅうごう典籍てんせき沙汰さた眾學。慈、せんなみため學士がくしあずかはじめこうらいさとしとうてんてのひらきゅうぶん。值庶ごと草創そうそうどううたぐ,慈、せんさら相剋そうこくそし讟忿きゅうかたち於聲しょく書籍しょせき有無うむそうどおりひろすわえ撻,以相ふるえ攇。攇,むなしばんはん其矜おのれ妒彼,乃至ないし於此。さきぬし愍其わか斯,羣僚大會たいかい使つかい倡家かりためようこう其訟鬩之じょうさけたけなわらくさく,以為嬉戲きぎはつ以辭しょうなんおわり以刀つえしょうこごめようかんきりせんさきぼつ,慈後ぬしやや遷至大長おおちょうあきそつまごもり曰:しょくしょう人士じんし慈、せんとうなみじゅつくんでん其業,ふくため博士はかせ

はじめこう

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はじめこう孝裕たかひろ河南かなん洛陽らくようじんかんたいじょうはじめうつぞくぞく漢書かんしょ》曰:うつちゅうつねさむらいはじめ賁之おとうとれいみかどまつためこう吏。けんじみかど遷都せんと長安ながやすとげ逃人しょくりゅう父子ふしまち以客れい博物はくぶつ識古,しょらんゆう銳意えいいさんちょう於漢きゅうてんこのみおおやけひつじ春秋しゅんじゅう》而譏しかひだり》,まいあずからいさとしそうひかりつね譊譊讙咋。譊音やつ交反。讙音きゅう袁反。咋音徂格はんさきぬしていえきしゅうはいためろうあずかもと慈等なみてのひら制度せいどこうしゅ踐阼,ため符節ふせつれいたむろこうじょう長樂ながらしょう,遷大つかさみのり

のべきゅうねんあき大赦たいしゃひかり於眾ちゅうせめ大將軍だいしょうぐん禕曰:「おっと赦者,へん枯之ぶつ明世あきよしょむべゆう也。おとろえへい窮極きゅうきょく,必不とくやめしかこう乃可けん而行みみこん主上しゅじょう仁賢にんけんひゃく僚稱しょくゆうなん旦夕たんせき危,たおせがかきゅう,而數ほどこせ非常ひじょうおん,以惠かん宄之あく乎?またたかはやぶさはじめげき,而更ばらなだめ有罪ゆうざいうえはんてんしたたがえじんろうおっとほけくち達治たつじからだきゅういい其法なん以經ひさしあに瞻之高美たかみ所望しょもう明德めいとく哉。」禕但顧謝踧踖而已。光之みつゆき指摘してきつう癢,如是にょぜるい執政しっせい重臣じゅうしんこころ不能ふのうえつ爵位しゃくいとうまい直言ちょくげんしょ迴避,ためだいしょいやふとし常廣つねひろかん鐔承、華陽かようこくこころざし》曰:うけたまわ公文こうぶんれきぐんもりしょうひかり祿ろく勛河ひがし裴儁とうねんみなざいひかり,而登よりどころじょうれつしょこうみぎぶた以此也。でんとおる《裴氏》曰:儁字たてまつさき尚書しょうしょれいせんおとうと也。儁姊おっとためしょくちゅうちょう,儁送ねんじゅうさいとげ遭漢まつ大亂たいらんふくかえすんでちょう知名ちめいためしょくしょ推重すいちょう也。えつれいいとぐちためしょくとくぐんしょくやぶ,遷還洛陽らくようはいろう

後進こうしん文士ぶんし秘書ひしょろう郤正すうしたがえこうはかおとずれひかりといせい太子たいししょ習讀せいなみ性情せいじょう好尚こうしょう正答せいとう曰:「たてまつしんけんきょう。夙夜匪懈,ゆう世子せいしふう接待せったい羣僚,舉動於仁じょ。」ひかり曰:「如君しょどうみな所有しょゆうみみわれいましょとえよくとも其權りゃくさとし調ちょうなん如也。」せい曰:「世子せいしみちざい於承こころざし竭歡,すんでとく妄有しょほどこせため,且智調ちょうぞう胸懷きょうかいけんりゃくおう而發,此之有無うむ,焉可しつらえ也?」ひかりかいせいまきむべ不為ふため放談ほうだん,乃曰:「われこう直言ちょくげんしょ迴避,まいたま射利しゃりびょうため世人せじんしょそしいやうたぐしょうくんまた甚好われごとしかかたりゆうこん天下てんか未定みていさとしためさきさとし雖有自然しぜんしか不可ふか力強ちからづよ致也。此儲くん讀書どくしょやすしとうこうわれとう竭力博識はくしき以待訪問ほうもん,如博士はかせさがせさくこうためし以求爵位しゃくいよこしまとうつとむ其急しゃ。」せいふかいいこうげんためしか後光ごこうすわこと免官めんかんねんきゅうじゅうあまりそつ

らいさとし

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らいさとしけいたちしん野人やじんらい歙之也。ちちつやためかんそらはな嶠《こう漢書かんしょ》曰:つや好學こうがく下士かし開館かいかんやしなえ眾。しょうれきあらわれいみかどいたりそらかんまつ大亂たいらんさとしずい姊夫奔荊しゅう,姊夫琬是りゅうあきら祖母そぼ侄,あきらむかえ琬妻,さとしとげ俱與姊入しょくつねためあきら賓客ひんきゃく涉獵しょうりょう書籍しょせきぜんひだり春秋しゅんじゅう》,ゆうせい於《くら》、《みやび訓詁くんここう是正ぜせい文字もじさきぬしていえきしゅうしょ敏典としのり學校がっこうじょう。及立太子たいし,以為家令かれいこうしゅ踐阼,ためとら賁中ろうしょう丞相じょうしょうあきらじゅうかんちゅう,請為ぐんさいしゅ、輔軍將軍しょうぐんすわことしょくあきらしゅうゆうきょう曰:「將軍しょうぐんらいさとたい上官じょうかんあらわごと新人しんじんゆうなん功德くどく而奪わがさかえあずかよこしま諸人もろびとどもにくわが何故なぜ如是にょぜ』?さとしねんろうきょうもとなま怨言えんげんむかし成都せいとはつじょうしゃ以為らいさとしらん羣,先帝せんてい以新定之さだゆきさいとげ含容,しょれいようこうりゅうはつせん以為太子たいし家令かれい先帝せんていえつ而不にんこばめ也。こうしゅすんでわれやみ於知じんとげふく擢為將軍しょうぐんさいしゅたがえしゃこれしん先帝せんていしょ疏外,いいのう以敦厲薄ぞくそち以義。こんすんで不能ふのうおもて退職たいしょく使つかい閉門へいもんおもえ愆。」あきらそつかえ成都せいとため大長おおちょうあきまたまぬかれこうるい遷為こう祿ろく大夫たいふふくすわ黜。前後ぜんごすう貶削,みな以語げんふし,舉動たがえつね也。ときはじめこうまた以樞まき議論ぎろんしかなおいよいよ於敏,俱以耆宿きしゅく學士がくしれい於世。而敏荊楚めいぞく東宮とうぐう舊臣きゅうしんとく優待ゆうたいはい而復おこりこう以敏ためまき將軍しょうぐんよくれい以官じゅう自警じけい戒也,ねんきゅうじゅうななけい耀中そつちゅうまた博覽はくらん經學けいがくゆうさとふうあずか尚書しょうしょむかいたかしとうなみのう協贊きょうさん大將軍だいしょうぐんきょう維。維善,以為さんぐん

いんだま

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いんだまおもえせんあずさ潼涪じん也。えきこんぶん而不たたり章句しょうくだま其不はく。乃遠ゆう荊州,したがえ司馬しば德操とくそうそう仲子なかことう受古がくみなどおりしょけいまた專精せんじょう於《ひだり春秋しゅんじゅう》,りゅう歆條れいてい眾、賈逵父子ふしちんはじめかたふくけんちゅうせつ,咸略誦述,ふく按本。さきぬしていえきしゅうりょうまき,以為勸學かんがく從事じゅうじ。及立太子たいし,以默ためぼくしゃ以《ひだりでん》授後ぬしこうしゅ踐阼,はい諫議大夫たいふ丞相じょうしょうあきらじゅうかんちゅう,請為ぐんさいしゅあきらそつかえ成都せいとはいだいちゅう大夫たいふそつそうつたえ其業,ため博士はかせそう仲子なかこざい。《りゃく》曰:其子あずか謀反ぼうほんふく誅。太子たいしこたえおうろうしょ曰:「むかしいしあつあずかしゅう吁遊,ちち碏知其與らんかん暱田きよし其好ひとし君子くんしゆう必有かたきょ必就まことゆう以也。嗟乎!そうただし石子いしこさき識之あきらろうかか此禍。こん雖欲はらこうめつおや誅,たてじゅんしんふしなおとくよこしま!」

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譔字欽仲,あずさ潼涪じん也。ちちひとしとくけんあずかどうけんいんだま懼遊荊州,したがえ司馬しば徽、そうただしとうがく。譔具でん其業,まただまこうろん義理ぎり五經ごきょう諸子しょし該覽,はくこう技藝ぎげい算術さんじゅつぼくすう醫藥いやくゆみいしゆみ機械きかいたくみみな致思焉。はじめためしゅうしょ尚書しょうしょれいのべ熙元ねんこうしゅ立太子りったいし,以譔ため庶子しょし,遷為ぼくしゃてんちゅう散大さんだいおっとみぎちゅうろうはたなおさむらい太子たいし太子たいしあい其多,甚悅しかからだけいだっこうおどけ啁,不能ふのう重也しげやちょ古文こぶんえき》、《尚書しょうしょ》、《もう》、《さんれい》、《ひだりでん》、《ふとしげんゆび》,みなじゅん賈、うま於鄭げんあずかおうことへだたはつ其所じゅつ,而意どうけい耀中そつ

ひねじゅつ

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時又ときまた有漢うかん中陳なかじんじゅつさるはくまた博學はくがく多聞たもんちょしゃくななへん、《えき耆舊でん》及《こころざし》,れきさんぐん太守たいしゅ

譙周

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譙周まことみなみともえ西にし西にしたかし國人くにびと也。ちち𡸫,さかえはじめ尚書しょうしょ》,けんどおりしょけい及圖ぬきしゅうぐん辟請,みなおうしゅう就假師友しゆう從事じゅうじしゅうようあずかははけい同居どうきょすんでちょうふけ篤學とくがくいえまずし嘗問產業さんぎょう,誦讀典籍てんせき欣然きんぜんどくわらい,以忘寢食しんしょくけんきよし六經りくけい》,ゆうぜん書札しょさつ,頗曉天文てんもん,而不以留意りゅうい諸子しょし文章ぶんしょうしん所存しょぞん悉遍也。身長しんちょうはちしゃく體貌たいぼう素樸そぼくせい推誠かざり造次ぞうじ辯論べんろんざいしかせん識內さと

けんきょうちゅう丞相じょうしょうあきらりょうえきしゅうまぎいのちしゅうため勸學かんがく從事じゅうじしょく》曰:しゅうはつあきら左右さゆうみなわらい既出きしゅつ有司ゆうし請推わらいしゃあきら曰:「ひさし不能ふのうしのべきょう左右さゆう乎!」あきらそつ於敵にわしゅう在家ありいえ聞問,そく便びん奔赴,ひろゆう詔書しょうしょ禁斷きんだんおもんみしゅう以速ぎょうとくたち大將軍だいしょうぐん蔣琬りょう刺史しし,徙為てんがく從事じゅうじそうしゅう學者がくしゃこうしゅ立太子りったいし,以周ためぼくうたて家令かれいどきしゅ頗出ゆうかんぞうこう聲樂せいがくしゅうじょう疏諫曰:

むかしおう莽之はい豪傑ごうけつなみおこりまたがしゅうよりどころぐんよくろう神器じんぎ,於是けん才智さいちおもえもちしょ未必みひつ以其ぜい廣狹こうきょうおもんみ其德うすきあつし也。於時更始こうし公孫こうそんじゅつ及諸ゆうだい眾者おおおのれ廣大こうだいしか不快ふかいじょうほしいままほしだる於為ぜん遊獵ゆうりょう飲食いんしょく恤民ぶつはついれ河北かほく,馮異とうすすむ曰:『とう行人こうじんしょ不能ふのうため。』とげつとむ冤獄,節儉せっけん飲食いんしょくどうみこと法度はっときたしゅううた歎,こえぬのよんとお。於是鄧禹南陽なんようおいかん、寇恂識世はるか聞德ぎょうとげ以權けい舉漁上谷うえたに突騎むかえ於廣おもね。其望ふう慕德しゃ邳肜、耿純、りゅうしょくいたり於輿びょうつぎかん,繈負而至しゃ不可ふかかちすうのう以弱ためきょうほふおうろう,吞銅おりあかまゆ而成みかどぎょう也。及在洛陽らくよう,嘗欲小出こいでくるまやめ,銚期諫曰:『天下てんかやすししんまことねがい陛下へいかほそゆきすう。』即時そくじかえくるま。及征隗囂,穎川えいせんぬすめおこりせいかえ洛陽らくようただし寇恂往,まこと曰:『穎川えいせん以陛遠征えんせい奸猾おこり叛,未知みち陛下へいかかえおそれ不時ふじくだ陛下へいか臨,穎川えいせんぞく必即くだ。』とげいたり穎川えいせん,竟如まことげん急務きゅうむよく小出こいで敢,いたり急務きゅうむよくやす不為ふためみかどしゃよくよし也如此!つて》曰『百姓ひゃくしょう』,まこと以德さき也。こんかん遭厄うん天下てんかさんふん哲之てつゆきおもえもちとき也。陛下へいかてん姿すがた至孝しこうさんねん言及げんきゅう隕涕,雖曾、閔不也。けいけんにんざい使つかい盡力じんりょくゆう逾成、かん故國ここく內和いち大小だいしょう戮力,しんしょ不能ふのうひねしかしん勝大かつおおねがいねがいふく廣人ひろとしょ不能ふのうしゃおっと挽大じゅうしゃ,其用りょく眾,拔大艱者,其善じゅつこう,且承ごと宗廟そうびょうしゃもとめぶくゆう所以ゆえんりつみんみことじょう也。いたりよんまつあるゆう臨,いけえんあるゆう仍出,しんとどこおわたしやすおっとゆうせめざいしゃひまつきらく先帝せんていこころざしどう未成みせいまことつきたのしこれねがいしょうげんらくかん後宮こうきゅうしょぞうづくりただしたてまつ先帝せんていしょほどこせしもため子孫しそん節儉せっけんきょう

徙為ちゅう散大さんだいおっとなおさむらい太子たいし

於時軍旅ぐんりょすう百姓ひゃくしょう凋瘁,しゅうあずか尚書しょうしょれいひね祗論其利害りがい退すさ而書いいかたき國論こくろん》,其辭曰:

いんあまりくにしょう,而肇けん國大こくだいなみそう於世而為仇敵きゅうてきいんあまり國有こくゆうだかけんきょうしゃもん於伏曰:「こん國事こくじ未定みてい上下じょうげろうしん往古おうこことのう以弱しょう強者きょうしゃ,其術なん如?」ふく曰:「われ聞之,しょだい患者かんじゃつね慢,しょしょうゆうしゃつねおもえぜん慢則せいみだれおん善則よしのりなま理之まさゆきつね也。しゅうぶんやしなえみん,以少;勾踐卹眾,以弱斃強,此其じゅつ也。」けんきょう曰:「囊者こうきょうかんじゃくそうあずか戰爭せんそうにちやすしいきしか項羽こううあずかかん約分やくぶんおおとりみぞためかいかくよくいきみんちょうりょう以為みんこころざし既定きていのりなんどう也,ひろそちついはねおわり斃項あに必由ぶんおうこと乎?はじめけんくにかたゆうやまし疢,わがいん其隙,おちい其邊陲,覬增其疾而斃也。」ふく曰:「とういんしゅうさいおうこう世尊せそん君臣くんしんひさしかたみん習所せんふかしゃなん拔,よりどころかたしゃなん遷。とう此之,雖漢やすのうつえけんむち而取天下でんか乎?とうはたやめこうおけ守之もりゆきみんつかれしんやく天下てんかくずしあるとしあらためぬしあるつきえきこうとりおどろきじゅう駭,莫知しょしたがえ,於是ごうきょうなみそうとらきれおおかみぶんやまし搏者おそ後者こうしゃ吞。いまわがあずかはじめけん皆傳かいでんこくえき矣,すんでしんまつかなえにえときじつゆう六國並據之勢,ためぶんおうなんためかんおっとみん疲勞ひろうのり騷擾そうじょうちょうせいうえ慢下暴則瓦解がかいかたちおこりことわざ曰:『射幸しゃこうすう跌,如審はつ。』故智こちしゃ不為ふためしょうとぎうつり不為ふためあらため而後どうすうごう而後舉,武之たけゆき再戰さいせん而克,まことじゅうみんろう而度審也しんや。如遂ごくたけ黜征,くずしぜいせい不幸ふこうぐうなん,雖有智者ちしゃはた不能ふのうはかりごと矣;わか乃奇へん縱橫じゅうおう出入でいりあいだ沖波おきなみ截轍,ちょうたに越山こしやまよしぶねかじ而濟めいしゃわが也,しょ及。」


こう遷光祿ろく大夫たいふきゅうれつしゅう雖不あずか政事せいじ,以儒ぎょうれいときおとずれだい,輒據けい以對,而後せい好事こうじしゃまた諮問しもんしょうたぐ焉。

けい耀ろくねんふゆ大將軍だいしょうぐん鄧艾かつこうゆかり長驅ちょうく而前。而蜀ほんいいてき不便ふべんいたり不作ふさくじょうもり調度ちょうど。及聞もぐさやめじん陰平かげひら百姓ひゃくしょう擾擾,みなしん山野やまの不可ふか禁制きんせいこうしゅ使臣ししん會議かいぎけい所出しょしゅつある以為しょくあずかほんため和國わこくむべ奔吳;ある以為南中なんちゅうななぐん,阻險鬥絕,えき以自もりむべ奔南。おもんみしゅう以為:

いにしえ以來いらいよせ他國たこくため天子てんししゃ也,いまわかにゅうかたとう臣服しんぷく。且政ことのり大能おおの吞小,此數自然しぜん也。よし此言のりのうなみくれ不能ふのうなみあかり矣。とうためしょうしょうしん,孰與ためだいさいはずかしめはじなに與一よいちはずかしめ?且若よく奔南,のりとうはやためけいしかはてこん大敵たいてき以近,わざわいはいはた及,羣小しんいちたもておそれ發足ほっそくにち,其變不測ふそくなにいたりみなみゆう乎!

羣臣あるなんしゅう曰:「こんもぐさ以不とおこわ受降,如之なに?」しゅう曰:「方今ほうこんひがしまろうどことぜいとく受之,受之とくれいわか陛下へいかくだきれ以封陛下へいかしゃしゅう請身まい京都きょうと,以古そう。」眾人以易しゅう

こうぬしなおうたぐ於入みなみしゅうじょう疏曰:

あるせつ陛下へいか以北いほくへい深入ふかいりゆうよくてきみなみけいしん以為不安ふあん何者なにもの南方なんぽうとお夷之えびすの平常へいじょうしょきょうためなおすうはん叛,丞相じょうしょうあきらみなみせいへいぜい逼之,きゅう乃幸したがえ供出きょうしゅつかん以給へい,以為愁怨,此患國之くにゆきじん也。こん窮迫きゅうはくよく往依恃,おそれ必復はん叛,一也かずやきたへいただししょく而已,わか奔南かた,必因じんいきおいおとろえ,及時赴追,也;わかいたり南方なんぽうそととうこばめてき,內供ふく費用ひようちょうひろしょ,耗損しょえびす必甚,甚必そく叛,三也みつやむかしおうろう以邯鄲僭ごう時世じせいざいしんかしこ逼於ろうよく棄還せきちゅう。邳肜諫曰:『あきらおおやけ西にしかえのり邯鄲かんたんじょうみん肯捐父母ちちはは城主じょうしゅ,而千里せんりおくおおやけ,其亡叛可必也。』したがえこれとげやぶ邯鄲かんたん今北いまきたへいいたり陛下へいかみなみぎょうまことおそれ邳肜げんくつがえしん於今,よん也。ねがい陛下へいかはや為之ためゆき爵土;わかとげてきみなみいきおいきゅう乃服,其禍必深。《えき》曰:『亢之ためごと不知ふちそん不知ふちほろび知得ちとくしつ存亡そんぼう而不しつ其正しゃ,其惟聖人せいじん乎!」げん聖人せいじん知命ちめい而不苟必也,堯,しゅん以子不善ふぜんてんゆう授,而求授人;不肖ふしょうわざわいひさしもえ,而迎綬於じんきょう以至乎!ほろ以殷おうこんめんばく銜璧而歸たけおうあにしょらく哉,とくやめ也。


於是とげしたがえしゅうさくりゅうおそれ,一邦蒙賴,しゅうはかりごと也。まご綽評曰:譙周せつおもくだ乎?曰:ため天子てんし而乞降請命,なにはじふか乎!おっとため社稷しゃしょくのりため社稷しゃしょくほろびそくほろびこれ先君せんくんせい篡,あずかどうてん矣。推過於其ちち,俛首而事讎,いい苟存,あに大居おおい正之まさゆき道哉みちやまごもり曰:春秋しゅんじゅうよしくにくん社稷しゃしょくきょう大夫たいふきょうしょう天子てんし而可はずかしめ於人乎!しゅういい萬乘之君偷生苟免,ほろびれいまれよう冀微さかえ,惑矣。且以ごといきおいげん有未ゆみつき何者なにものぜん雖庸ぬしじつ桀、紂之こくせん雖屢きたゆうくずしみだれたて不能ふのう君臣くんしん固守こしゅじょういち退すさひがしひな以思後圖こうとけん以重へいよりどころしろみかど,霍弋以強そつ鎮夜ろうしょくけわしせま山水さんすいたかしへだたぜっ激湍げきたん步卒ほそつしょわたるわか悉取ぶねかじよりどころしゅう徵兵ちょうへい南中なんちゅう,乞師東國とうごく,如此そくきょう、廖五はた自然しぜんくもしたがえ三師承命電赴,なんとうよせところ而慮於必ほろびよこしま,褰國だい舉,よくついのりぶねかじ靡資,よくとめそくろうおそれ。且屈伸くっしんゆうかい情勢じょうせいだいおこりじょいんおもえ奮之みん,以攻おご惰之そつ,此越おう所以ゆえんはい闔閭,たん所以ゆえん摧騎こう也,なにため匆匆そうそう遽自囚虜しゅうりょしもけんかべ於敵じん,致斫せきいたり恨哉?葛生くずうゆううん:「ことすみそくやめみみやすのうふく為之ためゆき!」たけし哉斯ごと以立懦夫だふこころざし矣。かんつばめひとし、荊、えつこれはいあるくにくつがえしゅほろびあるさかなけんとり竄,おわりのうたていさおたてことかんふく社稷しゃしょくあに曰天すけそもそもまたひとはかりごと也。こう使つかいふところ苟存けいおさめ譙周げんなにくに基之もとゆきのう構,令名れいめい哉?ぜんすんでやみぬししゅうみのる駑臣,ぽうさるつつめたん、范蠡、大夫たいふしゅまたどお乎!

どきすすむぶんおうため相國しょうこく,以周ゆう全國ぜんこくこうふうじょうちんこうまた下書したがき辟周,しゅうはついたりかんちゅうこまやましすすむ咸熙ねんなつともえぐんぶんりつしたがえ洛陽らくようかえしょくしゅうしゅういんしょばんしめせたて曰:「てんうまゆるがせ兮,がつとりぼつ兮。」てんうましゃいい司馬しば也,がつとりしゃいいはちがつ也,いたりはちがつ而文おうはてくずし華陽かようこくこころざし》曰:ぶんりつこうきゅうしょうさんれいけんどおり羣書。刺史しし禕命ため從事じゅうじにゅうため尚書しょうしょろう復辟ふくへき大將軍だいしょうぐんひがし曹掾,やや遷尚しょしょくなみ於魏,やなしゅうけんしゅためべつ從事じゅうじ,舉秀才しゅうさいすすむたいはじめねんはいずみかげ太守たいしゅ,遷太子中こなか庶子しょし立上たちのぼげん:「しょく大官たいかん盡忠じんちゅうことしゃ子孫しそん,雖仕ぐんこくあるゆう不才ふさいどうこれひとしみんためげきまたしょかずらあきら、蔣琬、禕等子孫しそんりゅう徙中畿,かくよろしりょうざい敘用,以慰ともえしょくしんかたぶけくれじんもち。」ことみな施行しこううたてつねさむらいけんじがえいなしょおさめやや遷衛じょうちゅうちょうふく其賢みやびためめいきょう。咸寧まつそつたてしょうそう詩賦しふろん頌凡すうじゅうへん

すすむしつ踐阼,るいみことのり所在しょざいはつしゅうしゅうとげ輿こしやましまいらくやすしはじめさんねんいたり。以疾おこり,就拜じょうしゅう乃自ひねこう而封,もとめかえ爵土,みな聽許ちょうきょねんつね為本ためもとぐん中正ちゅうせいきよしていこと訖,もとめきゅうかえいえ,往與しゅうべつしゅう曰:「むかし孔子こうしななじゅうりゅうむかい、楊雄ななじゅういち而沒,こんわれねんななじゅう,庶慕孔子こうし遺風いふうあずかりゅう、楊同軌,おそれ不出ふしゅつとし,必便長逝ちょうせいふくしょう矣。」うたぐしゅう以術知之ともゆきかり而此げん也。ろくねんあきためつねさむらいやましあつはいいたりふゆそつすすむあきみことのり曰:「ちん甚悼たまものあさふくいちころもいちかさねぜにじゅうまん。」しゅういき熙上ごとしゅう臨終りんじゅうぞく熙曰:「ひさだきやまし曾朝わかこく恩賜おんしあさふくころもぶつしゃ,勿以とうかえきゅうはかみちけんぎょうなんさくけいかん。殯斂やめ畢,うえかえところたまもの。」みことのりかえ衣服いふくきゅうかんじき凡所著述ちょじゅつじょうほうくん》、《五經ごきょうろん》、《古史こしこうしょぞくひゃくへんえき耆舊でん曰:えきしゅう刺史ししただしさかえ圖畫ずがしゅうぞう於州がくいのち從事じゅうじとおる頌之曰:「そもそもそもそも譙侯,好古こうこじゅつ儒,たからみちふところしんかん盈虛えいきょまさ名美なみあと終始しゅうししょわがのち欽賢,無言むごんほまれよじしょぜんあきら丹青たんせい。嗟爾來じらいかん茲顯。」

まご 譙秀

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しゅう三子みつこ,熙、けんどう少子しょうしどう頗好しゅうぎょうまた以忠あつ質素しっそためぎょう,舉孝れんじょすずれい東宮とうぐう洗馬せば,召不就。しゅう長子ながこ熙。熙子しゅうもと彥。《すすむあき》曰:しゅうせいせいしず交於知將ちしょう大亂たいらんぜっ人事じんじ從兄弟いとこ及諸おやうらあずかあいしゅうぐん辟命,及李ゆうぬすめしょくやすしゃちょうしゅう又雄またお叔父おじ驤、驤子ことぶき辟命,みなおうつねかんむり鹿しかがわ,躬耕やまやぶ永和えいわさんねん安西あんざい將軍しょうぐん桓溫たいらしょくおもてこもしゅう曰:「しん聞大しらきすんで虧,のり高尚こうしょうしるべあらわどう昏,のりちゅう貞之さだゆき義彰よしあきゆうあらいみみとうふち以振げん邈之ふうまたゆう秉心矯跡以惇ざい三之さんのぶし以上いじょうだいきみ,莫不たかしじゅう斯軌,所以ゆえんあつぞくくんみんせい一流いちりゅうきおいふくおもんみだいすすむおう禦世,うん無常むじょうどおりゆうたむろあしなえ神州しんしゅうおか墟,三方みかた圮裂,うさぎ罝絕ひびき於中りん白駒しろこま聞於空谷くうこく,斯有識之しょ悼心,だい雅之まさゆきしょ嘆息たんそくしゃ也。陛下へいか聖德せいとく嗣興,ぽう恢天いとぐちしんむかしたてまつやく有事ゆうじ西土せいどくじらさんしょううおすんでけんおもえせん大化たいかおとずれしょ故老ころうさがせ楊潛はぐれ,庶武於羿、浞之墟,そうおう蠋於ほろびひとしこれさかい。竊聞ともえ西にし譙秀,うえみさおさだかただきとくこえ遁,あげきよし渭波。於時すめらぎごく遘道けしかい,羣黎蹈顛沛之艱,中華ちゅうかゆう顧瞻あい幽谷ゆうこく遷喬もちきょういのち屢招,かん仍偪,よせとら吻,危同朝露あさつゆ,而能こうふしだまりつちかいくだはずかしめもりもんぜっあとめんにせにわしんめん龔勝ほろびわざわい退すさ薛方詭之そし;雖園、あやぎぬ棲商、らくかんやすしだまりょううみぽう於秀,殆無以過。於今西土せいど,以為美談びだんおっと旌德れいけん道之みちゆきしょさきたかしおもてことぶし聖哲せいてつうえつとむ方今ほうこんろくごうやすし豺狼さいろう當路とうろのこはじむ偷薄,ごえどる聞,えきむべ振起しんき道義どうぎ,以敦りゅう遁之へいわかしゅうこうむうす帛之ちょうあし鎮靜ちんせい頹風,軌訓囂俗;かそけ遐仰りゅうきゅうふく矣。」及蕭けい叛亂はんらん避難ひなん宕渠川中かわなかさとじん宗族そうぞく馮依しゃ以百すう秀年ひでとしはちじゅう,眾人以其こもおいよくだい負擔ふたんしゅうこばめ曰:「かくゆう老弱ろうじゃくとうさき營救。われ氣力きりょく自足じそくこらえ此,以垂くちこれねんるい諸君しょくん也。」じゅうねんそつ於家。

郤正

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正字せいじれいさき河南かなん偃師じん也。祖父そふ儉,れいみかどまつためえきしゅう刺史ししため盜賊とうぞくしょころせかい天下でんか大亂たいらんせいちち揖因とめしょく。揖為將軍しょうぐんはじめたちとくずいたちくだため中書ちゅうしょれいせい本名ほんみょう纂。しょう以父ははよめたん煢雙りつ,而安ひん好學こうがく博覽はくらんふんせき弱冠じゃっかんのうぞくぶんにゅうため秘書ひしょ吏,てんためれい,遷郎,いたりれいせいあわ於榮,而尤ふけ文章ぶんしょう司馬しばおうあげはんでんちょう、蔡之儔遺文いぶんへん,及當世とうせいしょぜんろんえきゆうしゃのり鑽鑿推求,りゃくみな寓目ぐうもく自在じざい內職,あずか宦人あきら周旋しゅうせんけいさんじゅうねんあきらしたがえほろいたりとうとみさおろうけんせいすんで不為ふためあきらしょあいまた不為ふためあきらしょにく以官ろくひゃくせき,而免於憂患ゆうかん

のりさき儒,かりぶんごう曰:《しゃくそし》,其文つぎ於崔駰《いたるむね》。其辭曰:

あるゆうそししゃ曰:『聞之前記ぜんきおっとごとあずかときなみめいあずかこう偕,しかのりめいあずかことぜん哲之てつゆき急務きゅうむ也。創製そうせいさくはん,匪時だてりゅうたたえたれめい,匪功めい必須ひっすこう而乃あらわことまた俟時以行どめぼつめいほろび君子くんししょはじ以達じんけんどうさがせ頤索ほろかん天運てんうんひょうこう人事じんじ盛衰せいすいべんしゃはせせつ智者ちしゃおうはかりごとおっとえんじりゃく武士ぶし奮威,くもあいきりしゅうふうげきでんとべりょう揆宜,もちいしょうこごめだいさるそんこうゆるがせわたし,雖尺枉而ひろじきおわりあげこう以發輝也てるやいまさんぽうかなえ跱,きゅうゆう乂,悠悠ゆうゆう四海しかい,嬰丁はい,嗟道義之よしゆき沉塞,愍生みん顛沛,此誠聖賢せいけん拯救あき烈士れっしじゅこうかい也。吾子あご以高ろうざい,珪璋しつけんらんはく窺,とめこころ道術どうじゅつとお致,かそけ不悉ふしつ挺身ていしんいのちみき茲奧ひめ躊躇ちゅうちょむらさき闥,のどしたきゅうこううつりゆういれ尚書しょうしょ》曰:三載考績,さんこう黜陟幽明ゆうめいきゅうこうそくじゅうななねんきわむ古今ここん真偽しんぎけい時務じむ得失とくしつ。雖時けんじ一策いっさく,偶進一言いちげんしゃくかれかんせめ,慰此もと餐,かたのう輸竭ちゅう款,つき瀝胸きもはいかたにゅうじきめぐみかれはじむもと,俾吾くさひななみゆう聞焉也。盍亦綏衡綏轡,かい軌易ぬり輿こしやす肆,おもえ斯徂,しんれき揭以とうずみようえびすかのえ赫憮,播秋らん以芳ふくわれ徒之かちのかれまたもりあずか!』余聞よぶん而歎曰:『嗚呼ああゆうわかくも乎邪!夫人ふじんこころ不同ふどうじつわか其面,雖光うららすんで且艷,かん窺筐舉,まもり厥所以言八紘はっこうかたちらちしん萬事ばんじ精練せいれん也。』あるひと率爾そつじおおせ而揚衡曰:『なんことあずかなんことあずか!』」

おう曰:「おそれみかど以面したがえため戒,あなせい以悅おのれためゆう若子わかこげんわが所思しょしはたため吾子あごろん而釋むかしざいおおとりあら,朦昧はじめはつさんすめらぎおう菉,みかどうけたまわ,爰暨なつしょうぜんてん攸書。ひめおとろえどうかけ,霸者冀扶,嬴氏むごしいたげ,吞嚼はち,於是したがえ橫雲よこぐもおこりねらえいつわり如星,衺蠭どうさとしもえせいあるかざり以仇にせあるはさみよこしま以干さかえある詭道以要じょうある鬻技以自矜;せいたかしよこしま,棄直就佞,ただしじょうぶん無常むじょうけい鞅法きゅう而慝さく,斯義はい而姦なりりょもんだい而宗ほろびかんべんたて而身けいおっと何故なぜ哉?かい其心,ちょう耀其赫赫かくかくりゅうあきら,鑠鑠しゃふく。偷幸苟得,如反如仄,いんよこしまあら迷,ほしいまま睢自ごくかず鸞未調ちょう而身ざいながえがわにわやすし踐而くぬぎおり榱覆。てんおさむ其精,ちぢみ其澤,にんつるし其躬,おに芟其がくはつます高岡たかおかおわり隕幽壑,あさ含榮ほとびゆうため枯魄。以賢じん君子くんしふか遠慮えんりょかしこかれとがめもど超然ちょうぜんだか舉,やすし曳屬於塗ちゅうけがれ濁世じょくせきゅうほまれかれあにかるしゅ慢民,而忽於時務じむ哉?ぶたえきちょぎょうとめ戒,《ゆうやすし恭之きょうすけ歎,乃神聽之而道使しか也。自我じがだいかんおうてんじゅんみん政治せいじたかしあきらわか陽春ようしゅん,俯憲ひつじさるてんおおせしきいぬいぶん。播皇さわ以熙あげしげるあつし君臣くんしんくつがえたびかくもり厥真,うえたれ詢納ひろししたゆうただしすくいせめきょはなちょう民有みんゆういちぎょうあとつばら乎亹亹,なお此忠えきしか而道ゆうたかし窳,ものゆう興廢こうはいゆうごえゆうさび有光ありみつゆうかげしゅよういや於素あきげんかげそもそも孟春もうしゅん,羲和逝而もち舒系,運氣うんき匿而耀靈ひねおきしつひさし,桓、れい墜敗,英雄えいゆうくもぬの豪傑ごうけつ蓋世がいせいいえはさみことにんなつけけいしたがえよこしゃ欻披其胸。ねらえいつわりしゃ暫吐其舌也。

こんてんつなやめつづりとくじゅ西にし鄰,丕顯宏規ひろのり,縻好爵於士人しじんきょう五教ごきょう以訓ぞくゆたかきゅうとくずみみん,肅明まつ以礿さいいくすめらぎどう以輔しん。雖跱しゃいち偽者にせものひつじぶん聖人せいじんたれ戒,ぶたひとしひん君臣くんしんきょう於朝,はじむ庶欣戴於どうわかじゅうぶんまわししずかわかたたみのり濟濟せいせいえら彥,もと凱之りん也,ゆう必知,かおじん也.ただしただし庶政しょせい,冉、季之としゆき也,鷹揚おうよう鷙騰,もちこと也;そう羣俊上略じょうりゃく,含薛さんけいじきちょうひね秘策ひさくちからちょう以勤,援化えい而不遑,あにひまおさむ枯籜於榛けがれ哉!しかわれ不才ふさい在朝ざいちょうるいたく所天しょてんこころ焉是恃。らく滄海そうかいこうふか,歎篙だけこう跱,聞仲あまさんしょうかんきょうこうえきおのれかれひら仲之なかのあつものまたきん而替矇冒瞽說,ゆう攸獻,たとえ遒人ゆう於市閭,ゆうわらわ吟詠ぎんえい乎疆ほとり,庶以ぞうこうぶくさち,輸力ぶんまわし諫。わか其合也,のり以暗きょうあかりしんおうれい;如其たがえ也,自我じがつねぶん退すさもりおのれ進退しんたいにんすう矯不誣,循性樂天らくてんおっとなん恨諸?此其しょすんでにゅう不出ふしゅつゆう而若しゃ也。せまこごめつね醒,にご漁父ぎょふ必醉,溷柳季之としゆき卑等はずかしめへんえびす、叔之だか懟。ごう以得,たがえ以不しつとくかつ詘,しつむご悸。らくぜん以顧のき就後以慮輊,鬻譽以乾さわ愆以絀。なにせめしゃくなに餐之卹?何方どなたはいなに直之なおゆきいれきゅうこううつりかた其所也。方今ほうこんあさ山積さんせき,髦俊成しゅんぜい羣,なお鱗介りんかいせん巨海こみ毛羽けばあつまり乎鄧りんゆう禽逝不為ふため鮮,浮魴臻不為之ためゆきいん。且陽れいかそけ於唐かげせいおう於商盱請而洪わざわいいきくわりん禱而あまさわしげる淮南ワイナン》曰:禹為すい,以身請於盱之かわひでり,以身禱於くわりんさい聖人せいじんみん,如此其明也あきや。《りょ春秋しゅんじゅう》曰:むかしいんかつなつ桀而天下でんか大旱たいかんさんねんおさむ乃以禱於くわりん曰:「いちにん有罪ゆうざいまんぽうまんぽう有罪ゆうざいざいあまりいちにんいちにん不敏ふびん使つかい上帝じょうてい毀傷きしょうみん大命たいめい。」於是剪其かみ,攦其つめ以為犧牲ぎせいよういのりぶく上帝じょうていみん乃甚えつあめ乃大いたりくだりどめ有道ありみちけいふさが有期ゆうきわが遺訓いくん怨不ゆういのちきょうおのれわがまたなにきゅうたんはたはんはつふし,綜墳典之のりゆきりゅうろうひろあなのこげいつづりほろ以存どう,儘先軌而とうせいだい叔肸ゆうゆうよし疏氏遐逝,おさむとめあし以言,泛皓しか以容裔,欣環以恬娛,めんとがめ悔於斯世,顧茲しんやすし,懼末ぬりどろとどこお,仍求げき而增いきどお,肆中ふところ以告ちかいむかし九方考精於至貴,はたきば沈思ちんし於殊がた淮南ワイナン》曰:はたきよしおおやけいい伯樂ばくろう曰:「年長ねんちょう矣,せい有可ゆか使もとめしゃ乎?」たい曰:「りょううましゃ形容けいようすじ骨相こっそう也。あい天下てんかうましゃわかめつわかぼつわかしつわかほろび,其一わか此馬しゃぜっちり卻轍。しん之子ゆきこみなざい也,つげ以良不可ふかつげ以天下之したの天下てんかうましんゆう所與しょよども儋纏たきぎきゅうぽう堙,此其相馬そうましんしも也,請見。」きよしおおやけこれ使つかいもとめさんがつ而反,ほう曰:「やめとく矣,ざい於沙おか。」きよしおおやけ曰:「なに也?」たい曰:「めす而黃。」使つかいじん往取おす而驪。きよしおおやけえつ,召伯樂ばくろう而問曰:「はい矣,これしょ使もとめしゃ也!ぶつ牝牡ひんぼなおどるのうまたなにのう?」伯樂ばくろう喟然ふとしいき曰:「いちいたり此乎!所以ゆえんせんまんさとしん而無すうしゃ也。わか堙之しょかんしゃ天機てんき也,とく其精而忘其粗,ざい其內而忘其外,所見しょけん而不其所其所而遺其所わかかれこれしょ相者そうしゃ,乃有乎馬しゃ。」うまいたる,而果天下でんかうま也。淮南ワイナンまた曰:伯樂ばくろう寒風かんぷうはたきばかずらあおしょしょうかくこと,其知うま一也かずやぶたきゅうぽうかん其精,はたきば察其がた薛燭察寶以飛ほまれこしぜっしょ》曰:むかしえつおう踐有寶劍ほうけんまい,聞於天下でんかきゃく有能ゆうのうしょうけんしゃめい薛燭,おう召而とい:「われゆう寶劍ほうけん,請以しめせ。」乃取ごう曹、しん闕,薛燭曰:「みな也。」またじゅんかぎじんしょく曰:「かん其劍鈔,爛爛らんらん如列宿やどこれぎょうかん其光,渾渾如水にょすいはた溢於塘,かん其文,きよしきよし如冰はたしゃく,此所謂いわゆるじゅんかぎよこしま?」おう曰:「是也これや。」おう曰:「きゃくゆう直之なおゆきしゃゆう市之鄉いちのごうさん駿馬しゅんめせんひきせん乎?」薛燭曰:「不可ふかとうみやつこ此劍ときあか堇之やまやぶ而出すずわかよこしま谿涸而出どう雨師あめし掃灑,雷公らいこうげき太一たいちかんてんせいおう冶乃いんてんしらげ,悉其伎巧,いち曰純かぎ曰湛こんあか堇之やまやめあいわかよこしま谿深而不測ふそくおう冶子やめ,雖傾城けいせいりょうきん珠玉しゅぎょく竭河,どくとく此一ぶつゆう市之鄉いちのごうさん駿馬しゅんめせんひきせんまたなんそくげんあずか!」ひさごはりたくつる以流ごえ淮南ワイナン》曰:ひさごともえ瑟而鱘魚聽之。また曰:ひさごはりうたずい也,而以しゃ不可ふかため也。ひとし隸拊髀以ずみぶんしんまつ曰:按此いいはじめ君田きみた文下ほうだしすわきゃくのうさく雞鳴以濟其厄しゃ也。凡作ぼんさく雞鳴,必先拊髀,以傚雞之拊翼也。すわえきゃくせん寇以荊:淮南ワイナン》曰:すわえ將子まさこはつこうもとめわざ道之みちゆきすわえゆうため偷者,往見曰:「聞君もとめわざ道之みちゆきしん偷也,はら以技備一そつ。」はつ聞之,ころも及帶,かんむりひまただし而禮左右さゆう諫曰:「偷者,天下てんかぬすめ也,なにためれい?」くん曰:「此非左右さゆう所得しょとくあずか。」幾何きかひとしおきへいすわえはつしょう以當へいさん卻。すわえけん大夫たいふみなつき其計而悉其誠,ひとしいよいよつよ。於是そつ偷進請曰:「しんゆううすわざはらためくんぎょう。」くん曰「だく」。偷即よるかいひとし將軍しょうぐんとばり,而獻之子ゆきこはつはつ使つかいじん,曰:「そつゆうたきぎしゃとく將軍しょうぐんとばり使つかい使執事しつじ。」明日あしたまたふく往取まくらはつまた使つかい明日あしたまたふく往取かんざしはつまた使つかいひとし聞之だい駭,將軍しょうぐんあずかぐん吏謀曰:「今日きょうすわえぐんおそれわれあたま矣!」そく旋師而去。雍門援琴而挾せつ桓譚《しんろん》曰:雍門しゅう以琴はじめ嘗君曰:「先生せんせいきんまたのうれいぶん悲乎?」たい曰:「しんこれしょのうれい悲者,さき而後賤,むかしとみ而今ひん,擯壓きゅうちまた交四鄰;わかざいだかみょうふところしつだきしん,逢讒罹そし,怨結而不とくしんわか交歡こうかん而結あい怨而せいはなれとお赴絕こくあいわかよう父母ちちははたけしつま以野さわため鄰,入用いりようほりあなためこま於朝ゆうしょかりかしわか此人しゃただし聞飛がらすこれごう秋風あきかぜじょうのり傷心しょうしん矣,しん一為之援琴而長太息,ゆう淒惻而涕泣ていきゅうしゃ也。こんわか足下あしもときょそくこう廈高どうれん闥洞ぼうしたとばりらい清風せいふう;倡優ざいまえ,諂諛さむらいがわあげげきすわえまいていわらわりゅうごえ以娛みみねりしょく以淫すいおどけそく舫龍ぶねけんはたつづみつり不測ふそくふちゆうそくとう平原へいげんはせこう囿,強弩きょうどだかとり勇士ゆうしかく猛獸もうじゅうおけしゅ娛樂ごらく沈醉ちんすい忘歸:かた此之天地てんち曾不わか一指いっし,雖有ぜんきんのう足下あしもと也。」はじめ嘗君曰:「かたしか!」雍門しゅう曰:「しかしん竊為足下あしもとゆうしょつね悲。おっとかくみかど而困しんしゃくん也,れん五國而伐楚者又君也。天下てんか無事ぶじしたがえそく衡;したがえなりそくすわえおう,衡成そくしんみかどおっと以秦、すわえつよ而報じゃく薛,なおすりしょうおの而伐あさきん也,有識ゆうしき,莫不為ふため足下あしもと寒心かんしん天道てんとう常盛つねもりさむあつさら進退しんたい千秋萬歲せんしゅうばんぜいこれ宗廟そうびょう必不しょく高台たかだいすんでやめかたぶけきょくまたやめひらめ墳墓ふんぼせい荊棘けいきょく狐狸こりあな其中,ゆうまき躑躅つつじ其足而歌其上曰:『はじめ嘗君とうととうとまたなおわか乎!』」於是はじめ嘗君喟然ふとしいき涕淚ているいうけたまわまつげ而未。雍門しゅう引琴而鼓じょどうみやちょう,叩角おわり而成きょくはじめ嘗君とげ歔欷きょき而就曰:「先生せんせいきんれいぶんりつわか亡國ぼうこくひと也。」かんあい秉轡而馳めいりょ春秋しゅんじゅう》曰:かんあいさく禦。おう褒聖ぬしとくけんしん頌曰:及至かじひざまいりじょうだんおうりょう靶,かんあい輿こしたてはせ騁騖,ゆるがせ如景靡,えつこく如歷かたまりつい奔電,逐遺ふうしゅうりゅうはちきょく萬里ばんり一息ひといきなに其遼哉!人馬じんばしょうとく也。敖翱しょう乎玄闕,わか竦身於雲きよし淮南ワイナン》曰:敖遊乎北うみけい太陰たいいんにゅう乎玄闕,いたり於蒙こしきうえいち焉,ふか而玄なずらえもど頸而とんびかた豐上とよがみ而殺けんのきしかかたむかえふう而舞,顧見敖慢しかしも其臂,遯逃乎碑敖俯而視ぽうまきひさしから而食あいなし敖乃あずかこれ曰:「おもんみ敖為離黨りとうきゅうかんろくごうそとしゃ敖而やめ乎!敖幼而好ゆうなが喻解,しゅうゆきよんきょくおもんみきたかげ闚,いまそつ夫子ふうし於是,殆可あずか敖為交乎!」わかしゃ蠤然而笑曰:「嘻乎!子中こなか州民しゅうみんやすし肯而どおいたり此?此猶こう乎日がつ而戴れつぼし陰陽いんよう所行しょぎょうよん所生しょせい,此其おっとなお突奧也。わかわがみなみゆう乎罔{罒良}きたいき於沈すみさと西にしきゅう冥冥めいめいとう東貫ひがしぬきおおとり濛之こう,此其無地むじ而上てん,聽焉聞,焉則眴,此其がいなおゆう沈沈ちんちん汜,其餘いち舉而せんまんわれなおのうざい今子いまこゆうはじめいたり於此,乃語きゅうかんあにまたどお哉!しかしょ矣,われあずかあせ漫期於九垓之じょうわれ不可ふか以久。」わか舉臂而竦とげにゅうくもちゅう敖仰而視どる乃止,曰:「われ夫子ふうし也,なおくぐいあずか壤蟲,終日しゅうじつぎょう不離ふり咫尺しせき以為とおまた悲哉!」じつ不能ふのうひとしわざ於數乃靜しかもりおのれ而自やすし。」


けい耀ろくねんこう主從しゅうじゅう譙周けい使つかい請降於鄧もぐさ。其書,せいしょづくり也。明年みょうねん正月しょうがつかねかいさくらん成都せいとこうしゅ東遷とうせん洛陽らくよう擾攘倉卒そうそつしょく大臣だいじん冀從しゃおもんみせい及殿ちゅうとくなんじ南張なんばりどおり,捨妻子さいし單身たんしんずいさむらいこうぬしよりゆきせいしょうしるべよろしてき,舉動闕,乃慨然がいぜん歎息たんそく,恨知正之まさゆきばん時論じろん嘉之よしゆきたまもの爵關內候。たいはじめちゅうのぞき安陽あんようれい,遷巴西にし太守たいしゅやすしはじめはちねんみことのり曰:「せいむかしざい成都せいと,顛沛守義もりよしたがえ忠節ちゅうせつ,及見受用じゅようつきこころ幹事かんじゆう理之まさゆき績,其以せいためともえ西にし太守たいしゅ。」咸寧よんねんそつ。凡所著述ちょじゅつ詩論しろんぞくたれひゃくへん

評價ひょうか

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ひょう曰:もりほろおさむかくれしずかやく當世とうせい庶幾しょきえびすあきら槩。しゅう羣佔てんゆうちょうもり沈默ちんもくまきひそかしょせいじゅん也。もとはじめひろしわたる多聞たもんいんだませい於左,雖不以德ぎょうためたたえしんみないち學士がくし。譙周ふちどおりため碩儒せきじゅゆうただしあげぶんまわし,郤正文辭ぶんじ燦爛さんらんゆうちょう、蔡之ふう其行どめ君子くんしゆう焉。二子處晉事少,ざいしょくごとちょ於篇。ちょう璠以ため譙周しょひねくだこれさくぶたもとりょうりゅうぜん懦弱だじゃくこころ無害むがいもどとくぎょう也。如遇忿肆これにん,雖無さんしか矜殉ひなはじあるはついか妄誅,以立いちかい其斯須之しゃ,此亦えびすめつわざわいうん

ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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