PROFILE
原田 マハ1962
年 東京 都 生 まれ。関西学院大学 文学部 日本 文学 科 、早稲田大学 第 二 文学部 美術 史 科 卒業 。伊藤忠商事 株式会社 、森 ビル森 美術館 設立 準備 室 、ニューヨーク近代 美術館 勤務 を経 て、2002 年 フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005 年 『カフーを待 ちわびて』で第 1回 日本 ラブストーリー大賞 を受賞 し、2006 年 作家 デビュー。2012年 『楽園 のカンヴァス』で第 25回 山本 周五郎 賞 を受賞 。2017年 『リーチ先生 』で第 36回 新田 次郎 文学 賞 を受賞 。ほかの著作 に『本日 は、お 日柄 もよく』『キネマの神様 』『たゆたえども 沈 まず』『常設 展示 室 』『ロマンシエ』など、アートを 題材 にした小説 等 を多数 発表 。画家 の足跡 を辿 った『ゴッホのあしあと』や、アートと美食 に巡 り会 う旅 を綴 った『フーテンのマハ』など、新書 やエッセイも執筆 。
- 1962
東京 都 小平 市 に生 まれる。
3歳 のころから絵 を描 き始 め、幼稚園 児 の頃 は兄 (原田 宗 典 )と競 い合 うように児童 書 を読 みあさる。お気 に入 りの本 は「ドリトル先生 」「シートン動物 記 」。好 きなアーティストはパブロ・ピカソ(自分 のほうが絵 の腕前 は上 だ、などと思 っていた)。
- 1972
夏休 み、岡山 に単身 赴任 中 の父 に呼 び寄 せられ、家族 で開通 したばかりの山陽新幹線 に乗 って初 めて岡山 訪問 。父 に連 れられて初 めて倉敷 にある大原 美術館 へ行 く。数々 の名画 に見 とれつつ館内 を進 んでいくと、見 たこともないようなキテレツな絵 が。「何 これ?ちょっと下手 くそすぎない?あたしのほうがうまいよ」と本気 で思 う。パブロ・ピカソという名 のその画家 は、それ以降 、我 がライバルとなり、のちに人生 を導 いてくれる導師 となる。- 1974
小学 6年生 のとき、百科 事典 や美術 書 などのセールスマンをやっていた父 の仕事 の転勤 によって、岡山 へ。岡山 市 下伊福 に住 む。岡山 市立 三 門 小学校 、市立 石井 中学校 を経 て、私立 山陽 女子 高校 入学 。フォークバンドを結成 し、自作 イラストつき恋愛 小説 、少女 マンガを書 くなど、かなり進歩 的 な10代を過 ごす。- 1981
関西学院大学 文学部 入学 。当初 、ドイツ文学 科 に所属 したが、あまりにもドイツ語 ができなくて日本 文学 科 に転 科 。おかげで、明治 ―現代 の代表 的 な小説 をほぼ読破 。
就職 活動 の足 しになればと、4年生 のときにグラフィックデザインの専門 学校 に通 う。
のちに、阪神 大震災 で崩壊 する運命 となる西宮 のアパートで、友人 と共同 生活 を送 る。このころ、その友人 と共著 で、少女 マンガ「ロマンチック・フランソワ」を「りぼんまんが大賞 」に投稿 、最終 選考 に残 るもあえなく選外 に。
実家 は大学 1年 のときに、岡山 から東京 へ移住 。- 1983
- 7
月 、21歳 の誕生 日 を記念 すべく、京都 市 美術館 で開催 中 だったピカソ展 に行 き、完膚 なきまでにやられる。「こいつには負 けられない…」となぜかライバル視 していたピカソが、とんでもない天才 だったことにようやく気 づき、「どこまでもついていきます!」と心 に誓 う。
秋 、友人 に「この画家 知 ってる?」と、見 たことのない画集 を渡 され、「何 これ?ちょっと下手 くそすぎない?いや、これは今度 こそ下手 でしょ。今 流行 りのヘタウマとかじゃなくて、本格 的 に正真正銘 のヘタヘタでしょ」と失礼 きわまりない思 いを抱 いたその画家 の名 はアンリ・ルソーであった。
あまりのヘタっぷりにむしろ引 き込 まれてしまい、ルソーの画集 や関連 書籍 を図書館 で読 み漁 る。おりしも発売 されたばかりのルソー研究 書 「アンリ・ルソー楽園 の謎 」(岡谷 公 二 著 )を大学 の生協 でみつけ、読 み耽 る。ルソーの絵 の面白 さと人間 性 にすっかり魅了 され、「いつかルソーの物語 を描 いてみたい…」と思 いを募 らせる。 - 1985
関西学院大学 卒業 。卒論 は「谷崎 潤一郎 :痴 人 の愛 」。就職 先 がみつからなかったので、そのまま西宮 に居残 り、バイトをしながら専門 学校 を卒業 。- 1986
東京 でコピーライターをやっていた兄 に呼 び戻 され、東京 へ。
広告 プロダクション二 か所 で勤務 するも、あまりの激務 に音 を上 げ、退職 。
もともと好 きだった現代 アートの世界 に目覚 め、独学 で現代 アートについて学 ぶ。この頃 、資金 も才能 もないのに「ニューヨークへ留学 >キャリアアップ」の妄想 にかられる。- 1987
兄 が小説 家 デビュー。子供 の頃 からの夢 をかなえた兄 の根性 と才能 に仰天 。- 1988
原宿 でたまたま通 りすがりにオープンの準備 をしていた「マリムラ美術館 」(現在 は閉館 )に行 き当 たり、飛 びこみで「雇 ってください」と訴 える。その度胸 を買 われて、まんまと就職 。美術 展 の展示 、コレクションの管理 、広報 、受付 と幅広 い活動 をし、美術館 の実務 を経験 。- 1990
- 5月に
結婚 。マリムラ美術館 を退職 し、知人 から誘 われていた民間 のアートマネジメント学校 のディレクターとなる。が、肩書 に憧 れて引 き受 けたものの、ボランティア活動 に近 く給与 もない。現状 打破 をもくろみ、その学校 にたまたま視察 にきた伊藤忠商事 新規 事業 室 の人物 を頼 って、ほぼ飛 び込 みで「企業 とアートの新 しい関係 」についてプレゼンさせてもらう。またもや度胸 を買 われて、めでたく伊藤忠商事 に中途 入社 が決 まる。 - 1991
伊藤忠商事 株式会社 新規 事業 開発 室 で仕事 を始 める。全国 の地方自治体 や企業 の「アート、文化 に関 するコンサルティング」が主 な業務 。新 しく美術館 を開設 する際 のコンサルティングや、コレクションの売買 、展覧 会 のプロデュースなどを手掛 ける。営業 で、全国 の都道府県 を飛 び回 る。世界中 のコレクターやギャラリスト、美術館 との交渉 も、語学 力 はなくとも度胸 だけでなんとか奇跡 的 にやり抜 く。- 1993
当時 顧客 の一人 だった森 ビルの森 稔 社長 より「六本木 に巨大 な都市 開発 をするのだが、そこに美術館 を造 ろうと思 う。相談 にのってくれますか?」と頼 まれ、チーフコンサルタントとして「森 美術館 」の構想 策定 に乗 り出 す。- 1994
- 「
美術 コンサルタントもいいけれど、いつかキュレーターになりたい…」と思 い始 め、早稲田大学 第 二 文学部 の美術 史 科 を学士 受験 (三 年 から編入 可能 )。当時 、新宿 区 西早稲田 に住 んでいたため、早稲田 の二 文 (夜間 と土曜日 のみ授業 )ならば会社 勤 めしながら通 えると判断 した。昼夜 を分 かたず猛 勉強 し(人生 最高 の勉強 量 !)40倍 の倍率 をくぐり抜 け、合格 。専攻 は20世紀 美術 、卒論 は「ル・コルビュジエの絵画 論 」。学芸 員 の資格 を取得 。 - 1995
森 社長 のお誘 いを受 け、伊藤忠商事 を退職 、森 ビル株式会社 に入社 。本格 始動 した森 美術館 の設立 準備 室 に所属 。
以後 、世界中 の美術館 を森 社長 夫妻 と視察 。またもや度胸 だけで世界中 のアートセレブと会 いまくる。以後 、六本木 ヒルズのブランディングや、美術館 設立 にまつわるほぼすべての業務 に関 わる。- 1996
早稲田大学 卒業 。- 1999
突如 森 社長 に呼 び出 され、「あなたの英語 は下町 英語 (ブロークンイングリッシュのこと)だね」と指摘 される。度胸 だけで通 してきた英語 を看破 され、返 す言葉 なし。ところが、「通訳 学校 に行 きなさい」と社長 に寛大 にも指示 され、通訳 学校 に入学 。またもや仕事 をしながら人生 最大 量 の英語 の猛 勉強 をし、ビジネス通訳 初級 を獲得 。以後 、ちょっと自信 を持 って社長 の通訳 を務 められるようになる。- 2000
- ニューヨーク
近代 美術館 (MoMA)と森 美術館 が提携 関係 を結 ぶ。人的 交流 の一環 で、MoMAに派遣 され、6か月 間 のニューヨーク駐在 。MoMAインターナショナルプログラムに所属 し、美術館 のしくみを学 び、企画 展 、国際 展 についてリサーチを行 う。 - 2002
森 美術館 の館長 が決定 されたのをきっかけに、「人生 でほんとうにやりたいことは何 か?」と考 える。おりしも40歳 になる年 だったので、「女 の人生 は40代 がプライム。いちばんやりたいことを40代 でなしとげる」と考 え、またもや度胸 で退職 。実 はなんの展望 もなかったが、直観 だけで独立 。
同 じころ立 ちあげられた都市 の再生 プロジェクト「Rプロジェクト」に参加 。のちに朋友 となる建築 家 やデザイナーなど、キラ星 のごときクリエイターたちと出会 う。
新 しい都市 論 としての本 、「R the Transformer」を建築 家 ・馬場 正 尊 氏 と共著 、出版 。
都市 開発 の会社 など、フリーランスで文化 コンサルティング、ブランディングを手掛 ける。- 2003
- Rプロジェクトの
取材 がきっかけで、編集 者 ・菅 付 雅信 氏 に出会 う。当時 、雑誌 「インビテーション」の編集 長 だった菅 付 氏 は、「原田 さん、ニューヨークに住 んでたんだよね?むこうにいっぱいクリエイターの知 り合 いいるよね?今度 ニューヨーク特集 するんだけど、取材 行 ってみる?」と、こっちはライターとしてなんの経歴 もないのに、突然 オファーしてくる。やはり度胸 で波 に乗 る。イラク戦争 開戦 3日 後 、がらがらのアメリカン航空 でニューヨークに向 かい、20人 以上 のクリエイターの取材 をこなし、30ページ近 くの特集 記事 を執筆 。これが、カルチャーライターとして仕事 を始 めるきっかけとなる。 デザインイベント「東京 デザイナーズブロック」に関 わった縁 で、デザイナー・佐藤 直樹 氏 らとともに、「東京 の東側 にチェルシーのようなクリエイターエリアを作 ろう!」と、突然 、「セントラルイースト東京 (CET)」というアートイベントを始 める。100人 近 くのアーティストが、日本橋 、馬喰 町 、浅草橋 近辺 の空 きビルをジャックするイベントをやり遂 げる。 - 2004
- 「CET04 VISION QUEST」という
展覧 会 を仕掛 け、動員 は一気 に2万 人 に膨 れ上 がる。
たまたま知 り合 いになった角川書店 の編集 者 に「共同 執筆 で働 く女性 のインタビュー集 を作 らないか」と持 ちかけられる。その取材 で、沖縄 の女性 社長 をインタビューすることになり、沖縄 へ出向 く。なんとなく文章 を書 きなれてきて、「ひょっとしてそろそろ小説 書 いてもいいかもな…」と漠然 と考 えていた時期 だった。那覇 で取材 をしたのち、ぶらぶらとやんばるへ行 き、そこで泊 まった民宿 のおかみさんから「伊是名 という島 がいいところらしいよ」と聞 き、行 ってみることにする。このときには、人生 を変 える運命 がその島 に待 ち受 けているとは思 いもよらず。
伊是名 島 に渡 り、浜辺 で遊 ぶ男性 とラブラドール犬 に出会 う。もちまえの好奇心 から、「何 て名前 のワンちゃんですか」と聞 いたところが、「カフーっていうんです」と。「どう言 う意味 ですか?」「沖縄 の言葉 で、『幸 せ』という意味 です」・・・・・・
その瞬間 、何 かが、どーんと下 りてきた。沖縄 の離島 の浜辺 で、幸 せという名 の犬 に出会 ってしまった・・・・・。
帰 りのレンタカーの中 で、すっかり小説 のプロットができあがっていた。
もし、あの犬 の名前 が「シーサー」だったら、小説 を書 くことはなかっただろう。飼 い主 の名 嘉 民雄 さんの名付 けセンスに感謝 。 - 2005
- 1
月 1日 、この記念 すべき日 を忘 れまい、と元旦 から小説 を書 き始 める。
6月 、共著 「ソウルジョブ」刊行 。小説 をこつこつと書 きすすめるが、角川書店 の友人 編集 者 に読 んでもらおう、というくらいの感 じだった。
7月 末 、いつも旅 をしている友人 と出 かけた北海道 真狩 村 のホテルのロビーで、いつもは読 まない日経新聞 を何気 なく広 げる。そこに「今 、ラブストーリーがブーム」の文字 が。「日本 ラブストーリー大賞 設立 」「大賞 受賞 作 は映画 化 」・・・・これだあ!と、思 わずホテルの新聞 の1ページをべりべりと破 って持 ち帰 る。
9月13日 、「カフーを待 ちわびて」完成 。しめ切 り2日 前 。日本橋 の郵便 局 から投稿 。
同 じころ、11年 前 から飼 っていたゴールデンリトリーバー、マチェックが脾臓 がんになり、症状 が悪化 、必死 に看病 する。また同 じころ、「CET05」の準備 が始 まる。いま思 い出 しても、どうやってこの時期 を乗 り越 えたか判然 としない。
10月1日 、「CET05 Office Vacant」が始 まる。CET史上 最高 の5万 人 の動員 を記録 。
10月31日 、宝島社 より日本 ラブストーリー大賞 最終 審査 に残 った旨 、通知 あり。マチェックの症状 、悪化 。
11月1日 、恵比寿 に60年代 カルチャーショップ「TRIggER」をオープン(現在 は閉鎖 )。
11月2日 、マチェック死去 。涙 、涙 ・・・・・・
11月30日 夜 、宝島社 より電話 あり。日本 ラブストーリー大賞 受賞 。ただただ、びっくり。どうしていろんなことがこうもいっぺんに起 るんだろうか・・・・・・
12月9日 、授賞 式 に臨 む。あまりにも落 ち着 き払 っていたせいか、司会 者 控室 に案内 されかける。無事 、受賞 。
- 2006
- 3
月 20日 、13回 もの校正 を経 て『カフーを待 ちわびて』で作家 デビューを果 たす。先輩 作家 の兄 からは「いい気 になるな、本気 になれ」とエールを送 られる。デビュー直後 の初 サイン会 (丸善 ・丸 の内 本店 )。友人 に声 をかけまくり100名 以上 の行列 となる。
完成 した本 をもって、お世話 になった伊是名島 を訪問 。村民 館 で歓迎 会 を開 いてもらう。集 まってきたお年寄 りに「マハ」と手書 きの名刺 を手渡 すと「あー、いい名前 だねえ、又八 (またはち)さん」と言 われる。以後 、又八 を川柳 の雅号 とする。
- 2007
亡 き愛犬 マチェックに捧 げる書 き下 ろし『一 分間 だけ』を刊行 。「盲導犬 クイール」で知 られる写真 家 、秋元 良平 さんが撮 った岡崎 市 の平山 さん宅 の愛犬 、ヴィヴィちゃんが表紙 になる。のちに漫画 家 みづき水脈 さんが「アイのリラ」として漫画 化 。平山 家 、みづきさん、秋元 さんたちと「リラの会 」を発足 、交流 を続 ける。- 2008
各 文芸 誌 で連載 を次々 開始 、「書 く筋 トレ」だと思 ってとにかく書 き続 ける。
その結果 、1年間 に新刊 を7作 出 すというハイペースな出版 ぶりとなる。
旅 を続 けて書 いた短 編集 『さいはての彼女 』、ケータイ小説 『ランウェイ☆ビート』、地方 が舞台 の『ごめん』(文庫 時 、書名 を『夏 を喪 くす』に改題 )、上海 に1ヶ月 滞在 して書 き下 ろしたラブストーリー『#9』(現代 美術家 ・やなぎみわ氏 による表紙 写真 撮 り下 ろし)、映画 を愛 する父 と娘 の物語 『キネマの神様 』などなど。
日本 各地 、世界 各国 へと、物語 の種 を求 めて精力 的 に取材 を開始 する。- 2009
森 ビル時代 の同僚 で飛行機 オタクの矢部 俊男 さんに、日本 の国産 機 「ニッポン号 」が世界 一周 を果 たした秘話 を小説 化 しないかと持 ち込 まれて興味 をもち、「翼 をください」を書 き上 げる。「史実 をベースにしてフィクションを書 く」というスタイルの小説 第 1作 目 となった。
秋 、『カフーを待 ちわびて』の映画 公開 。原作 初 映画 化 。明 青 役 ・玉山 鉄二 さん、幸 役 ・マイコさん、カフー役 ・黒 ラブラドールの名演 に感動 。実 は学生 時代 にアイデアが浮 かび、いつか小説 にしたいと胸 に秘 めていた、画家 アンリ・ルソーとパブロ・ピカソの物語 「楽園 のカンヴァス」を出版 各社 に提案 するも、「ルソー?誰 ??」「なぜそんな画家 を取 り上 げるのですか?」「アートがテーマじゃなくてやっぱりラブストーリーのほうがいいでしょう」などなど、なかなかいい返事 が得 られず。「芸術 新潮 」を発行 している新潮社 にあらすじを話 してみたところ、「ルソーとピカソが出 てくるなんて面白 い!」と連載 が決 まる。調子 に乗 って「ひとつだけお願 いがあるんです。かれこれ25年 もこの物語 を胸 に秘 めてきました。なので、この小説 が刊行 されたとき、帯 に『構想 25年 』と書 いてください!」と申 し出 ると、「わかりましたから早 く書 いてください」と言 われる。その時点 で1文字 も書 いていなかった。
『カフーを待 ちわびて』のスピンオフ『花 々』、小 さな愛情 ストーリー集 『ギフト』刊行 。- 2010
- ルソー
没後 100周年 であるこの年 に「楽園 のカンヴァス」を書 き始 めようと、パリに長期 滞在 して取材 、執筆 を決心 する。その前 に、舞台 のひとつとして登場 させようと決 めていた岡山 県 倉敷 市 にある大原 美術館 を表敬 訪問 、大原 謙一郎 理事 長 (当時 )と高階 秀爾 館長 にお目 にかかる。ご両人 ともに歓迎 され、調子 に乗 って、憧 れの高階 館長 に向 かって「ひとつだけお願 いがあるんです。この小説 の連載 が終 わったら単行本 になります。その3年 後 には文庫 になります。そうしたらそのときに、高階 先生 になんとしても解説 を書 いていただきたいのです! お願 いです! お願 いお願 いお願 いです!!」と申 し出 ると、「わかりましたから早 く書 いてください」と言 われる。その時点 でやっぱりまだ1文字 も書 いていなかった。
2月 〜4月 、パリに滞在 。ルーヴル美術館 のまで徒歩 1分 のアパルトマンを仮寓 にして、いつでもルーヴルコレクションに会 いにいけるという信 じがたい環境 で、「ルーヴルの隣人 」を自称 し、さあ書 くぞと腕 を鳴 らして執筆 したのは、南大東島 が舞台 の「風 のマジム」と、礼文島 が舞台 の「旅 屋 おかえり」であった。
8月 『本日 は、お日柄 もよく』刊行 。発売 前 、実家 に泊 まっていたとき、明 け方 にお赤飯 の夢 を見 る。「チーン!」と大 きな音 が耳元 でしたので、びっくりして飛 び起 きると、うちの旧式 の炊飯 器 が炊 き上 がったときのチャイムの音 だった。どういうわけか母 が朝 からお赤飯 を炊 いていたので、何 があったのか尋 ねると、「今日 はあんたの誕生 日 でしょ?」と。そんなこともあって『本日 は、お日柄 もよく』の単行本 の熨斗袋 のカバーをめくるとお赤飯 の写真 が出 てくるという世 にもめでたいデザインは、私 の考案 による。
9月 「小説 新潮 」にて「夢 をみた(のちに「楽園 のカンヴァス」に改題 )」の連載 スタート。
12月 、矢部 さんの誘 いで蓼 科 を視察 。矢部 さんは蓼 科 にセカンドハウスを持 っていて、ウィークデーは東京 で勤務 、週末 には蓼 科 で過 ごすといううらやましい「二 拠点 居住 」を実践 中 。「蓼 科 はいいぞ〜蓼 科 はいいぞ〜引 っ越 して来 いよ来 いよこいよ〜」と呪文 のように言 われ続 け、「いいかも…」と思 い込 む。蓼 科 を舞台 に若者 たちが米 作 りを通 して再生 する物語 「生 きるぼくら」を着想 する。
さまざまな女性 が主人公 の24話 の連作 短編 『インディペンデンス・デイ』(文庫 化 の際 『独立記念日 』に改題 )、地方 が舞台 の母 と娘 、家族 の愛情 物語 集 『星 がひとつほしいとの祈 り』、沖縄 産 ラム酒 を造 った女性 起業 家 の実話 をもとにした『風 のマジム』刊行 。 - 2011
- 2
月 、蓼 科 の近 くにある信濃境 という場所 で、友人 の農家 ・黒岩 夫妻 が営 む自然 農 の米 作 りワークショップに参加 。漫画 家 のみづき水脈 さんも参加 することになり、二人 の体験 はのちにエッセイ&コミック『♡※ラブコメ』となって収穫 される。
3月 11日 、東日本 大震災 発生 。計画 停電 の中 、パソコンの画面 の明 かりだけを頼 りに、祈 るような気持 ちで「生 きるぼくら」を書 き続 ける。
原発 事故 後 、日本 中 が不安 におびえる状況 下 で、「楽園 のカンヴァス」最終 回 を書 き上 げる。どんなことがあろうとも、最後 には希望 の灯 があるようにーーという気持 ちで。
4月 、2009年 から取材 で通 い続 けていた京都 で、原発 事故 の影響 から逃 れようと首都 圏 から「避難 」してきた母子 を多 く見 かけ、「異邦 人 (いりびと)」を着想 する。
5月 、蓼 科 の森 の中 に家 を建 て、引 っ越 すことを決意 。友人 の建築 家 ・馬場 正 尊 さんに設計 を依頼 、内装 は後藤 寿和 さん、池田 史子 さんのユニット「gift_」に、作 庭 はガーデンデザイナー塚田 有一 さんに依頼 。クリエイティブ・チームとの共同 作 プロジェクトとして移住 計画 を始動 。
秋 、第 二 の故郷 ・岡山 が舞台 の『でーれーガールズ』出版 を機 に母校 ・山陽 女子 高校 の同窓 メンバーたちと再会 。本 作 は2015年 にオール岡山 ロケで映画 化 され、公開 された。
チェリストの継母 とチェロをあきらめた娘 の音楽 物語 『永遠 (とわ)を探 しに』刊行 。 - 2012
- 1
月 、『楽園 のカンヴァス』発売 。お願 い通 り、帯 に「構想 25年 」と書 いてもらい感慨深 くなる。
2月 、トルコ作家 協会 の世界 女性 デー関連 企画 でトルコに招 かれ、東西 が融合 する古都 の文化 にすっかり魅了 される。『楽園 のカンヴァス』刊行 後 のインタビューが途切 れなく続 く。多 くの読者 に受 け入 れられていることを感 じ、またもや感慨深 くなる。
4月 、朋友 の水戸 芸術 館 学芸 員 (当時 )高橋 瑞 木 さんとともに、ニューヨーク、ロス、サンフランシスコを旅 する。その最中 に山本 周五郎 賞 ノミネートが発表 。「絶対 受賞 する」と瑞木 ちゃんに予言 されたので「なんでそう思 うの?」と訊 くと「文句 なく面白 かったから。あと、原田 さんの執念 が実 を結 ぶはずだから」。
5月 、山本 周五郎 賞 受賞 。瑞木 ちゃんの予言 的中 。記者 会見 で自分 の緊張 をほぐそうと自分 で自分 にツッコミを入 れて自分 で笑 った写真 が翌朝 の新聞 に掲載 され、ほんとうにうれしそうな笑顔 に見 えたのでよしとする。6月 末 の授賞 式 のために、『本日 は、お日柄 もよく』作中 で自分 で作 ったスピーチ10ヶ条 に基 づき、3分間 のスピーチ原稿 を作 り、暗記 する。本番 ではスピーチの前 に手 のひらに「静 」と書 くのを忘 れる。が、けっこううまくいった…と思 う。
『楽園 のカンヴァス』が多 くの読者 に受 け入 れられたことで、「史実 をベースにしたフィクション」を書 き続 けようと決心 する。それはいつしか「アート小説 」と呼 ばれるようになる。
10月、パリのリトグラフ工房 「idem」を舞台 にしたラブコメディ「ロマンシエ」着想 、取材 。idemのオーナー、パトリスに「どんなふうに書 かれるのか楽 しみだよ。絶対 フランス語 に翻訳 して読 ませてほしい。絶対 だよ、絶対 !」と念 を押 される。なので、文芸 雑誌 「きらら」連載 中 にミニ漫画 化 して毎月 idemに送 り、パトリスのアシスタント・大津 明子 さんに説明 してもらうことにする。
売 れないアラサータレントで無類 の旅 好 き女子 の人情 物語 『旅 屋 おかえり』、『生 きるぼくら』刊行 。 - 2013
- 1
月 、真冬 のモスクワ、サンクトペテルブルグへ「プーシキン美術館 展 」のプレスツアーで訪問 。初 ロシア訪問 で、ルソーの「詩人 に霊感 を与 えるミューズ」が見 られるのを喜 ぶあまり、滑 って転 んで頭 を強打 したが、なんともなかったうえに、以後 文章 にキレが出 てきたような気 がしないでもない。
そんな中 、留守 中 の日本 で蓼 科 の森 の家 が完成 。夫 が一人 で引 っ越 しの準備 をせっせと進 めてくれる。
2月 、日曜 美術館 の企画 で、パリのクリュニー美術館 所蔵 のタペストリー「貴婦人 と一角獣 」の取材 をし、同 作品 の日本 での展覧 会 に連動 した小説 「ユニコーン」を書 き下 ろす。展覧 会 連動 型 小説 という新 しいアート小説 のスタイルに開眼 。
パリから帰国 後 、いきなり引 っ越 し。矢部 さんが「蓼 科 は寒 いけど乾燥 してるから大雪 にならない土地 柄 なんだ」と言 っていたのを真 に受 けて、真冬 でも雪 がないなら引 っ越 しできるだろうと踏 んでいたのだが、当日 は大雪 でマイナス15度 であった。
4月 、ドキュメンタリー『いと運命 の子犬 』を書 いたご縁 で、愛知 県 にある介助 犬 センターからキャリアチェンジ犬 のラブラドール犬 「ジャム」(♀)を引 き受 ける。介助 犬 の訓練 を受 けつつ、家庭 犬 にキャリアを変 える犬 のことを「キャリアチェンジ犬 」と呼 ぶ。賢 くやさしくおだやかなジャムは、愛犬 マチェック以来 、我 が家 の新 しい家族 となる。
5月 、愛 すべき「美 しき愚 かものたち」である印象派 、モダン・アートの画家 たちの人生 を描 いた『ジヴェルニーの食卓 』刊行 。実在 した巨匠 たちを物語 の中 で描 く喜 びはひとしお。以後 、敬愛 する画家 を中心 にさまざまな物語 を書 き続 ける。
9月 、ようやく落 ち着 いた蓼 科 の家 のお披露目 をする。設計 コンセプトは「森 に沈 む家 」。内装 コンセプトは「北欧 と民芸 が融合 する部屋 」。満足 まんぞく。
日本 初 の女性 総理 大臣 とその夫 の愛情 物語 『総理 の夫 』刊行 。
(つづく近日 公開 予定 )