「プレイ」の快感と暴力、「ゲーム」の呪縛による疲弊……。現代社会の「行き詰まり」感はいったい何に起因しているのか?
「弱さ」をキーワードとして他者をくぐり抜ける試みを論じた、哲学者・稲垣諭さんの『「くぐり抜け」の哲学』。『バクちゃん』『花四段といっしょ』のマンガ家、増村十七さんに、本書で紹介されている「プレイ」と「ゲーム」の概念から分析した現代社会のありようについて、自身のマンガ制作の経験を重ねて綴っていただきました。
「プレイ」の魅力
まっさらな紙に、筆記具を走らせると、絵のようなものが生まれる。それを四角い枠で覆い、文字を書き入れる。単なる頭の中の想像が、マンガと呼べるものとなり、途端に物語が目の前に現れる。小学4年生のころ、「嘘だろ、マンガが出来ちまったよ」と、異様な興奮で、意味もなくあたりを走り回ったことを覚えている。
本書、『「くぐり抜け」の哲学』は、他者の体験への理解を通じて、その対象や、自分自身を知っていくための、実践的な哲学書だ。
メインの分析対象は、「クラゲ」。本書では、人類とは進化の経路上相当かけ離れた、この生物について論じられる。また、そうして「クラゲ」を語ることにより、この生物に幻想の「自然」を見出し、ある種のあこがれを抱いてしまう、文明を持つ人間、ひいてはその文明を構築してきた「男性性」が、分析のターゲットとして浮かび上がる。
「クラゲ」と「男性性」。これらの実態が見えづらい対象に対し、知識と、観察者の知覚の取り外しを用いることで、その生の体験の理解が試みられる。この他者理解の方法が、本書で「くぐり抜け」と呼ばれるものだ。
というのがザッとした本の概要であるが、この本で私が特に興味を持ったのは、第2章で主に論じられる「プレイとゲーム」という考えだ。これは人類学者のD・グレーバーにより提唱された概念で、本の後半部では、この「プレイ」と「ゲーム」の営みが、どのように人を惹きつけるか、そしてそれにより社会がいまどういった状況にあるかが論じられる。
グレーバーによると、「プレイ」とは、必ずしも規則や目的を持たず、例えば何となく髪をいじる手遊びなどの無為な営みを指す。これに対し「ゲーム」は、規則があり、開始と終りがあり、多くの場合目的を持っており、我々人間の文明的な営みを指す。
「プレイ」は邪気がなく、しかし/ゆえに残酷だ。本書では、シャチが子アシカをボールのように空中にはね飛ばす映像や、チンパンジーが集団内で、おそらく理由なく、子供を襲撃した報告などが例に出されている。
もちろん、「プレイ」は暴力的なだけのものではない。決まりも作らず駆けっこをするだけで人は楽しい。緩衝材のプチプチを潰すことも、何の価値もないゆえの心地よさを持つ、手慰みの「プレイ」だ。
根源的な美への追求にも、「プレイ」は介在している。合目的的な「ゲーム」の営みでは得られない、衝動による身体性の開放やその表現は、人の心を強く惹きつける。
冒頭の、私のマンガ制作の原初体験も、「プレイ」の営みだったと思う。自分の手から、現実に存在すると思えるモノが生成されたこと、それ自体は、自分の身体と広い世界とが繋がった、みずみずしい経験だった。今も、その感覚を求めているようにも思う。
にもかかわらず、人は、私は、「プレイ」ではなく、「ゲーム」に没頭する。
「ゲーム」化された現代社会
「ゲーム」にはルールがあり、目的があり、そのため参加者の戦略も明確で、不慮の出来事も特定の規則に当てはめた解釈が可能になる。
また、仕事や学習を「ゲーム」化することで(「ゲーミフィケーション」)、高い意欲を保ちつつ、訓練を反復することが可能だ。各分野で、高いレベルのパフォーマンスを発揮する若い世代の人々が続々と出現しているのは、科学技術の発達とともに、競技も仕事も、その"攻略法"が確立され、浸透しているからだと思える。
遊びも、仕事も、恋愛も、社会の全ての要素の「ゲーム」要素が強くなっている。元は単なるコミュニケーションツールでも、互いの関心が可視化され、コミュニティ内での承認の指標になることはもちろん、それを現実にお金に引き換える仕組みすら珍しくなくなっている。
さらに、支配的な「ゲーム」は人々への参加の強制が可能で、資本主義社会では特に、お金の「ゲーム」から逃れられる人間はいない。
「プレイ」から始まったと思える、私のマンガ制作も、商業作家として活動を始めてすぐ、「ゲーム」化の必要に迫られた。
マンガ制作の方法を「ゲーム」化して効率化を図ることはもちろん、作品発表後も、作品周知のための「ゲーム」に参入し、"攻略"のためのアクションが求められる。
継続した活動をするために、本の売り上げを意識して、細かく書店の売り上げランキングをチェックし、乱立するSNSの全てに、宣伝イラストや文面を作成し、効果的な時間帯に、検索しやすいハッシュタグをつけて投稿する。プロモーションビデオを作り、コラボレーションやイベントの企画を出し、必要ならば自ら有料の広告を打つ。
現在は、こうした売り上げアップの「ゲーム」が、ほとんどのマンガ家の職務に含まれていると言っていい。面白い訳ではないが、仕方ない。生き残りをかけた、参加必須のイカゲームだ。
どの職業、どの属性の人も、こうして膨張し続ける社会の「ゲーム」性に圧迫され、逃げ場をなくし、疲弊している。
「プレイ」と「ゲーム」の狭間で
それゆえに、「プレイ」への憧憬も増していることを感じる。
「ゲーム」に夢中になりながら、「ゲーム」の競争に乗り切れず、疎外された感覚が、「プレイ」を求める心情に流れている。
これが昨今の世界の不安定な情勢や、ネット空間を中心とした、弱者叩きの心性にも繋がっていると思える。
奔放な身体操作は楽しい。今ある秩序や構築物を破壊することには即効的な快感がある。仕事もプライベートも「ゲーム」に囲まれている現代人が、構築された枠組みからの開放を求めるのは自然なことだ。
とはいえ人は、偶然と暴力が自由に飛び交う「プレイ」だけの世界で、無邪気に生きていくことはできない。
「プレイ」の快感が呼び起こされる、人がこぞって参加する集団的な暴力行為は、やはり誰かに「ゲーム」的に組織され、特定の意図で始められている。戦争や侵略にせよ、ネットリンチにせよ、組織し、号令する側は、まるでそれが参加者の「自然」な感情の表現であるかのように言って聞かせ、企図や目的を隠蔽し、自分たちには危害が及ばないところから一方的に「プレイ」的な暴力性を発露させようとする。つまりそれはただの「ゲーム」だ。
このような、「プレイ」による暴力が溢れた「自然」の世界に堕ちぬくこともできず、「ゲーム」の呪縛からも脱することができない、現代の人々の状況を、本書は、人の持つ「弱さ」という観点から分析していく。
本書で書かれていることは、今世界で起こっている問題への万能薬ではないかもしれないが、実践的な立ち向かい方の一つを示していることは間違いない。
稲垣諭『「くぐり抜け」の哲学』
触れるでも、素通りするでもなく、「くぐり抜け」てみる。共感とも感情移入とも違う――それは、「他者」を理解するための新しい方法論。現象学から文学、社会学、生物学、人類学、リハビリテーション医療、舞踏、ゲーム・プレイ、男性性――。現代社会の諸相に向き合い続けることで浮かび上がる「弱さ」の正体。個の強さが要請される今、他者とかかわり生き抜くための哲学的逍遥。