明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
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本記事は
藤田正勝『日本哲学入門』から
抜粋、
編集したものです。
仮面をかぶった人間たち
私たちが「他者」に出会うとき、ある役割を担った、言いかえれば「仮面」をかぶった「他者」に出会っている。「他者」もまた「仮面」をかぶった「私」に出会っている。そこで「私」は、あるいは「他者」は、ほんとうに「他者」に出会っているのであろうか。ただその表面を見ているだけではないのだろうか。
本書『日本哲学入門』では、私たちが「他者」を前にして「他者」と言ったとき、そこですでに乗り越えられない壁が作りだされているのではないかと言った。
「他者」と言ったとき、私たちはすでに生きる主体としての他者からその内部性を奪い取ってしまっているのではないか。ただ外から見られた「他者」をそこに見ているだけではないのか。「他者」と言うことによって、私たちははじめからその内部性への道を閉ざしてしまっているのではないのか。「他者」の問題は、このような困難な問題をそのなかにはらんでいる。
もちろん、私たちは──たとえばフッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)がしたように──類推を通して、あるいは感情移入を通して、そこに内部性をもった「他者」を想定し、そこに迫ることができると言うことができるかもしれない。しかしそこでもなお、私たちは自己の感情や思いを通してとらえられた「他者」、つまり自己の影を見ているだけではないのか。言わば擬似自己とでも言うべきものを立てただけではないのか──これらの問いが私たちに迫ってくる。