他者の身体を身近に感じること
竹田 対面する、というのは確かにキーですよね。アメリカでは、コロナ禍に多くの人が味わった辛さや痛み、ある種のトラウマが言語化されずに忘れられつつあることに、危機感を訴える声が上がっています。他人と接することのリアリティが薄れてしまっている。
例えば、アメリカのライブ現場では観客がアーティストにモノを投げつけて怪我を負わせてしまったり、ファン同士で喧嘩になってライブ中に殴り合いになったり、人混みに慣れていない若者たちがバタバタと倒れてしまったり、とにかくライブでのマナーや常識がコロナですっかりなくなってしまったようだ、というのが問題になっています。
日本では反対に、ライブ会場での動画撮影やジャンプなど、自分にとっては迷惑でなくても、「マナー違反行為」をあげつらう書き込みをたくさんしたり、「正しさ」に対して過剰反応しているような風潮が強くなっているように感じます。
日本でいう「迷惑をかける」は英語だと「bother」ですが、「〇〇が迷惑だ」に当たる言葉は多分ないんです。フィジカルに共存するというのが、すごく下手になっている気がします。「より良くあろう」と真面目に頑張る人が空回りして、他者を批判する側に立ってしまっていませんかね。
永井 20年前に刊行された綿矢りささんの『蹴りたい背中』には、登場人物たちがお互いの体や持ち物に触る場面がたくさん出てきます。気になる子の背中を「蹴りたい」という感覚が、けれども今読むとなんだか変な感じがするんです。
もし今この小説が書かれるなら、「蹴りたい」ではなく「蹴れない」背中になるんじゃないかと思って。気になるから身体に触れたいとか、そう思うことができないんじゃないかと。身体が現にそこにあることへの嫌悪感が、まず先に立つ気がします。
でも、「なぜ他人の行為を不快に感じてしまったのか」を語ることは、哲学対話のテーマにもなり得る重要なことです。参加者から「私語禁止のサウナで喋っている人を見ると、自分には関係ないはずなのになぜイライラしてしまうのか」という問いが実際に出たこともあります。