触れるでも、
素通りするでもなく、「くぐり
抜け」てみる——
個の
強さが
要請される
今、
他者とかかわり
生きるとはどういうことかを
考える
『「くぐり抜け」の哲学』。ジェンダー/
男性の
性の
歴史を
研究する、
社会学者の
澁谷知美さんに、
本書の
書評をご
寄稿いただきました。
男性たちによる「男性とはなにか」
男性たちが「男性とはなにか」を反省的かつ創造的に探究する、ここ数年の思想的潮流。そこで語られる男性たちの言葉を聴くのが好きだ。女性として生きる評者にとって男性は謎多き存在である。
男性たちが、誠実に、とつとつと「男性とはなにか」を語るたび、「へえ、あなたはそんなふうに思ってたんだね」と霧が晴れたような気持ちになり、もっと話を聴こうと前のめりになる。語らない男性がゴマンといるなか、信頼できる語り手に出会えたときの喜びは格別だ。
気鋭の哲学者・稲垣諭による『「くぐり抜け」の哲学』は、そうした喜びを感じられる稀有な本の一つで、前のめりになって読んだ。取り上げるテーマは男性性のほか、くらげの表象論、民主主義、格差社会、ゲームとプレイ……と多岐にわたるが、そのように背景がしっかり描き込まれているぶん、現代日本における「男性とはなにか」が鮮明に浮かび上がってくる。
くぐり抜け=かかわりのなかでを作り変えていくこと
タイトルにある「くぐり抜け」とは、ドイツの現象学者・フッサールに由来し、自身の経験の枠組みを解体しつつ、他者に近づくことを意味する。それは、他者の周辺について知るだけではなく、他者とのかかわりのなかで自分自身を作り変えていくことでもある。
フッサールはクラゲを題材に思考した。表紙には涼しげなクラゲが描かれている。クラゲのようにたゆたいながら話は進む。
1章は「くらげの現象学」である(著者は表象としてのそれを「くらげ」、生物としてのそれを「クラゲ」と書き分けているようだ)。
いくつかの文学作品を渉猟したのち、「固定し、硬化したものをほぐすリラックス効果」、「コントロール可能な美と無機的な官能」などの、やわらかでエロティックなものの象徴としてくらげが利用されていることが突きとめられる。現実のクラゲは猛毒を持っていたり、大量発生して火力発電所を機能不全にしたりしているにもかかわらず。ここに表象と実態のズレがある。
やがて問いは著者自身に向かう。「どうして私はクラゲという生物を対象に選んだのか」。その答えの一つは、くらげと女性のイメージが重ねられており、自身の異性愛的な欲望が働いたから。ヘテロ男性としての自身にひそむ「観察する側の欲望」への自覚が、そこにはある。
ゲーム/プレイ/暴力
2章で話題はゲームとプレイに移る。ゲームには、明確なフィールドと規則があり、開始と終わり、勝敗がある。それは一定の安心感を私たちにもたらす。一方、プレイには規則があるとはかぎらない。その不安定さに、私たちは耐えることができない。
プレイへの耐えがたさが、社会をゲーム化する。「無理ゲー」、「親ガチャ」などのゲーム関連用語で、若者が社会や人間関係を表していることを思いだそう。
では、私たちはプレイに与するべきなのかというと、それも違う。プレイには多分に暴力が含まれているからだ。
反面教師として持ち出されるのは「無頼派」の小説家・坂口安吾である。安吾は、戦争というプレイがはらむ暴力に「美」を見出し、賞賛した。あるいは、無辜の少女が、森に住むお婆さんを訪ね、お婆さんに化けた狼に食われてしまうという、モラルもなければ救いもないペロー版赤頭巾の物語を「人間のふるさと」と呼び、美化した。
このようにモラルと救いを欠いた物語を「人間のふるさと」と得心できる者とはいったい誰なのだろう、と著者は問う。所詮は「自然から分化した人間」(主に男性が占めると注釈がある)にすぎないのではないか。高所から、生と死のプレイが跋扈する残酷な世界を見下ろしているだけではないのか、と疑う。
本当に安吾は無頼派だったのか?
この疑いがさらに深まるのが3章「「男性性」をくぐり抜ける」だ。モラルも救いもない出来事はこの世界で起きてしまうのであり、それはそういうものとして受け止めるしかない。そんな安吾的な実感をかつては著者も持っていた。が、最近は揺らぎはじめているという。そして、「人間のふるさと」論そのものに、男性性と孤独の問題が深く浸透しているのではないかと訝しむ。
一三人きょうだいの一二番目として冷遇された安吾の成育歴から、話は妻・三千代との関係におよぶ。安吾が三千代を罵ることは日常茶飯事。胃薬やライターを決まった場所にいつも置いておくように等々、細かい言いつけを原稿用紙にびっしり記し、「イライラさせないやうに」と命じるさまは、典型的なDV夫のそれである。そして、薬物の過剰摂取で見境がなくなり、二階から飛び降りようとする安吾を止めて、命を救ってやるのも三千代と女中の役割だった。
哲学者はいう。「「無頼」というのは、安吾の周囲で彼を支えていた女性たちの働きを無視し、切り捨てることによってでしか成立しない。むしろそれをなかったことにできるカラクリこそが、雄々しい理性による「男性問題」のひとつである」と。
「無頼派」を気取りながら、骨の髄まで女に頼り切っている、という指摘。ジェンダー研究者の平山亮は、女性に依存しながら、その依存をなかったことにし、自分は「自立」していると誤認する男性の姿をとらえた。稲垣の指摘は、これと軌を一にする。
では、どうすればよいのか。提案されるのは、誰かをコントロールし、搾取するリスクをいつも警戒すること。そして、自分で、あるいは他者と対話しつつ粘り強く、自身の傷を回復する場を作り出していくことである。あっけないほど単純で、だが容易ではなく、とはいえ、これ以外にない策である。
そのほか、本書には、「からかい」に満ちた社会に向けた「マイクロ・カインドネス」という処方箋など、この社会を少しでもマシにするための策が示されている。その一つひとつがキレイごとでなく、真に迫ったものと感じられるのは、著者自身が身を挺して男性性の「くぐり抜け」を本書で実践しているからだ。
対象に迫りつつ、自分自身を作り変えていくのがくぐり抜けだった。その軌跡を記した本書は、哲学書であると同時に、自己の変容を怖れない稲垣諭という哲学者のドキュメンタリーでもある。だからこそ信頼できるし、前のめりで読んでしまう。
(講談社刊・税込定価二二〇〇円)
『「くぐり抜け」の哲学』稲垣 諭(講談社刊)
触れるでも、素通りするでもなく、「くぐり抜け」てみる。
共感とも感情移入とも違う―それは、「他者」を理解するための新しい方法論。現象学から文学、社会学、生物学、人類学、リハビリテーション医療、舞踏、ゲーム・プレイ、男性性―現代社会の諸相に向き合い続けることで浮かび上がる「弱さ」の正体。個の強さが要請される今、他者とかかわり生き抜くための哲学的逍遥。