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人間はなぜ「仮面」をかぶって生きてしまうのか…日本最高の哲学者が見つけた「意外すぎる答え」(藤田正勝) | 現代新書 | 講談社(1/2)
2024.08.17

人間にんげんはなぜ「仮面かめん」をかぶってきてしまうのか…日本にっぽん最高さいこう哲学てつがくしゃつけた「意外いがいすぎるこたえ」

明治維新めいじいしん以降いこう日本にっぽん哲学てつがくしゃたちはなやつづけてきた。「言葉ことば」や「身体しんたい」、「自然しぜん」、「社会しゃかい国家こっか」とはなにかをかんがつづけてきた。そんな先人せんじんたちの知的ちてき格闘かくとう延長線えんちょうせんじょうに、今日きょうわたしたちはっている。日本にっぽん哲学てつがく入門にゅうもんでは、日本人にっぽんじんなにかんがえてきたのか、その本質ほんしつ紹介しょうかいしている。
ほん記事きじ藤田ふじた正勝まさかつ日本にっぽん哲学てつがく入門にゅうもんから抜粋ばっすい編集へんしゅうしたものです。

仮面かめんをかぶった人間にんげんたち

わたしたちが「他者たしゃ」に出会であうとき、ある役割やくわりになった、いかえれば「仮面かめん」をかぶった「他者たしゃ」に出会であっている。「他者たしゃ」もまた「仮面かめん」をかぶった「わたし」に出会であっている。そこで「わたし」は、あるいは「他者たしゃ」は、ほんとうに「他者たしゃ」に出会であっているのであろうか。ただその表面ひょうめんているだけではないのだろうか。

本書ほんしょ日本にっぽん哲学てつがく入門にゅうもん』では、わたしたちが「他者たしゃ」をまえにして「他者たしゃ」とったとき、そこですでにえられないかべつくりだされているのではないかとった。

他者たしゃ」とったとき、わたしたちはすでにきる主体しゅたいとしての他者たしゃからその内部ないぶせいうばってしまっているのではないか。ただがいからられた「他者たしゃ」をそこにているだけではないのか。「他者たしゃ」とうことによって、わたしたちははじめからその内部ないぶせいへのみちざしてしまっているのではないのか。「他者たしゃ」の問題もんだいは、このような困難こんなん問題もんだいをそのなかにはらんでいる。

もちろん、わたしたちは──たとえばフッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)がしたように──類推るいすいとおして、あるいは感情かんじょう移入いにゅうとおして、そこに内部ないぶせいをもった「他者たしゃ」を想定そうていし、そこにせまることができるとうことができるかもしれない。しかしそこでもなお、わたしたちは自己じこ感情かんじょうおもいをとおしてとらえられた「他者たしゃ」、つまり自己じこかげているだけではないのか。わば擬似ぎじ自己じことでもうべきものをてただけではないのか──これらのいがわたしたちにせまってくる。