| school_tradition = [[大陸哲学]]、[[唯物論]]、[[マルクス主義|科学的社会主義]]、[[共産主義]]、若いころは[[青年ヘーゲル派]]
| main_interests = [[自然哲学]]、[[唯物論]]、[[自然科学]]、[[歴史哲学]]、[[倫理学]]、[[社会哲学]]、[[政治哲学]]、[[法哲学]]、[[経済学]]、各国の近現代史、[[政治学]]、[[社会学]]、[[資本主義]][[経済]]の分析
| notable_ideas = [[唯物弁証法|弁証法的唯物論]]、[[唯物史観|史的唯物論]]、[[疎外]]、[[労働価値説]]、[[階級闘争]]、[[剰余価値]]の[[搾取]]、[[価値形態]]、[[相対的価値形態]]、[[等価形態]]、[[物神性]]、[[物象化]]など多数
| influences = [[チャールズ・バベッジ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ジョン・ロック]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]、[[マックス・シュティルナー]]、[[アダム・スミス]]、[[ヴォルテール]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[シャルル・フーリエ]]、[[ロバート・オウエン]]、[[モーゼス・ヘス]]、[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[コンスタンタン・ペクール]]、[[アリストテレス]]、[[エピクロス]]など
| influenced = [[大陸哲学|大陸哲学系]][[現代思想]]、[[構造主義]]、[[ポスト構造主義]]、[[ジャック・ラカン|ラカン派]]、[[フロイト=マルクス主義 |ラカニアン・レフト(ジャック・ラカン左派)]]、[[五月危機|Mai 68]]、[[スチューデント・パワー]]、[[パリ・コミューン]]、[[プロレタリア文学]]、[[フランクフルト学派]]、[[批判理論]]、多くの[[マルクス主義|マルクス主義者]]、[[正統派マルクス主義]]、[[分析的マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]、[[数理マルクス経済学]]、[[マルクス主義と文芸批評|マルクス主義文芸批評]]、[[構造主義的マルクス主義]]、マルクス主義法学、[[フロイト=マルクス主義]]、[[マルクス・レーニン主義]]、[[レーニン主義]]、[[トロツキズム]]、[[毛沢東思想|マオイズム]]、[[左翼共産主義]]、[[ルクセンブルク主義]]、[[ルカーチ・ジェルジュ]]、[[アントニオ・グラムシ]]、[[エフゲニー・パシュカーニス]]、[[アラン・バディウ]]、[[岩井克人]]、[[柄谷行人]]など
| signature = Karl Marx signature (red version).svg
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| website = <!-- {{URL|example.com}} -->
}}
'''カール・マルクス'''({{lang-de|'''Karl Marx'''}}、{{lang-en|'''Karl Marx''' {{Post-nominals|post-noms=[[ロイヤル・ソサエティー・オブ・アーツ・フェロー|FRSA]]}}{{Efn|1862年、[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]](英国王立技芸協会)より授かる<ref>[http://www.calmview2.eu/RSA/CalmViewA/Record.aspx?src=CalmView.Catalog&id=RSA%2fSC%2fIM%2f701%2fS1000&pos=9 Ref No RSA/SC/IM/701/S1000 < Search results]</ref>。}}}}、[[1818年]][[5月5日]] - [[1883年]][[3月14日]])は、[[プロイセン王国]]出身時代の[[ドイツ]]の[[哲学者]]、[[経済学者]]、[[革命家]]。[[社会主義]]および[[労働運動]]に強い影響を与えた。[[1845年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]][[国籍]]を離脱しており、以降は[[無国籍|無国籍者]]であった。[[1849年]](31歳)の渡英以降は[[イギリス]]を拠点として活動した。
[[フリードリヒ・エンゲルス]]の協力のもと、包括的な[[世界観]]および[[革命]]思想として[[マルクス主義|科学的社会主義(マルクス主義)]]を打ちたて、[[資本主義]]の高度な発展により[[社会主義]]・[[共産主義]]社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた[[資本主義]]社会の研究は『[[資本論]]』に結実し、その理論に依拠した経済学体系は[[マルクス経済学]]と呼ばれ、[[20世紀]]以降の[[国際政治]]や[[思想]]に多大な影響を与えた。
{{TOC limit}}
== 概要 ==
カール・マルクスは[[1818年]]、当時[[プロイセン王国]]領であった[[トリーア]]に生まれた{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}。現在の[[ロスチャイルド家]]の礎を築いた[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]と結婚したハンナ・コーエンとマルクスの祖母ナネッテ・コーエンは従姉妹関係にあたる。ユダヤ人であるコーエン家は当時イギリス綿製品を仕切っていた大富豪であり、そのコーエン&ロスチャイルド家の一員であったマルクス家も潤沢な資産を有していた<ref name="林(2021)94-95,102">[[#林(2021)|林(2021)]] p.94-95,102</ref>。
1843年に[[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]](兄の[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]]はプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚。マルクスはその政治的出版物のために亡命を余儀なくされ、何十年もの間[[ロンドン]]で暮らし、1883年、同地で没した。主にロンドンで[[フリードリヒ・エンゲルス]]とともにその思想を発展させ、多くの著作を発表した。彼の最もよく知られている著作は、1848年の『[[共産党宣言]]』、および3巻から成る『[[資本論]]』である。マルクスの政治的および哲学的思想はその後の世界に多大な影響を与え、彼は様々な社会理論の学派の名前として用いられてきた。
マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたって[[トリーア大司教]]領の首都だったが、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]中には他の[[ライン地方]]ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地は[[ウィーン会議]]の決議に基づき[[封建主義]]的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、[[ナポレオン法典]]の存続も認めた。そのため[[自由主義]]・[[資本主義]]・[[カトリック教会|カトリック]]の気風は残された<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.18/22</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.26-27</ref>。
マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、[[1723年]]以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父{{仮リンク|ザムエル・マルクス|de|Samuel Marx (Rabbiner)}}もその地位にあった<ref name="ウィーン(2002)17">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.17</ref>。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref>、彼は[[ヴォルテール]]や[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の影響を受けた自由主義者であり<ref name="小牧(1966)39"/><ref name="石浜(1931)44">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.44</ref><ref name="城塚(1970)25">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.25</ref>、[[1812年]]からは[[フリーメイソン]]の会員にもなっている<ref>Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.</ref>。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し{{#tag:ref|プロイセン政府は1815年にも[[ドイツ連邦]]規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[エドゥアルト・ガンス]]らもこの時期に改宗している<ref name="廣松(2008)19">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19</ref>。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の{{仮リンク|法務大臣 (プロイセン)|label=法務大臣|de|Liste der preußischen Justizminister}}{{仮リンク|フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン|de|Friedrich Leopold von Kircheisen}}から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19-20</ref>。|group=注釈}}、[[1816年]]秋([[1817年]]春とも)にプロイセン[[国教]]である[[プロテスタント]]に改宗して「[[ハインリヒ]]」の洗礼名を受けた<ref name="ウィーン(2002)18"/><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17-19</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.3/8</ref>。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500[[ターラー (通貨)|ターラー]]で、これはトリーアの富裕層上位5%に入った{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、[[金利]]5%のロシア[[国債]]540ターラーの資産などを保有していた{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。
母方のプレスブルク家は数世紀前に[[中欧]]からオランダへ移民したユダヤ人家系であり<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>、やはり代々ラビを務めていた<ref name="廣松(2008)17"/><ref name="メーリング(1974,1)36">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36</ref>。母自身もオランダに生まれ育ったので、[[ドイツ語]]会話や読み書きに不慣れだったという<ref name="カー(1956)15"/>。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちも[[シナゴーグ|ユダヤ教会]]に籍を入れさせた<ref name="廣松(2008)17"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.4/9</ref>。叔父は[[フィリップス]]の創業者の祖父{{仮リンク|リオン・フィリップス|nl|Lion Philips}}でマルクスの財政援助者でもあった<ref>Heinz Monz: ''Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx''</ref><ref>Manfred Schöncke: ''Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister'', S. 307–309</ref><ref>Jan Gielkens, S. 220–221</ref>。
[[1835年]]10月に[[ボン大学]]に入学した{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}<ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52-53</ref>。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.64-65</ref>。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという<ref name="城塚(1970)30"/>。
また1835年に18歳になったマルクスは{{仮リンク|[[プロイセン陸軍|de|Preußische Armee}}]]に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。
当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で[[決闘]]ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="廣松2008 p.65-66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。しかも学生に一般的だった[[サーベル]]を使っての決闘ではなく、[[ピストル]]でもって決闘したようである{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="シュワルツシルト(1950)21">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.21</ref>。
貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた<ref name="ウィーン(2002)27"/>{{sfn|佐々木|2016|pp=22-23}}<ref name="カー(1956)23">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.23</ref><ref name="メーリング(1974,1)45">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.45</ref>。
一方で、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810年までに家族から得た財産の取り分を使い果たしており、その後は官僚としての俸給だけで生活し、1834年の退職後は年金で暮らしており、その額はカールの父ハインリヒの年収1500ターラーの4分の3程度であったため、イェニーは十分な[[持参金]]を持つことができず、人目をひくような結婚相手を見つけられるあてもなかったとも考証されている{{Sfn|スパーバー|2015a|p=73}}。
{{-}}
以降ヘーゲル中央派に分類されつつも[[ヘーゲル左派]]寄りの[[エドゥアルト・ガンス]]の授業を熱心に聴くようになった<ref name="廣松(2008)67">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)29">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.29</ref>。また、[[ブルーノ・バウアー]]や{{仮リンク|カール・フリードリヒ・ケッペン|de|Karl Friedrich Köppen}}、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]、{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク|de|Adolf Friedrich Rutenberg}}らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「[[ドクター|ドクトル]]・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた<ref name="ウィーン(2002)39">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)32">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.32</ref><ref name="メーリング(1974,1)54">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.54</ref>。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.68-69</ref><ref name="メーリング(1974,1)64">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.64</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)37">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.37</ref>。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」が[[キリスト教]]批判・[[無神論]]に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)43">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.43</ref>。
ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500[[ターレル]]以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている<ref name="廣松(2008)68">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.68</ref><ref name="メーリング(1974,1)56">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.56</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)33">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.33</ref>。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39-40</ref>。19371837年12月9日付けの父からの手紙には、「おまえはおまえの両親に数々の不愉快な思いをさせ、喜ばせることはほとんどないか、全然なかった」と記されている{{sfn|佐々木|2016|pp=25-35}}。
[[1838年]][[5月10日]]に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった<ref name="ウィーン(2002)43">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43</ref><ref name="廣松(2008)93-94">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.93-94</ref>。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、[[古代ギリシャ]]の哲学者[[エピクロス]]と[[デモクリトス]]の論文の執筆を開始した<ref name="カー(1956)27"/><ref name="廣松(2008)96"/><ref name="城塚(1970)42">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.42</ref>。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった<ref name="廣松(2008)93-94"/>。
[[1840年]]に[[キリスト教]]と[[正統主義]]思想の強い影響を受ける[[ロマン主義]]者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]がプロイセン王に即位し、保守的な{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン|de|Johann Albrecht Friedrich von Eichhorn}}が{{仮リンク|文部大臣 (プロイセン)|label=文部大臣|de|Preußisches Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten}}に任命されたことで言論統制が強化された{{#tag:ref|前王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は優柔不断な性格の王でヘーゲル派の{{仮リンク|カール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン|de|Karl vom Stein zum Altenstein}}を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった<ref name="廣松(2008)123-125"/>。|group=注釈}}<ref name="カー(1956)27"/><ref name="ウィーン(2002)44">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.44</ref><ref name="廣松(2008)123-125">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.123-125</ref>。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派の[[フリードリヒ・シェリング]]教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)44"/>。
マルクスはベルリン大学で[[学士号]]、[[修士号]]を取得後、[[博士号]]を取得するべく[[博士論文]]の執筆を始めていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学に論文を提出することを避け、[[1841年]][[4月6日]]に審査が迅速で知られる[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]に『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の[[4月15日]]に同大学から[[博士|哲学博士号]]を授与された<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43/45-46</ref>。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している{{#tag:ref|[[デモクリトス]]と[[エピクロス]]はアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.67-68</ref>。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスを[[ストア派]]や[[懐疑主義]]とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.54-59</ref>。|group=注釈}}<ref name="石浜(1931)72">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.72</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.59/61-62</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.105-106</ref>。
=== 大学教授への道が閉ざされる ===
=== 1848年革命をめぐって ===
[[File:Europe_1848_map_en.png|280px|thumb|[[1848年革命]]のヨーロッパ。]]{{See also|1848年革命}}
1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都[[パリ]]で[[1848年]]2月22日に暴動が発生し、24日に[[フランス王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位を追われて[[フランス第二共和政|共和政]]政府が樹立される事件が発生した([[1848年のフランス革命|2月革命]]){{#tag:ref|ルイ・フィリップ王は1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]で[[復古王政]]が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]の一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.157-158</ref>。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生<ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである<ref name="石浜(1931)160">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.160</ref><ref name="ウィーン(2002)151">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.151</ref>。|group=注釈}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.158-160</ref><ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった<ref>{{Cite web|和書|title=1848年革命とは|url=https://kotobank.jp/word/1848%E5%B9%B4%E9%9D%A9%E5%91%BD-847643|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。
{{仮リンク|ドイツ連邦議会 (ドイツ連邦)|label=ドイツ連邦議会|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}議長国である[[オーストリア帝国]]の帝都[[ウィーン]]では3月13日に学生や市民らの運動により宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下の[[ハンガリー]]や[[ボヘミア]]、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国の[[イタリア統一運動]]も刺激された<ref name="石浜(1931)162">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162</ref>。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}の創設、[[ドイツ統一]]運動に承諾を与えた<ref name="石浜(1931)163">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.163</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)257-258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.257-258</ref>。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162-163</ref>。そして自由都市[[フランクフルト・アム・マイン]]にドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会([[フランクフルト国民議会]])が設置されるに至った{{Efn|こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。}}<ref name="小牧(1966)169">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.169</ref>。
==== ケルン移住と『新ライン新聞』発行 ====
[[File:Neue Rheinische Zeitung N.jpg|180px|thumb|『[[新ライン新聞]]』1848年6月19日号]]
マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方[[ケルン]]に入った<ref name="ウィーン(2002)158"/>。革命扇動を 行うための 新たな 新聞の 発行準備を 開始したが、 苦労したのは 出資者を 募ることだった。ヴッパータールへ 資金集めにいったエンゲルスはほとんど 成果を 上げられずに 戻ってきた<ref name=" 石浜(1931)173">[[# 石浜(1931)| 石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1 巻]] p.268</ref>。 結局マルクス 自らが 駆け 回って4 月中旬までには 自由主義ブルジョワの 出資者を 複数見つけることができた<ref name="カー(1956)86"/><ref name=" 石浜(1931)173"/> 。ケルンの小規模実業家や専門職からの資金提供や、マルクスも相続金の一部を差し出し、13000ターラー集まった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=285}}。 ▼
マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方[[ケルン]]に入った<ref name="ウィーン(2002)158"/>。
▲革命扇動を 行うための 新たな 新聞の 発行準備を 開始したが、 苦労したのは 出資者を 募ることだった。ヴッパータールへ 資金集めにいったエンゲルスはほとんど 成果を 上げられずに 戻ってきた<ref name=" 石浜(1931)173">[[# 石浜(1931)| 石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1 巻]] p.268</ref>。 結局マルクス 自らが 駆け 回って4 月中旬までには 自由主義ブルジョワの 出資者を 複数見つけることができた<ref name="カー(1956)86"/><ref name=" 石浜(1931)173"/>。
新たな新聞の名前は『[[新ライン新聞]]』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="カー(1956)86"/><ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した<ref name="石浜(1931)173"/><ref name="ウィーン(2002)159"/>。マルクスの年俸は1500ターラーで、今までで最も恵まれた環境になった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=287}}。
同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した<ref name="石浜(1931)173"/><ref name="ウィーン(2002)159"/>。しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、{{仮リンク|ステファン・ボルン|de|Stephan Born}}からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された{{#tag:ref|マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していた{{仮リンク|アンドレアス・ゴットシャルク|de|Andreas Gottschalk}}をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。|group=注釈}}<ref name="ウィーン(2002)159"/>。
同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="小牧(1966)172">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172</ref><ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref><ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref>。
==== 革命の衰退 ====
[[File:Meissonier Barricade.jpg|180px|thumb|パリの[[6月蜂起]]でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画]]
しかし、革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、[[4月10日]]にはイギリスで[[チャーティスト運動]]が抑え込まれた<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref>。[[6月23日]]にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも([[6月蜂起]])、[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された<ref name="カー(1956)86"/><ref name="エンゲルベルク(1996)279"/>。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった<ref name="石浜(1931)174"/><ref name="エンゲルベルク(1996)278">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.278</ref>。[[ヨーゼフ・フォン・ラデツキー]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる[[オーストリア軍]]が[[ロンバルディア]](北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した<ref name="エンゲルベルク(1996)280">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.280</ref>。プロイセンでは革命以来[[ルドルフ・カンプハウゼン]]や{{仮リンク|ダーヴィト・ハンゼマン|de|David Hansemann}}の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.271-272</ref>。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった<ref name="カー(1956)87"/>。
革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.272-273/290</ref>。
6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して[[偽造パスポート]]でフランスに入国。パリの{{仮リンク|リール通り|fr|Rue de Lille (Paris)}}に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した<ref name="ReferenceB">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。
この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝[[ナポレオン3世]])が大統領を務めていた<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63-68</ref>。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の{{仮リンク|[[秩序党|fr|Parti de l'Ordre (1848)}}]]の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、[[6月13日]]に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)<ref name="ReferenceB"/><ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。
この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官から[[モルビアン県]]へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここは{{仮リンク|ポンティノ湿地|fr|Marais pontins}}の影響で[[マラリア]]が流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。
共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。[[1851年]]5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147-149</ref><ref name="小牧(1966)178">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.178</ref>。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した<ref name="シュワルツシルト(1950)271">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.271</ref>。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局[[1852年]]10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.207-209</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)273">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.273</ref>。
これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年[[11月17日]]に正式に解散を決議した<ref name="小牧(1966)178"/>。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる<ref name="カー(1956)151"/>。1853年10月にマルクスはエンゲルスに「どんな党とも関係をもたない」と宣言し、以降、マルクスは政治活動との共闘を放棄した{{Sfn|スパーバー|2015b|p=8}}。
==== ナポレオン3世との闘争 ====
ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・[[ニューヨーク]]に移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった<ref name="ReferenceC">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref><ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref>。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった<ref name="バーリン(1974)274"/><ref name="ウィーン(2002)413">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.413</ref>。『[[スペクテイター (1828年創刊の雑誌)|ザ・スペクテイター]]』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた<ref name="ウィーン(2002)413"/>。
なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境を{{仮リンク|ルイス・クーゲルマン|en|Louis Kugelmann}}に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる<ref name="ReferenceC"/>。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部{{仮リンク|フリードリヒ・ゾルゲ|en|Friedrich Sorge}}らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる<ref>[[渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館|渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館p]]p.309-310</ref>。
しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年の[[フィラデルフィア]]大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった{{efn|インターナショナルの再建にはその後13年を要し、マルクスは既に他界している。再建された[[第二インターナショナル]]は、[[イギリス労働党]]、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ロシア社会民主党]]といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツの[[ベルンシュタイン]]からロシアの[[レーニン]]まで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。}}<ref name="ウィーン(2002)416"/>。
この合同に際して両党の統一綱領として作られたのが{{仮リンク|ゴータ綱領|de|Gothaer Programm}}だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった<ref name="カー(1956)395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.395</ref>。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた<ref name="バーリン(1974)276"/>。
この時の書簡を編纂してマルクスの死後にエンゲルスが出版したものが『[[ゴータ綱領批判]]』である{{efn|マルクス派が優勢になったドイツ社会主義労働者党は、1891年に[[ドイツ社会民主党]]と党名を変更し[[エルフルト綱領]]を制定した<ref>{{Cite web|和書|title=ドイツ社会民主党とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-102966|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。この中で、エンゲルスは『ゴータ綱領批判』を出版しラサール主義の色が強いゴータ綱領を批判した<ref>{{Cite web|和書|title=ゴータ綱領とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B6%B1%E9%A0%98-65096|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。}}。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。
マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した<ref name="バーリン(1974)277"/>。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した<ref name="カー(1956)396">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.396</ref>。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し<ref name="カー(1956)397"/>。「[[賃金の鉄則]]」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した<ref name="カー(1956)397"/>。
葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志は[[シベリア]]の鉱山から[[カリフォルニア]]の海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた<ref name="ReferenceD"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221-222</ref>。
マルクスの死後、イギリスでは[[労働党 (イギリス)|労働党]]が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による[[人民戦線]]内閣が誕生。ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアでは[[レーニン]]の指導する[[ロシア革命]]を経て、[[ソヴィエト連邦]]が誕生した。
マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する{{#tag:ref|『資本論』第4部こと『[[剰余価値学説史]]』は、エンゲルスの死後[[カール・カウツキー]]の編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『[[ドイツ・イデオロギー]]』は原稿の並べ替えが行われ、[[廣松渉]]から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる<ref>『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298</ref>。|group=注釈}}<ref name="ウィーン(2002)461">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461</ref><ref name="石浜(1931)284">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.284</ref>。[[2013年]]に『共産党宣言』とともに『資本論』初版第1部が[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)の[[世界の記憶]]に登録された<ref>[http://www.unesco.de/kommunikation/mow/mow-deutschland/kommunistisches-manifest.html Schriften von Karl Marx: "Das Manifest der Kommunistischen Partei" (1848) und "Das Kapital", ernster Band (1867)]</ref>。
|File:Karl Marx First Grave.jpg|マルクスのもともとの墓(ロンドン、[[ハイゲイト墓地]])
|File:KarlMarx Tomb.JPG|1954年に移されたマルクスの新しい墓(ロンドン、ハイゲイト墓地)
|File:Karl Marx in North Korea.jpg|マルクスの肖像画([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[平壌直轄市|平壌]]・外国貿易省)
|File:Bundesarchiv Bild 183-19400-0029, Berlin, Marx-Engels-Platz, Demonstration.jpg|マルクス、エンゲルス、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンの{{仮リンク|シュロース広場|label=マルクス・エンゲルス広場|de|Schloßplatz (Berlin)}})
|File:USSR-1983-1ruble-CuNi-Marx165-b.jpg|没後100周年記念1[[ロシア・ルーブル|ルーブル]]硬貨(1983年発行)
マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった<ref name="ウィーン(2002)81">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.81</ref>。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。
マルクスは他者からの金銭支援で生活しており、定職に就くことがなかったため、時間的・精神的余裕があり、当時他の労働者が考える余裕も無かったことに打ち込めている。(前述のように一度だけ鉄道の改札係に応募しているが、あまりに字が汚いため断られている。彼が出版のために他者に渡したモノは全て妻イエニーなど他者に清書してもらったものである。)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。エンゲルスの支援金額について、後年にマルクスに何か弱みを握られているのではないかと指摘されているほど莫大である<ref name=":0" /><ref name="メーリング(1974,1)319" />。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口ではい表せないほど腹を立てている」と書いている<ref name="メーリング(1974,1)319"/>。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある<ref name="ウィーン(2002)315">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.315-319</ref>。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した<ref name="ウィーン(2002)357">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.357</ref>。
== 人間関係・批判 ==
マルクスは[[亡命者]]だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。
=== 各国観 ===
プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的に[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]で、『[[共産党宣言]]』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。しかし、その続きで「ブルジョアの意味とはまったく違うとはいえ、プロレタリア自身やはり民族的である」とも述べている<ref>共産党宣言第二章</ref>。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については支援する一方で労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.244-245</ref>。他方、イギリスの[[チャーチスト運動]]やフランスの[[パリコミューン]]を遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった<ref name="ウィーン(2002)391"/>。{{要出典範囲|date=2021年10月|またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。}}プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。
十九世紀、[[ヨーロッパの憲兵]]として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた<ref name="カー(1956)183">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.183</ref>。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の[[農奴解放令]]によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、[[フロレンスキー]]の『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p. 340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家[[ヴェラ・ザスーリッチ]]に通信している<ref name="カー(1956)316">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.316</ref>。
「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」<ref>マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁</ref>。
== 評価・批判 ==
{{Main2|マルクスの経済理論、共産主義思想、哲学への評価・批判については「'''[[マルクス主義批判]]'''」を、マルクスの経済理論については[[マルクス経済学への批判]]を}}
マルクスのことを[[フェルディナント・ラッサール]]は「経済学者になった[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]であり、社会主義者になった[[デヴィッド・リカード|リカード]]」と表現した<ref name="ウィーン(2002)276">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.276</ref>。
歴史学者[[E.H.カー]]は「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している<ref name="カー(1956)412-413">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.412-413</ref>。
政治哲学者[[アイザイア・バーリン]]は「マルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい」として、例えば[[唯物論]]は[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]や[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]に負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観は{{仮リンク|シモン=ニコラ=アンリ・ランゲ|fr|Simon-Nicolas-Henri Linguet}}や[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]が主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論は[[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ|シスモンディ]]の発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」は[[マックス・シュティルナー]]がマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁は[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が設計したものであること、[[労働価値説]]は[[ジョン・ロック]]や[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]ら古典経済学者に依拠していること、[[搾取]]と[[剰余価値説]]も[[シャルル・フーリエ]]がすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策も{{仮リンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、{{仮リンク|ウィリアム・トンプソン (哲学者)|label=[[ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}]]、[[トーマス・ホジスキン]]らがすでに論じていたことなどをバーリンはあげる<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>{{#tag:ref|さらにバーリンは述べる。「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」|group=注釈}}。「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.18-20/205</ref>。
[[城塚登]]はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する<ref name="城塚(1970)132">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.132</ref>。
# 長女{{仮リンク|ジェニー・ロンゲ|label=ジェニー・カロリーナ|de|Jenny Longuet}}([[1844年]]-[[1883年]])は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}と結婚した<ref name="石浜(1931)289">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.289</ref><ref name="ウィーン(2002)392">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.392</ref>。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している<ref name="石浜(1931)290">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.290</ref>。
# 次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ジェニー・ラウラ|de|Laura Lafargue}}([[1845年]]-[[1911年]])は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者[[ポール・ラファルグ]]と結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref>。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。
# 長男エドガー(エトガル{{Sfn|スパーバー|2015b|p=9}})([[1847年]]-[[1855年]]4月6日)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた<ref name="石浜(1931)134">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.134</ref>。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.261-262</ref>。1855年4月の8歳でなくなったエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている<ref name="ウィーン(2002)264">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.264</ref>。妻の子6人のほかに、メイドとの間に男児がいたとされる。
# 次男ヘンリー・エドワード・ガイ(ハインリヒ・グイード{{Sfn|スパーバー|2015a|p=326-331}})([[1849年]]-[[1850年]]11月19日)はイギリス議会爆破未遂犯[[ガイ・フォークス]]に因んで名付けたが<ref name="ウィーン(2002)182"/>、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した<ref name="ウィーン(2002)200">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.200</ref>。
# 三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(フランツィスカ{{Sfn|スパーバー|2015a|p=332-337}})([[1851年]]-[[1852年]]4月14日)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている<ref name="ウィーン(2002)211">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.211</ref>。
# 四女[[エリノア・マルクス|ジェニー・エリノア]]([[1855年]]-[[1898年]])は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという<ref name="カー(1956)386-387">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.386-387</ref>。<!-- 彼女はイギリス人社会主義者{{仮リンク|エドワード・エイヴリング|en|Edward Aveling}}と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、{{要検証範囲|やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された[[青酸カリ]]を飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った|date=2015年1月}}。明らかに[[殺人罪]]であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461-462</ref>。 -->エレノアの生涯は『[[ミス・マルクス]]』(日本公開2021年)として映画化された<ref>[https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/g37452173/toxic-father-karl-marx-and-his-daughter-eleanor-marx-210904/ マルクスに才能とケア労働を搾取された”父の娘”の壮絶な最後【毒家族に生まれて】]Elle, ハースト婦人画報社、2021/09/03 </ref>。[[1898年]][[3月31日]]に[[遺書]]を残して服毒自殺<ref name="Kapp, pp. 696-697">Kapp, ''Eleanor Marx: Volume 2,'' pp. 696-697.</ref>。
=== 婚外子 ===
== マルクス像 ==
東欧諸国には共産主義政党独裁時代に建てられた複数のマルクス像が現在まで残っている。また近年の2018年にも依然として中国共産党の独裁体制下にある中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念して生誕地であるドイツのトリーアに対して高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈され、除幕式には[[欧州委員会]]の[[ジャン=クロード・ユンケル]]委員長や[[ドイツ社会民主党]]の[[アンドレア・ナーレス]]党首などが出席したが<ref>{{Cite web |和書|date= 2018-05-11|url= httphttps://gendai.ismedia.jpmedia/articles/-/55617?page=2|title= 中国がドイツに贈った「巨大マルクス像」が大論争を起こしたワケ|publisher= [[現代ビジネス]]|accessdate=2019-03-29}}</ref>、かつて[[ドイツ共産党]]の台頭によってナチスの独裁と東西分断といった負の影響もあったドイツではマルクスに対して否定的な見方が根強くあって彫像設置には批判も出ていた<ref>{{Cite web |和書|date= 2018-05-04|url= https://www.sankei.com/article/20180504-5YDZR5FTJFMLRBSMJFJ4FMS3EM/|title= マルクス像寄贈は中国のプロパガンダか? 独で議論「独裁の土台」「毒のある贈り物」|publisher= [[産経デジタル|産経ニュース]]|accessdate=2019-10-16}}</ref>。
{{Gallery
|lines=3
|File:МАРКС.jpg|[[ロシア]]・[[モスクワ]]・{{仮リンク|革命広場 (モスクワ)|label=革命広場|ru|Площадь Революции (Москва)}}にあるマルクス像
|File:Ulyanovsk pamyatnik K Marxu.jpg|[[ロシア]]・[[ウリヤノフスク]]にあるマルクス像
|File:Marx Engels Denkmal Berlin.jpg|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像([[ドイツ]]・[[ベルリン]]の{{仮リンク|マルクス・エンゲルス・フォーラム|de|Marx-Engels-Forum}})
*{{Cite book|和書|author=ハリンリヒ・グムコー,マルクス=レーニン主義研究所|year=1972 |translator=[[土屋保男]],[[松本洋子]]|title=フリードリヒ・エンゲルス 一伝記(上)、(下)|publisher=[[大月書店]]|ref={{harvid|グムコー|1972}}}}
*{{Cite book|和書|author=小泉信三|authorlink=小泉信三|date=1967年(昭和42年)|title=小泉信三全集〈第7巻〉|publisher=[[文藝春秋]]|asin=B000JBGBO4|ref=小泉(1967)}}
* {{CiteCitation| booklast = スパーバー|和書|author first = ジョナサン・スパーバー|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator=[[ 小原淳]] | year =2015 2015a | title = マルクス(上)(下): ある十九世紀人の生涯 上| publisher = 白水社 |ref={{harvid|スパーバー|2015}}}}
* {{Citation| last = スパーバー| first = ジョナサン|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator=小原淳| year = 2015b | title = マルクス ある十九世紀人の生涯 下| publisher = 白水社}}
*{{Cite book|和書|editor1=外川継男|editor1-link=外川継男|editor2=左近毅|editor2-link=左近毅|date=1973年(昭和48年)|title=バクーニン著作集 第6巻|publisher=[[白水社]]|asin=B000J9MY6U|ref=外川(1973)}}
*{{Cite book|和書|author=小牧治|authorlink=小牧治|date=1966年(昭和41年)|title=マルクス|series=人と思想20|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧(1966)}}
== 外部リンク ==
* {{DDB|Person|118578537}}
* [https://www.marxists.org/archive/marx/index.htm Marx Engels Archive]
* {{青空文庫著作者|1138|マルクス カール・ハインリッヒ}}
* [https://www.project-archive.org/0/005.html カール・マルクス『経済学批判』「序説:物質的生活の生産様式が社会的・政治的・知的生活過程を規定する」] - ARCHIVE
* [https://www.project-archive.org/0/071.html 「カール・マルクス葬送の辞」(1883年3月17日)] - ARCHIVE。エンゲルスによるマルクスの追悼演説
* {{Kotobank|マルクス(Karl Heinrich Marx)}}
{{共産主義}}
{{大陸哲学}}
{{経済学}}
{{Normdaten}}
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