わたしの欲望や違和感は、ほかの誰かと分かち合うことはできるのだろうか――。
アーティストの百瀬文さんの初エッセイ集『なめらかな人』を刊行します。
注目作家による初エッセイ集の「本の名刺」(群像2024年6月号掲載)をお届けします。
成熟を拒んでみたい
美術家が本を出すとなると、じゃあそれは作品論なのですか、と聞かれることが多いと思う。この本は何なのかと言うと、わたしが人生で初めて出版することになったエッセイ集なのだが、普段作っている作品のことについてはほとんど書いていない。作品をつくるまなざしと、日々を生きるまなざしは、いつだってわたしの体の上で重なり合っている。あるいは、そんな無防備な状態で、見知らぬ他者と常に関係しあいながらここに立っていること、その不思議さについて書いているのだと思う。
成熟を拒んでみたい、という気持ちがあった。未熟な子どもであることを、自分の理想どおりに感情はうまく動いてくれないことを、あるいはその後ろめたさ自体を肯定してみたかった。
この『なめらかな人』というエッセイ集の第一回では、同名のタイトルでVIO脱毛の話を書いている。わたしは別に誰かに欲望のまなざしで見られたくて陰毛をツルツルに脱毛したわけではなかった。第二次性徴を迎える前の子どもの体、まだ未分化なものとしての子どもの体を、股間のところにだけ呼び戻したかったのだ。日々たるんでいく、成熟した女のかたちをした自分の体と、子どもの頃の体のキメラとして、自分の体を作り直したかった。わたしは何らかのかたちで、すべてのものが成熟に向かっていかなければいけないということ、その不可逆的ななにか自体に抗いたかったのだろうと思う。
思い出せば、自分の体はいつもプレイグラウンドとしてそこにあった。それはだだっ広い広場のような場所で、得体の知れない他者がおずおずと、あるいは無遠慮に足を踏み入れようとするところでもあった。わたしはそれを上からぼんやり眺めていた。同時に子どもの姿で彼らと一緒に遊んでもいた。何となく好奇心で誰かの肌に触れてみたり、ただ行き場のない秘密をきいたこともあった。彼らとは特に何か待ち合わせをしたわけでもない。未来の約束をしたわけでもない。自分のことが、各駅停車しか停まらない駅みたいに思えた。ぽつんと、何かそこにふと理由を見つけたくなった人だけが、一人で降りるのだ。人と人の関係は、何か最初から名前があってそこにあるわけではないんだな、と思った。