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| school_tradition = [[大陸たいりく哲学てつがく]]、[[唯物ゆいぶつろん]]、[[マルクス主義まるくすしゅぎ|科学かがくてき社会しゃかい主義しゅぎ]]、[[共産きょうさん主義しゅぎ]]、わかいころは[[青年せいねんヘーゲル]]
| main_interests = [[自然しぜん哲学てつがく]]、[[唯物ゆいぶつろん]]、[[自然しぜん科学かがく]]、[[歴史れきし哲学てつがく]]、[[倫理りんりがく]]、[[社会しゃかい哲学てつがく]]、[[政治せいじ哲学てつがく]]、[[ほう哲学てつがく]]、[[経済けいざいがく]]、各国かっこくきん現代げんだい、[[政治せいじがく]]、[[社会しゃかいがく]]、[[資本しほん主義しゅぎ]][[経済けいざい]]の分析ぶんせき
| notable_ideas = [[唯物ゆいぶつ弁証法べんしょうほう|弁証法べんしょうほうてき唯物ゆいぶつろん]]、[[唯物ゆいぶつ史観しかん|史的してき唯物ゆいぶつろん]]、[[疎外そがい]]、[[労働ろうどう価値かちせつ]]、[[階級かいきゅう闘争とうそう]]、[[剰余じょうよ価値かち]]の[[搾取さくしゅ]]、[[価値かち形態けいたい]]、[[相対そうたいてき価値かち形態けいたい]]、[[等価とうか形態けいたい]]、[[もの神性しんせい]]、[[物象ぶっしょう]]など多数たすう
| influences = [[チャールズ・バベッジ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ジョン・ロック]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]、[[マックス・シュティルナー]]、[[アダム・スミス]]、[[ヴォルテール]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[シャルル・フーリエ]]、[[ロバート・オウエン]]、[[モーゼス・ヘス]]、[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[コンスタンタン・ペクール]]、[[アリストテレス]]、[[エピクロス]]など
| influenced = [[大陸たいりく哲学てつがく|大陸たいりく哲学てつがくけい]][[現代げんだい思想しそう]]、[[構造こうぞう主義しゅぎ]]、[[ポスト構造こうぞう主義しゅぎ]]、[[ジャック・ラカン|ラカン]]、[[フロイト=マルクス主義まるくすしゅぎ |ラカニアン・レフト(ジャック・ラカン左派さは)]]、[[がつ危機きき|Mai 68]]、[[スチューデント・パワー]]、[[パリ・コミューン]]、[[プロレタリア文学ぶんがく]]、[[フランクフルト学派がくは]]、[[批判ひはん理論りろん]]、おおくの[[マルクス主義まるくすしゅぎ|マルクス主義まるくすしゅぎしゃ]]、[[正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎ]]、[[分析ぶんせきてきマルクス主義まるくすしゅぎ]]、[[マルクス経済けいざいがく]]、[[数理すうりマルクス経済けいざいがく]]、[[マルクス主義まるくすしゅぎ文芸ぶんげい批評ひひょう|マルクス主義まるくすしゅぎ文芸ぶんげい批評ひひょう]]、[[構造こうぞう主義しゅぎてきマルクス主義まるくすしゅぎ]]、マルクス主義まるくすしゅぎ法学ほうがく、[[フロイト=マルクス主義まるくすしゅぎ]]、[[マルクス・レーニン主義しゅぎ]]、[[レーニン主義しゅぎ]]、[[トロツキズム]]、[[毛沢東もうたくとう思想しそう|マオイズム]]、[[左翼さよく共産きょうさん主義しゅぎ]]、[[ルクセンブルク主義しゅぎ]]、[[ルカーチ・ジェルジュ]]、[[アントニオ・グラムシ]]、[[エフゲニー・パシュカーニス]]、[[アラン・バディウ]]、[[岩井いわい克人かつと]]、[[谷行たにいきじん]]など
| signature = Karl Marx signature (red version).svg
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}}
'''カール・マルクス'''({{lang-de|'''Karl Marx'''}}、{{lang-en|'''Karl Marx''' {{Post-nominals|post-noms=[[ロイヤル・ソサエティー・オブ・アーツ・フェロー|FRSA]]}}{{Efn|1862ねん、[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]](英国えいこく王立おうりつ技芸ぎげい協会きょうかい)よりさずかる<ref>[http://www.calmview2.eu/RSA/CalmViewA/Record.aspx?src=CalmView.Catalog&id=RSA%2fSC%2fIM%2f701%2fS1000&pos=9 Ref No RSA/SC/IM/701/S1000 < Search results]</ref>。}}}}、[[1818ねん]][[5がつ5にち]] - [[1883ねん]][[3がつ14にち]])は、[[プロイセン王国おうこく]]出身しゅっしん時代じだいの[[ドイツ]]の[[哲学てつがくしゃ]]、[[経済けいざい学者がくしゃ]]、[[革命かくめい]]。[[社会しゃかい主義しゅぎ]]および[[労働ろうどう運動うんどう]]つよ影響えいきょうあたえた。[[1845ねん]]に[[プロイセン王国おうこく|プロイセン]][[国籍こくせき]]離脱りだつしており、以降いこうは[[国籍こくせき|国籍こくせきしゃ]]であった。[[1849ねん]](31さい)のわたりえい以降いこうは[[イギリス]]を拠点きょてんとして活動かつどうした。
 
[[フリードリヒ・エンゲルス]]の協力きょうりょくのもと、包括ほうかつてきな[[世界せかいかん]]および[[革命かくめい]]思想しそうとして[[マルクス主義まるくすしゅぎ|科学かがくてき社会しゃかい主義しゅぎマルクス主義まるくすしゅぎ)]]をちたて、[[資本しほん主義しゅぎ]]高度こうど発展はってんにより[[社会しゃかい主義しゅぎ]]・[[共産きょうさん主義しゅぎ]]社会しゃかい到来とうらいする必然ひつぜんせいいた。ライフワークとしていた[[資本しほん主義しゅぎ]]社会しゃかい研究けんきゅうは『[[資本しほんろん]]』に結実けつじつし、その理論りろん依拠いきょした経済けいざいがく体系たいけいは[[マルクス経済けいざいがく]]とばれ、[[20世紀せいき]]以降いこうの[[国際こくさい政治せいじ]]や[[思想しそう]]に多大ただい影響えいきょうあたえた。
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== 概要がいよう ==
カール・マルクスは[[1818ねん]]当時とうじ[[プロイセン王国おうこく]]りょうであった[[トリーア]]にまれた{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=257-259}}。現在げんざいの[[ロスチャイルド]]のいしずえきずいた[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]と結婚けっこんしたハンナ・コーエンとマルクスの祖母そぼナネッテ・コーエンは従姉妹いとこ関係かんけいにあたる。ユダヤじんであるコーエン当時とうじイギリス綿めん製品せいひん仕切しきっていただい富豪ふごうであり、そのコーエン&ロスチャイルド一員いちいんであったマルクス潤沢じゅんたく資産しさんゆうしていた<ref name="りん(2021)94-95,102">[[#はやし(2021)|はやし(2021)]] p.94-95,102</ref>。
 
1843ねんに[[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]](あにの[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]]はプロイセンの内務ないむ大臣だいじん。ヴェストファーレンはプロイセンの貴族きぞく)と結婚けっこん。マルクスはその政治せいじてき出版しゅっぱんぶつのために亡命ぼうめい余儀よぎなくされ、なんじゅうねんものあいだ[[ロンドン]]でらし、1883ねん同地どうちぼっした。おもにロンドンで[[フリードリヒ・エンゲルス]]とともにその思想しそう発展はってんさせ、おおくの著作ちょさく発表はっぴょうした。かれもっともよくられている著作ちょさくは、1848ねんの『[[共産党きょうさんとう宣言せんげん]]』、および3かんからる『[[資本しほんろん]]』である。マルクスの政治せいじてきおよび哲学てつがくてき思想しそうはその世界せかい多大ただい影響えいきょうあたえ、かれ様々さまざま社会しゃかい理論りろん学派がくは名前なまえとしてもちいられてきた。
49ぎょう:
マルクスがまれたトリーアは古代こだいからつづ歴史れきしある都市としであり、ながきにわたって[[トリーア大司教だいしきょう]]りょう首都しゅとだったが、[[フランス革命かくめい戦争せんそう]]・[[ナポレオン戦争せんそう]]ちゅうにはの[[ライン地方ちほう]]ともどもフランスに支配しはいされ、自由じゆう主義しゅぎ思想しそう影響えいきょうかれた。ナポレオン敗退はいたい同地どうちは[[ウィーン会議かいぎ]]の決議けつぎもとづき[[封建ほうけん主義しゅぎ]]てきなプロイセン王国おうこく領土りょうどとなったが、プロイセン政府せいふ統治とうち根付ねつくまではライン地方ちほうたいして慎重しんちょう統治とうちのぞみ、[[ナポレオン法典ほうてん]]の存続そんぞくみとめた。そのため[[自由じゆう主義しゅぎ]]・[[資本しほん主義しゅぎ]]・[[カトリック教会きょうかい|カトリック]]の気風きふうのこされた<ref name="石浜いしはま(1931)43">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.43</ref><ref>[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.18/22</ref><ref>[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.26-27</ref>。
 
マルクス代々だいだいユダヤきょうのラビであり、[[1723ねん]]以降いこうにはトリーアのラビしょく世襲せしゅうしていた。マルクスの祖父そふマイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父おじ{{かりリンク|ザムエル・マルクス|de|Samuel Marx (Rabbiner)}}もその地位ちいにあった<ref name="ウィーン(2002)17">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.17</ref>。ちちハインリヒももとはユダヤ教徒きょうとでユダヤめいをヒルシェルといったが<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref>、かれは[[ヴォルテール]]や[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の影響えいきょうけた自由じゆう主義しゅぎしゃであり<ref name="小牧こまき(1966)39"/><ref name="石浜いしはま(1931)44">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.44</ref><ref name="城塚じょうつか(1970)25">[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.25</ref>、[[1812ねん]]からは[[フリーメイソン]]の会員かいいんにもなっている<ref>Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.</ref>。そのため宗教しゅうきょうにこだわりをたず、トリーアがプロイセンりょうになったことでユダヤ教徒きょうと公職こうしょくから排除はいじょされるようになったことを懸念けねんし{{#tag:ref|プロイセン政府せいふは1815ねんにも[[ドイツ連邦れんぽう]]規約きやく16じょうもとづき、ユダヤ教徒きょうと公職こうしょく追放ついほう開始かいしした。この措置そちとユダヤじん迫害はくがい機運きうんがりの影響えいきょうでこの時期じきにユダヤ教徒きょうとから改宗かいしゅうしゃ続出ぞくしゅつした。[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[エドゥアルト・ガンス]]らもこの時期じき改宗かいしゅうしている<ref name="廣松ひろまつ(2008)19">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.19</ref>。マルクスのちちヒルシェルは当時とうじトリーア法律ほうりつ顧問こもんつとめていたため、やはり公職こうしょく追放ついほう危機ききさらされた。かれははじめ改宗かいしゅう拒否きょひし、ナポレオン法典ほうてんたて公職こうしょくまろうとした。その主張しゅちょう地方ちほう高等こうとう裁判所さいばんしょ長官ちょうかんフォン・ゼーテからも支持しじていたが、プロイセン中央ちゅうおう政府せいふの{{かりリンク|法務大臣ほうむだいじん (プロイセン)|label=法務大臣ほうむだいじん|de|Liste der preußischen Justizminister}}{{かりリンク|フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン|de|Friedrich Leopold von Kircheisen}}から例外れいがい措置そちはありえないと通告つうこくされた。結局けっきょくヒルシェルはゼーテからのすすめで最終さいしゅう手段しゅだんとして改宗かいしゅうしたのだった<ref>[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.19-20</ref>。|group=注釈ちゅうしゃく}}、[[1816ねん]]あき([[1817ねん]]はるとも)にプロイセン[[国教こっきょう]]である[[プロテスタント]]に改宗かいしゅうして「[[ハインリヒ]]」の洗礼せんれいめいけた<ref name="ウィーン(2002)18"/><ref>[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.17-19</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.3/8</ref>弁護士べんごしだったちちハインリヒの年収ねんしゅうは1500[[ターラー (通貨つうか)|ターラー]]で、これはトリーアの富裕ふゆうそう上位じょうい5%にはいった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。さらにハインリヒはつま持参じさんきん屋敷やしきのほか、葡萄ぶどうはたけ商人しょうにん農民のうみんへの貸付かしつけきん、[[金利きんり]]5%のロシア[[国債こくさい]]540ターラーの資産しさんなどを保有ほゆうしていた{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}
 
母方ははかたのプレスブルクすう世紀せいきまえに[[ちゅうおう]]からオランダへ移民いみんしたユダヤ人家じんかけいであり<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>、やはり代々だいだいラビをつとめていた<ref name="廣松ひろまつ(2008)17"/><ref name="メーリング(1974,1)36">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.36</ref>。はは自身じしんもオランダにまれそだったので、[[ドイツ]]会話かいわきに不慣ふなれだったという<ref name="カー(1956)15"/>。彼女かのじょおっと改宗かいしゅうしたさいには改宗かいしゅうせず、マルクスらまれてきた子供こどもたちも[[シナゴーグ|ユダヤ教会きょうかい]]にせきれさせた<ref name="廣松ひろまつ(2008)17"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.4/9</ref>。叔父おじは[[フィリップス]]の創業そうぎょうしゃ祖父そふ{{かりリンク|リオン・フィリップス|nl|Lion Philips}}でマルクスの財政ざいせい援助えんじょしゃでもあった<ref>Heinz Monz: ''Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx''</ref><ref>Manfred Schöncke: ''Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister'', S. 307–309</ref><ref>Jan Gielkens, S. 220–221</ref>。
82ぎょう:
[[1835ねん]]10がつに[[ボン大学だいがく]]に入学にゅうがくした{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=257-259}}<ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学だいがくでは法学ほうがく中心ちゅうしんとしつつ、文学ぶんがく歴史れきし講義こうぎもとった<ref name="城塚じょうつか(1970)30">[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.52-53</ref>。大学だいがく入学にゅうがくからさんカ月かげつにして文学ぶんがく同人どうじんへのデビューを計画けいかくしたが、ちちハインリヒが「おまえ凡庸ぼんよう詩人しじんとしてデビューすることはなげかわしい」と説得せっとくしてめた<ref>[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.64-65</ref>。実際じっさい、マルクスのつくったはそれほど出来できのいいぶつではなかったという<ref name="城塚じょうつか(1970)30"/>。
 
また1835ねんに18さいになったマルクスは{{かりリンク|[[プロイセン陸軍りくぐん|de|Preußische Armee}}]]徴兵ちょうへいされる予定よていだったが、「むね疾患しっかん」で兵役へいえき適格てきかくとなった。マルクスのちちはマルクスに書簡しょかんして、医師いし証明しょうめいしょいて兵役へいえき免除めんじょしてもらうことは良心りょうしんいたむようなことではない、とさとしている<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。
 
当時とうじ大学だいがくでは平民へいみん学生がくせい出身しゅっしんごとに同郷どうきょうかいつくっていた(貴族きぞく学生がくせい独自どくじ学生がくせいかいつくる)。マルクスも30にんほどのトリーア出身しゅっしんしゃから同郷どうきょうかい所属しょぞくしたが、マルクスが入学にゅうがくしたころ、政府せいふによる大学だいがく監視かんしきびしく、学生がくせい団体だんたい政治せいじてきはなしけるのが一般いっぱんてきで[[決闘けっとう]]ぐらいしかすることはなかったという。マルクスもしんプロイセンかい貴族きぞく学生がくせい一度いちど決闘けっとうして左目ひだりめうえきずけたことがあるという{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=21-22}}<ref name="廣松ひろまつ2008 p.65-66">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.65-66</ref>。しかも学生がくせい一般いっぱんてきだった[[サーベル]]を使つかっての決闘けっとうではなく、[[ピストル]]でもって決闘けっとうしたようである{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=21-22}}<ref name="シュワルツシルト(1950)21">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.21</ref>。
91ぎょう:
 
貴族きぞくむすめとユダヤじん弁護士べんごし息子むすこでは身分みぶんちがいであり、イェニーも家族かぞくから反対はんたいされることを心配しんぱいしてマルクスとの婚約こんやくを1ねんほどかくしていた。しかし彼女かのじょちちルートヴィヒは自由じゆう主義しゅぎてき保守ほしゅ貴族きぞくであり(「カジノクラブ」にも加入かにゅうしていた)、貴族きぞくてき偏見へんけんたないひとだったため、婚約こんやくゆるしてくれた<ref name="ウィーン(2002)27"/>{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=22-23}}<ref name="カー(1956)23">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.23</ref><ref name="メーリング(1974,1)45">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.45</ref>。
 
一方いっぽうで、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810ねんまでに家族かぞくから財産ざいさんぶん使つかたしており、その官僚かんりょうとしての俸給ほうきゅうだけで生活せいかつし、1834ねん退職たいしょく年金ねんきんらしており、そのがくはカールのちちハインリヒの年収ねんしゅう1500ターラーの4ぶんの3程度ていどであったため、イェニーは十分じゅうぶんな[[持参じさんきん]]をつことができず、人目ひとめをひくような結婚けっこん相手あいてつけられるあてもなかったとも考証こうしょうされている{{Sfn|スパーバー|2015a|p=73}}。
 
{{-}}
 
101 ⟶ 104ぎょう:
以降いこうヘーゲル中央ちゅうおう分類ぶんるいされつつも[[ヘーゲル左派さは]]りの[[エドゥアルト・ガンス]]の授業じゅぎょう熱心ねっしんくようになった<ref name="廣松ひろまつ(2008)67">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.67</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)29">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.29</ref>。また、[[ブルーノ・バウアー]]や{{かりリンク|カール・フリードリヒ・ケッペン|de|Karl Friedrich Köppen}}、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]、{{かりリンク|アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク|de|Adolf Friedrich Rutenberg}}らヘーゲル左派さは哲学てつがくしゃ酒場さかばあつまり「[[ドクター|ドクトル]]・クラブ(Doktorclub)」に頻繁ひんぱん参加さんかするようになり、その影響えいきょう一層いっそうヘーゲル左派さは思想しそうちかづいた<ref name="ウィーン(2002)39">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚じょうつか(1970)32">[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.32</ref><ref name="メーリング(1974,1)54">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.54</ref>。とりわけバウアーとケッペンからつよ影響えいきょうけた<ref>[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.68-69</ref><ref name="メーリング(1974,1)64">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.64</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)37">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.37</ref>。ちょうどこの時期じきは「ドクトル・クラブ」が[[キリストきょう]]批判ひはん・[[かみろん]]にかたむはじめた時期じきだったが、マルクスはそのなかでもさい左翼さよくであったらしい<ref name="廣松ひろまつ(2008)96">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.96</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)43">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.43</ref>。
 
ベルリン大学だいがく時代じだいにも埓な生活せいかつおくり、多額たがく借金しゃっきんかかえることとなった。これについて、ちちハインリヒは、手紙てがみなかで「裕福ゆうふく家庭かてい子弟していでもとし500[[ターレル]]以下いかでやっているというのに、息子むすこ殿どのときたら700ターレルも使つかい、おまけに借金しゃっきんまでつくりおって」と不満ふまん小言こごとべている<ref name="廣松ひろまつ(2008)68">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.68</ref><ref name="メーリング(1974,1)56">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.56</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)33">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.33</ref>。また、ハインリヒは、自分じぶん病弱びょうじゃくだったこともあり、息子むすこにははや法学ほうがく学位がくい取得しゅとくして法律ほうりつしょくかねかせげるようになってほしかったのだが、哲学てつがくなどという実務じつむてき分野ぶんやにかぶれて法学ほうがくおろかにしていることが心配しんぱいでならなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39-40</ref>。19371837とし12がつ9にちけのちちからの手紙てがみには、「おまえはおまえの両親りょうしん数々かずかず不愉快ふゆかいおもいをさせ、よろこばせることはほとんどないか、全然ぜんぜんなかった」としるされている{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=25-35}}。
 
[[1838ねん]][[5がつ10日とおか]]にちちハインリヒが病死びょうしした。ちちによって、法学ほうがくてる意思いしはますますうすくなり、大学だいがくのこって哲学てつがく研究けんきゅう没頭ぼっとうしたいという気持きもちがつよまった<ref name="ウィーン(2002)43">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43</ref><ref name="廣松ひろまつ(2008)93-94">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.93-94</ref>。博士はかせごう哲学てつがくしゃになることをのぞむようになり、[[古代こだいギリシャ]]の哲学てつがくしゃ[[エピクロス]]と[[デモクリトス]]の論文ろんぶん執筆しっぴつ開始かいしした<ref name="カー(1956)27"/><ref name="廣松ひろまつ(2008)96"/><ref name="城塚じょうつか(1970)42">[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.42</ref>。だが、ははヘンリエッテは、一人ひとりで7にん子供こどもやしなうえになってしまったため、長兄ちょうけいマルクスにははや卒業そつぎょうしてはたらいてほしがっていた。しかし、マルクスは、あらたな仕送しおくりを要求ようきゅうするばかりだったので、おもあねゾフィーと金銭きんせんをめぐってあらそうようになり、家族かぞくなか険悪けんあくになっていった<ref name="廣松ひろまつ(2008)93-94"/>。
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[[1840ねん]]に[[キリストきょう]]と[[正統せいとう主義しゅぎ]]思想しそうつよ影響えいきょうける[[ロマン主義しゅぎ]]しゃ[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4せい (プロイセンおう)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4せい]]がプロイセンおう即位そくいし、保守ほしゅてきな{{かりリンク|ヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン|de|Johann Albrecht Friedrich von Eichhorn}}が{{かりリンク|文部もんぶ大臣だいじん (プロイセン)|label=文部もんぶ大臣だいじん|de|Preußisches Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten}}に任命にんめいされたことで言論げんろん統制とうせい強化きょうかされた{{#tag:ref|ぜんおう[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3せい (プロイセンおう)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3せい]]は優柔不断ゆうじゅうふだん性格せいかくおうでヘーゲルの{{かりリンク|カール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン|de|Karl vom Stein zum Altenstein}}を文部もんぶ大臣だいじんにしていたため、これまでヘーゲル左派さはへの弾圧だんあつ比較的ひかくてきゆるやかであった<ref name="廣松ひろまつ(2008)123-125"/>。|group=注釈ちゅうしゃく}}<ref name="カー(1956)27"/><ref name="ウィーン(2002)44">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.44</ref><ref name="廣松ひろまつ(2008)123-125">[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.123-125</ref>。ベルリン大学だいがくにも1841ねんはんヘーゲルの[[フリードリヒ・シェリング]]教授きょうじゅが「不健全ふけんぜん空気くうき一掃いっそうせよ」という国王こくおう直々じきじきいのちけて赴任ふにんしてきた<ref name="ウィーン(2002)44"/>。
 
マルクスはベルリン大学だいがくで[[学士がくしごう]]、[[修士しゅうしごう]]を取得しゅとく、[[博士はかせごう]]を取得しゅとくするべく[[博士はかせ論文ろんぶん]]の執筆しっぴつはじめていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学だいがく論文ろんぶん提出ていしゅつすることをけ、[[1841ねん]][[4がつ6にち]]に審査しんさ迅速じんそくられる[[フリードリヒ・シラー大学だいがくイェーナ|イェーナ大学だいがく]]に『{{かりリンク|デモクリトスの自然しぜん哲学てつがくとエピクロスの自然しぜん哲学てつがく差異さい|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』とだいした論文ろんぶん提出ていしゅつし、9にちの[[4がつ15にち]]にどう大学だいがくから[[博士はかせ|哲学てつがく博士はかせごう]]を授与じゅよされた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43/45-46</ref>。この論文ろんぶん文体ぶんたい構造こうぞうにおいてヘーゲル哲学てつがくおおきく影響えいきょうされている一方いっぽう、エピクロスの「アトムの偏差へんさろんに「自己じこ意識いしき」の立場たちばみとめるヘーゲル左派さは思想しそう踏襲とうしゅうしている{{#tag:ref|[[デモクリトス]]と[[エピクロス]]はアトム(原子げんし)をろんじた古代こだいギリシャの哲学てつがくしゃ。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線ちょくせんてき落下らっかして反発はんぱつしあう運動うんどう構成こうせいされているとかんがえた初期しょき唯物ゆいぶつろんしゃだった。これにたいしてエピクロスはデモクリトスのアトムろん継承けいしょうしつつもアトムは自発じはつてき直線ちょくせんからそれる運動うんどう偏差へんさ)をすることがあるとかんがえた<ref>[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.67-68</ref>。近代きんだいまでながらくエピクロスはデモクリトスに余計よけいなものをくわえた改悪かいあくしゃとされてきたが、自由じゆう主義しゅぎ風潮ふうちょうたかまると哲学てつがくてき観点かんてんからさい評価ひょうかはじまった。デモクリトスのアトムろんでは人間にんげん行動こうどうしんまでもアトムの運動うんどうによる必然ひつぜんということになってしまうのにたいし、エピクロスは偏差へんさかんがえをくわえることで自由じゆう唯物ゆいぶつろんなかもうとしたのではないかとかんがえられるようになったからである。ヘーゲル左派さはもエピクロスを[[ストア]]や[[懐疑かいぎ主義しゅぎ]]とともに自分じぶんたちの「自己じこ意識いしき」の立場たちば原型げんけい看做みなした。マルクスもそうした立場たちば踏襲とうしゅうしてエピクロスとデモクリトスを比較ひかくする論文ろんぶんいたのだった<ref>[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.54-59</ref>。|group=注釈ちゅうしゃく}}<ref name="石浜いしはま(1931)72">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.72</ref><ref>[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.59/61-62</ref><ref>[[#廣松ひろまつ(2008)|廣松ひろまつ(2008)]] p.105-106</ref>。
 
=== 大学だいがく教授きょうじゅへのみちざされる ===
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=== 1848ねん革命かくめいをめぐって ===
[[File:Europe_1848_map_en.png|280px|thumb|[[1848ねん革命かくめい]]のヨーロッパ。]]{{See also|1848ねん革命かくめい}}
1847ねん恐慌きょうこうによる失業しつぎょうしゃ増大ぞうだいでかねてから不穏ふおん空気くうきただよっていたフランスおう[[パリ]]で[[1848ねん]]2がつ22にち暴動ぼうどう発生はっせいし、24にちに[[フランスおう]][[ルイ・フィリップ (フランスおう)|ルイ・フィリップ]]が王位おういわれて[[フランスだい共和きょうわせい|共和きょうわせい]]政府せいふ樹立じゅりつされる事件じけん発生はっせいした([[1848ねんのフランス革命かくめい|2がつ革命かくめい]]){{#tag:ref|ルイ・フィリップおうは1830ねんの[[フランス7がつ革命かくめい|7がつ革命かくめい]]で[[復古ふっこ王政おうせい]]が打倒だとうされたのち、ブルジョワにささえられて王位おういき、おおくの自由じゆう主義しゅぎ改革かいかくおこなった人物じんぶつである。しかしその治世ちせいちゅう労働ろうどうしゃ階級かいきゅう台頭たいとうするようになり、労働ろうどう運動うんどう激化げきかした。1839ねん社会しゃかい主義しゅぎしゃ[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]の一揆いっき発生はっせいしたことがきっかけで保守ほしゅつよめ、ギゾーを中心ちゅうしんとした専制せんせい政治せいじおこなうようになった<ref>[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.157-158</ref>。1847ねん恐慌きょうこう失業しつぎょうしゃすう増大ぞうだい社会しゃかいてき混乱こんらんして革命かくめい前夜ぜんや空気くうきただよはじめた。そして1848ねん2がつ22にち、パリで選挙せんきょほう改正かいせい運動うんどう政府せいふ弾圧だんあつされたのがきっかけで暴動ぼうどう発生はっせい<ref name="小牧こまき(1966)168">[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.168</ref>。23にちにはギゾーが首相しゅしょうし、24にちにはルイ・フィリップおう国外こくがいのがれる事態じたいとなったのである<ref name="石浜いしはま(1931)160">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.160</ref><ref name="ウィーン(2002)151">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.151</ref>。|group=注釈ちゅうしゃく}}<ref>[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.158-160</ref><ref name="小牧こまき(1966)168">[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.168</ref>。この2がつ革命かくめい影響えいきょうのヨーロッパ諸国しょこくにも急速きゅうそく波及はきゅうし、近代きんだいヨーロッパの転換てんかんてんとなった<ref>{{Cite web|和書わしょ|title=1848ねん革命かくめいとは|url=https://kotobank.jp/word/1848%E5%B9%B4%E9%9D%A9%E5%91%BD-847643|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。
 
{{かりリンク|ドイツ連邦れんぽう議会ぎかい (ドイツ連邦れんぽう)|label=ドイツ連邦れんぽう議会ぎかい|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}議長ぎちょうこくである[[オーストリア帝国ていこく]]の帝都ていと[[ウィーン]]では3がつ13にち学生がくせい市民しみんらの運動うんどうにより宰相さいしょう[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が辞職じしょくしてイギリスに亡命ぼうめいすることを余儀よぎなくされ、皇帝こうてい[[フェルディナント1せい (オーストリア皇帝こうてい)|フェルディナント1せい]]も一時いちじウィーンをはなれる事態じたいとなった。オーストリア支配しはいの[[ハンガリー]]や[[ボヘミア]]、きたイタリアでは民族みんぞく運動うんどう激化げきか。イタリア諸国しょこくの[[イタリア統一とういつ運動うんどう]]も刺激しげきされた<ref name="石浜いしはま(1931)162">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.162</ref>。プロイセンおうベルリンでも3がつ18にち市民しみん蜂起ほうきし、よく19にちには国王こくおうフリードリヒ・ヴィルヘルム4せい国王こくおうぐんをベルリン市内しないから退去たいきょさせ、みずか市民しみんぐん管理かんりはいり、自由じゆう主義しゅぎないかく組閣そかく憲法けんぽう制定せいてい、{{かりリンク|プロイセン国民こくみん議会ぎかい|de|Preußische Nationalversammlung}}の創設そうせつ、[[ドイツ統一とういつ]]運動うんどう承諾しょうだくあたえた<ref name="石浜いしはま(1931)163">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.163</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)257-258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.257-258</ref>。のドイツしょくにでも次々つぎつぎおなじような蜂起ほうき発生はっせいした<ref>[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.162-163</ref>。そして自由じゆう都市とし[[フランクフルト・アム・マイン]]にドイツ統一とういつ憲法けんぽう制定せいていするためのドイツ国民こくみん議会ぎかい([[フランクフルト国民こくみん議会ぎかい]])が設置せっちされるにいたった{{Efn|こうしたドイツにおける1848ねん革命かくめいは「3がつ革命かくめい」とばれる。}}<ref name="小牧こまき(1966)169">[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.169</ref>。
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==== ケルン移住いじゅうと『しんライン新聞しんぶん発行はっこう ====
[[File:Neue Rheinische Zeitung N.jpg|180px|thumb|『[[しんライン新聞しんぶん]]』1848ねん6がつ19にちごう]]
マルクスとその家族かぞくは4がつ上旬じょうじゅんにプロイセンりょうライン地方ちほう[[ケルン]]にはいった<ref name="ウィーン(2002)158"/>。革命かくめい扇動せんどうおこなうためのあらたな新聞しんぶん発行はっこう準備じゅんび開始かいししたが、苦労くろうしたのは出資しゅっししゃつのることだった。ヴッパータールへ資金しきんあつめにいったエンゲルスはほとんど成果せいかげられずにもどってきた<ref name="石浜いしはま(1931)173">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.268</ref>。結局けっきょくマルクスみずからがまわって4がつ中旬ちゅうじゅんまでには自由じゆう主義しゅぎブルジョワの出資しゅっししゃ複数ふくすうつけることができた<ref name="カー(1956)86"/><ref name="石浜いしはま(1931)173"/>。ケルンの小規模しょうきぼ実業じつぎょう専門せんもんしょくからの資金しきん提供ていきょうや、マルクスも相続そうぞくきん一部いちぶし、13000ターラーあつまった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=285}}
マルクスとその家族かぞくは4がつ上旬じょうじゅんにプロイセンりょうライン地方ちほう[[ケルン]]にはいった<ref name="ウィーン(2002)158"/>。
 
革命かくめい扇動せんどうおこなうためのあらたな新聞しんぶん発行はっこう準備じゅんび開始かいししたが、苦労くろうしたのは出資しゅっししゃつのることだった。ヴッパータールへ資金しきんあつめにいったエンゲルスはほとんど成果せいかげられずにもどってきた<ref name="石浜いしはま(1931)173">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.268</ref>。結局けっきょくマルクスみずからがまわって4がつ中旬ちゅうじゅんまでには自由じゆう主義しゅぎブルジョワの出資しゅっししゃ複数ふくすうつけることができた<ref name="カー(1956)86"/><ref name="石浜いしはま(1931)173"/>。
 
あらたな新聞しんぶん名前なまえは『[[しんライン新聞しんぶん]]』とまった。創刊そうかん予定よてい当初とうしょ7がつ1にちさだめられていたが、封建ほうけん勢力せいりょく反転はんてん攻勢こうせい阻止そしするためには一刻いっこく猶予ゆうよゆるされないとあせっていたマルクスは、創刊そうかんを6がつ1にちはやめさせた{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=88-91}}<ref name="カー(1956)86"/><ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>同紙どうしはマルクスを編集へんしゅうちょうとして、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集へんしゅういんとして参加さんかした<ref name="石浜いしはま(1931)173"/><ref name="ウィーン(2002)159"/>。マルクスの年俸ねんぽうは1500ターラーで、いままででもっとめぐまれた環境かんきょうになった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=287}}
 
同紙どうしはマルクスを編集へんしゅうちょうとして、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集へんしゅういんとして参加さんかした<ref name="石浜いしはま(1931)173"/><ref name="ウィーン(2002)159"/>。しかしマルクスは同紙どうし運営うんえい独裁どくさいてきおこない、{{かりリンク|ステファン・ボルン|de|Stephan Born}}からは「どんなに暴君ぼうくん忠実ちゅうじつつかえる臣下しんかであってもマルクスの無秩序むちつじょ専制せんせいにはついていかれないだろう」とひょうされた。マルクスの独裁どくさいぶりは親友しんゆうのエンゲルスからさえも指摘してきされた{{#tag:ref|マルクスの独裁どくさいぶりを象徴しょうちょうするのがケルン労働ろうどうしゃ協会きょうかい会長かいちょう共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめいにも所属しょぞくしていた{{かりリンク|アンドレアス・ゴットシャルク|de|Andreas Gottschalk}}をつまらないことではげしく糾弾きゅうだんしたことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめいから離脱りだつしてしまった。マルクスのゴットシャルク批判ひはん方針ほうしん相違そういでは説明せつめいがたい。フランシス・ウィーンは、「嫉妬しっとがからんでいたということだけはえるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分じぶん統括とうかつにない組織そしき機関きかん批判ひはんてきだったし、まずしいひとたちへの医療いりょう活動かつどうられる医者いしゃのゴットシャルクは編集へんしゅう発行はっこうじんのマルクスよりおおくの信奉しんぽうしゃていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。|group=注釈ちゅうしゃく}}<ref name="ウィーン(2002)159"/>。
 
同紙どうしは「共産きょうさん主義しゅぎ機関きかん」ではなく「民主みんしゅ主義しゅぎ機関きかん」と銘打めいうっていたが、これは出資しゅっししゃへの配慮はいりょ、また封建ほうけん主義しゅぎ打倒だとうまではブルジョワ自由じゆう主義しゅぎ連携れんけいしなければいけないという『共産党きょうさんとう宣言せんげん』でしめした方針ほうしんもとづく戦術せんじゅつだった{{sfn|佐々木ささき|2016|pp=88-91}}<ref name="小牧こまき(1966)172">[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.172</ref><ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref><ref name="石浜いしはま(1931)174">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.174</ref>。
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==== 革命かくめい衰退すいたい ====
[[File:Meissonier Barricade.jpg|180px|thumb|パリの[[6がつ蜂起ほうき]]でフランスぐん殲滅せんめつされた蜂起ほうき労働ろうどうしゃたちの死体したいえがいた絵画かいが]]
しかし革命かくめい機運きうんおとろえていく一方いっぽうだった。「反動はんどう本拠地ほんきょち」ロシアにはついに革命かくめい波及はきゅうせず、[[4がつ10日とおか]]にはイギリスで[[チャーティスト運動うんどう]]がおさまれた<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref>。[[6がつ23にち]]にはフランス・パリで労働ろうどうしゃ蜂起ほうき発生はっせいするも([[6がつ蜂起ほうき]])、[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍しょうぐんひきいるフランスぐんによって徹底的てっていてき鎮圧ちんあつされた<ref name="カー(1956)86"/><ref name="エンゲルベルク(1996)279"/>。この事件じけんはヨーロッパ各国かっこく保守ほしゅ勇気ゆうきづけ、保守ほしゅ本格ほんかくてき反転はんてん攻勢こうせい狼煙のろしとなった<ref name="石浜いしはま(1931)174"/><ref name="エンゲルベルク(1996)278">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.278</ref>。[[ヨーゼフ・フォン・ラデツキー]][[元帥げんすい (ドイツ)|元帥げんすい]]ひきいる[[オーストリアぐん]]が[[ロンバルディア]](きたイタリア)に出動しゅつどうしてイタリア民族みんぞく運動うんどう鎮圧ちんあつすることに成功せいこうし、オーストリアはヨーロッパ保守ほしゅ大国たいこく地位ちいもどした<ref name="エンゲルベルク(1996)280">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.280</ref>。プロイセンでは革命かくめい以来いらい[[ルドルフ・カンプハウゼン]]や{{かりリンク|ダーヴィト・ハンゼマン|de|David Hansemann}}の自由じゆう主義しゅぎないかく発足ほっそくしていたが、かれらもどんどん封建ほうけん主義しゅぎ勢力せいりょく妥協だきょうてきになっていた<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.271-272</ref>。5月から開催かいさいされていたフランクフルト国民こくみん議会ぎかいなつあいだ不和ふわ空回からまわりした議論ぎろんつづけ、ドイツ統一とういつのための有効ゆうこうてなかった<ref name="カー(1956)87"/>。
 
革命かくめい破局はきょくときせまっていることに危機ききかんいたマルクスは、『しんライン新聞しんぶん』で「ハンゼマンの内閣ないかく曖昧あいまい矛盾むじゅんした任務にんむたしていくなかで、いまようやくてられようとしているブルジョワ支配しはい内閣ないかく反動はんどう封建ほうけん分子ぶんしかれつつあることにづいているはずだ。このままではとおざからず内閣ないかく反動はんどうによってつぶされるだろう。ブルジョワはもっと民主みんしゅ主義しゅぎてき行動こうどうし、ぜん人民じんみん同盟どうめいしゃにするのでなければ自分じぶんたちの支配しはいることなどできないということを自覚じかくせよ」「ベルリン国民こくみん議会ぎかいごとならべ、利口りこうぶってるだけで、なんの決断けつだんりょくもない」「ブルジョワは、もっと自然しぜん同盟どうめいしゃである農民のうみん平気へいき裏切うらぎっている。農民のうみん協力きょうりょくがなければブルジョワなど貴族きぞくまえでは無力むりょくだということをれ」とブルジョワの革命かくめい不徹底ふてってい批判ひはんした<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.272-273/290</ref>。
286 ⟶ 287ぎょう:
6がつ初旬しょじゅんに「プファルツ革命かくめい政府せいふ外交がいこうかん」としょうして[[偽造ぎぞうパスポート]]でフランスに入国にゅうこく。パリの{{かりリンク|リールどおり|fr|Rue de Lille (Paris)}}に居住きょじゅうし、「ランボス」という偽名ぎめい文無もんなしの潜伏せんぷく生活せいかつ開始かいしした<ref name="ReferenceB">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。ラッサールやフライリヒラートからかね無心むしんをして生計せいけいてた<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1かん]] p.319</ref>。
 
このころのフランスはナポレオンのおいにあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(のフランス皇帝こうてい[[ナポレオン3せい]])が大統領だいとうりょうつとめていた<ref>[[#鹿島かしま(2004)|鹿島かしま(2004)]] p.63-68</ref>。ルイ・ボナパルトはカトリック保守ほしゅ{{かりリンク|[[秩序ちつじょとう|fr|Parti de l'Ordre (1848)}}]]支持しじて、教皇きょうこうのローマ帰還きかん支援しえんすべく、たい[[ローマ共和きょうわこく (19世紀せいき)|ローマ共和きょうわこく]]戦争せんそう遂行すいこうしていたが、左翼さよく勢力せいりょくがこれに反発はんぱつし、[[6がつ13にち]]に蜂起ほうき発生はっせいした。しかしこの蜂起ほうきはフランスぐんによって徹底的てっていてき鎮圧ちんあつされ、フランスの左翼さよく勢力せいりょく壊滅かいめつてき打撃だげきけた(6がつ事件じけん)<ref name="ReferenceB"/><ref name="鹿島かしま(2004)79">[[#鹿島かしま(2004)|鹿島かしま(2004)]] p.79</ref>。
 
この事件じけん影響えいきょうでフランス警察けいさつ外国がいこくじん監視かんしつよまり、偽名ぎめい生活せいかつしていたマルクスも8がつ16にちにパリ行政ぎょうせい長官ちょうかんから[[モルビアンけん]]へ退去たいきょするよう命令めいれいけた。マルクス一家かずや命令めいれいどおりにモルビアンへ移住いじゅうしたが、ここは{{かりリンク|ポンティノ湿地しっち|fr|Marais pontins}}の影響えいきょうで[[マラリア]]が流行りゅうこうしていた。このままでは自分じぶん家族かぞく病死びょうしすると確信かくしんしたマルクスは、「フランス政府せいふによる陰険いんけん暗殺あんさつ計画けいかく」からのがれるため、フランスからも出国しゅっこくする覚悟かくごかためた<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。
334 ⟶ 335ぎょう:
共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい本部ほんぶをケルンにうつしたことは完全かんぜん失敗しっぱいだった。[[1851ねん]]5がつから6がつにかけて共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい著名ちょめいなメンバー11にん大逆だいぎゃくざい容疑ようぎでプロイセン警察けいさつによって摘発てきはつされてしまったのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147-149</ref><ref name="小牧こまき(1966)178">[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.178</ref>。しかもこの摘発てきはつめいじたのはマルクスの義兄ぎけい(イェニーのあに)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時とうじプロイセン内務ないむ大臣だいじん)だった。フェルディナントは今回こんかい陰謀いんぼう事件じけんがどれほど悪質あくしつであったか、その陰謀いんぼう背後はいごにいるマルクスがいかにおそろしいことをたくらんでいるかをとうとうと宣伝せんでんした<ref name="シュワルツシルト(1950)271">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.271</ref>。これに対抗たいこうしてマルクスは11にん無罪むざいになるようまわったものの、ロンドンで証拠しょうこ収集しゅうしゅうしてプロイセンの法廷ほうていおくるというのはむずかしかった。そもそも暴動ぼうどう教唆きょうさする文書ぶんしょしたのは事実じじつだったから、それを無害むがいなものと立証りっしょうするのは不可能ふかのうちかかった。結局けっきょく[[1852ねん]]10がつひらかれた法廷ほうてい被告人ひこくにん11にんのうち7にん有罪ゆうざいとなり、共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい壊滅かいめつてき打撃だげきけるにいたった(ケルン共産党きょうさんとう事件じけん)<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref><ref>[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.207-209</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)273">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.273</ref>。
 
これをけてさすがのマルクスも共産きょうさん主義しゅぎしゃ同盟どうめい存続そんぞくあきらめ、1852ねん[[11月17にち]]に正式せいしき解散かいさん決議けつぎした<ref name="小牧こまき(1966)178"/>。以降いこうマルクスは10ねん以上いじょうものあいだ組織そしき活動かつどうからとおざかることになる<ref name="カー(1956)151"/>。1853ねん10がつにマルクスはエンゲルスに「どんなとうとも関係かんけいをもたない」と宣言せんげんし、以降いこう、マルクスは政治せいじ活動かつどうとの共闘きょうとう放棄ほうきした{{Sfn|スパーバー|2015b|p=8}}
 
==== ナポレオン3せいとの闘争とうそう ====
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ハーグ大会たいかいさい、エンゲルスが自分じぶんとマルクスの意志いしとしてそう評議ひょうぎかいをアメリカ・[[ニューヨーク]]にうつすことを提起ていきした。エンゲルスはその理由りゆうとして「アメリカの労働ろうどうしゃ組織そしきには熱意ねつい能力のうりょくがある」と説明せつめいしたが、そうした説明せつめい納得なっとくするものすくなかった。インターナショナル・アメリカ支部しぶはあまりに小規模しょうきぼだった<ref name="ReferenceC">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref><ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref>。エンゲルスの提案ていあん僅差きんさ可決かけつされたものの、「ニューヨークにうつすぐらいならつきうつしたほうがまだのぞみがある」などという意見いけんまで始末しまつだった<ref name="バーリン(1974)274"/><ref name="ウィーン(2002)413">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.413</ref>。『[[スペクテイター (1828ねん創刊そうかん雑誌ざっし)|ザ・スペクテイター]]』も「もはやコミューンの運気うんきもその絶頂ぜっちょうぎたようだ。絶頂ぜっちょう自体じたいさほどたかものでもなかったが。そこがロシアでもないかぎり、ふたた運動うんどうがることはないだろう」と嘲笑ちょうしょうてきほうじた<ref name="ウィーン(2002)413"/>。
 
なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案ていあんをしたのか、という問題もんだいについては議論ぎろんがある。マルクスは大会たいかいまえ引退いんたいをほのめかす個人こじんてき心境しんきょうを{{かりリンク|ルイス・クーゲルマン|en|Louis Kugelmann}}にけており、かれが『資本しほんろん』の執筆しっぴつのために総評そうひょう議員ぎいんをやめたがっていたことは周知しゅうち事実じじつだった。このことから、マルクスはインターナショナルをわらせるためにこのような提案ていあんをしたのだという見解けんかいがでてくる<ref name="ReferenceC"/>。しかしこのせつには疑問ぎもんのこる。というのも、ハーグ大会たいかいでマルクスたちはむしろそう評議ひょうぎかい権限けんげん強化きょうかしているし、大会たいかいのマルクスとエンゲルスの往復おうふく書簡しょかん内容ないようはどのようにんでもかれらがインターナショナルを見限みかぎったと解釈かいしゃくできるものではないからだ。したがってもうひとつのせつとして、マルクスは本部ほんぶをアメリカにうつすことによってインターナショナルを危機ききからとおざけ、ハーグ大会たいかいでの「政治せいじ権力けんりょく獲得かくとくのための政党せいとう組織そしき」(規約きやくだい7じょう付則ふそく)の決議けつぎ沿うようにアメリカで社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう結成けっせい支援しえんしていたインターナショナルの幹部かんぶ{{かりリンク|フリードリヒ・ゾルゲ|en|Friedrich Sorge}}らアメリカのマルクス主義まるくすしゅぎしゃつうじてその勢力せいりょくたもとうとしたのではないか、という解釈かいしゃくまれる<ref>[[渡辺わたなべ孝次たかじ(1996)『時計とけい職人しょくにんとマルクス』同文どうぶんかん|渡辺わたなべ孝次たかじ(1996)『時計とけい職人しょくにんとマルクス』同文どうぶんかんp]]p.309-310</ref>。
 
しかし結局けっきょくのところ、アメリカでのインターナショナルの歴史れきしながくなかった。最終さいしゅうてきには1876ねんの[[フィラデルフィア]]大会たいかいにおいて解散かいさん決議けつぎされ、そのみじか歴史れきしえることとなった{{efn|インターナショナルの再建さいけんにはその13ねんようし、マルクスはすで他界たかいしている。再建さいけんされた[[だいインターナショナル]]は、[[イギリス労働党ろうどうとう]]、[[フランス社会党しゃかいとう (SFIO)|フランス社会党しゃかいとう]]、[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]、[[ロシア社会しゃかい民主党みんしゅとう]]といった有力ゆうりょく政党せいとうかかえるヨーロッパの一大いちだい政治せいじ組織そしきになった。だいインターナショナルはドイツの[[ベルンシュタイン]]からロシアの[[レーニン]]まで多様たよう政治せいじてき色彩しきさいをもつ党派とうは連合体れんごうたいだった。}}<ref name="ウィーン(2002)416"/>。
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この合同ごうどうさいしてりょうとう統一とういつ綱領こうりょうとしてつくられたのが{{かりリンク|ゴータ綱領こうりょう|de|Gothaer Programm}}だった。ラッサールかずうえ優位ゆういであったにもかかわらず、綱領こうりょう作成さくせいさいして主導しゅどうけんにぎることはなかった。かれらはすでにラッサールの民族みんぞく主義しゅぎてき立場たちば労働ろうどう組合くみあいへの不信ふしんかん放棄ほうきしていたためである。そのためほぼアイゼナハ綱領こうりょうおな綱領こうりょうとなった<ref name="カー(1956)395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.395</ref>。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領こうりょうおくって承認しょうにんようとしたが、マルクスはこれをはげしく批判ひはんする返事へんじをリープクネヒトにおくり、エンゲルスにもおなじような手紙てがみおくらせた<ref name="バーリン(1974)276"/>。
 
このとき書簡しょかん編纂へんさんしてマルクスの死後しごにエンゲルスが出版しゅっぱんしたものが『[[ゴータ綱領こうりょう批判ひはん]]』である{{efn|マルクス優勢ゆうせいになったドイツ社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとうは、1891ねんに[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]と党名とうめい変更へんこうし[[エルフルト綱領こうりょう]]を制定せいていした<ref>{{Cite web|和書わしょ|title=ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-102966|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。このなかで、エンゲルスは『ゴータ綱領こうりょう批判ひはん』を出版しゅっぱんしラサール主義しゅぎいろつよいゴータ綱領こうりょう批判ひはんした<ref>{{Cite web|和書わしょ|title=ゴータ綱領こうりょうとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B6%B1%E9%A0%98-65096|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。}}。マルクスかられば、この綱領こうりょう最悪さいあくてきである国家こっか正当せいとうせいれて「労働ろうどうたいする正当せいとう報酬ほうしゅう」や「相続そうぞくほう廃止はいし」といったちいさな要求ようきゅう平和へいわてき宣伝せんでんしていれば社会しゃかい主義しゅぎ到達とうたつできるという迷信めいしん立脚りっきゃくしたものであり、結局けっきょく国家こっかささえ、資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいささえる結果けっかになるとした<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。
 
マルクスは、綱領こうりょう無意味むいみ語句ごく曖昧あいまい自由じゆう主義しゅぎてき語句ごくりばめられていると批判ひはんした<ref name="バーリン(1974)277"/>。とりわけ「公平こうへい」という不明瞭ふめいりょう表現ひょうげんつよ反発はんぱつした<ref name="カー(1956)396">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.396</ref>。自分じぶん著作ちょさく引用いんよう部分ぶぶんについてもあらさがしの調子ちょうし批判ひはんおこなった<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。ラッサール影響えいきょうけているとおもわれる部分ぶぶんはとりわけつよ調子ちょうし批判ひはんした。綱領こうりょうなかにある「労働ろうどうしゃ階級かいきゅうはまず民族みんぞく国家こっかなかで、その解放かいほうのためにはたらく」については「さぞかしビスマルクのくちうことだろう」と批判ひはんし<ref name="カー(1956)397"/>。「[[賃金ちんぎん鉄則てっそく]]」はラッサールがリカードからぬすんだものであり、そのような言葉ことば綱領こうりょうれたのはラッサールへの追従ついしょうあかしであると批判ひはんした<ref name="カー(1956)397"/>。
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葬儀そうぎでエンゲルスは「この人物じんぶつによって、欧米おうべい戦闘せんとうてきプロレタリアートが、また歴史れきし科学かがくこうむった損失そんしつはかれないものがある」「[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が有機ゆうきかい発展はってん法則ほうそく発見はっけんしたようにマルクスは人間にんげん歴史れきし発展はってん法則ほうそく発見はっけんした」「マルクスはなによりもまず革命かくめいであった。資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいとそれによってつくされた国家こっか制度せいど転覆てんぷくさせることになんらかの協力きょうりょくをすること、近代きんだいプロレタリアート解放かいほうのために協力きょうりょくすること、これが生涯しょうがいをかけたかれ本当ほんとう仕事しごとであった」「かれいくひゃくまん革命かくめいてき同志どうしから尊敬そんけいされ、あいされ、かなしまれながらった。同志どうしは[[シベリア]]の鉱山こうざんから[[カリフォルニア]]の海岸かいがんまで全欧ぜんおうまいおよんでいる。かれは、そしてかれ仕事しごともまたすう世紀せいきつうじてつづけるであろう」と弔辞ちょうじべた<ref name="ReferenceD"/><ref>[[#小牧こまき(1966)|小牧こまき(1966)]] p.221-222</ref>。
 
マルクスの死後しご、イギリスでは[[労働党ろうどうとう (イギリス)|労働党ろうどうとう]]が1922ねん労働党ろうどうとう政権せいけん誕生たんじょうさせる。フランスでは1936ねん社会党しゃかいとう共産党きょうさんとうによる[[人民戦線じんみんせんせん]]内閣ないかく誕生たんじょう。ドイツでは[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]がワイマール共和きょうわこくなが政権せいけん担当たんとうする。そしてロシアでは[[レーニン]]の指導しどうする[[ロシア革命かくめい]]をて、[[ソヴィエト連邦れんぽう]]が誕生たんじょうした。
 
マルクスの遺産いさんは250ポンド程度ていどであり、家具かぐ書籍しょせきがその大半たいはんめた。それらやマルクスの膨大ぼうだい遺稿いこうはすべてエンゲルスにあづけられた。エンゲルスはマルクスの遺稿いこう整理せいりして、1885ねん7がつに『資本しほんろんだい2かん、さらに1894ねん11月にだい3かん出版しゅっぱんする{{#tag:ref|『資本しほんろんだい4こと『[[剰余じょうよ価値かち学説がくせつ]]』は、エンゲルスの死後しご[[カール・カウツキー]]の編集へんしゅう出版しゅっぱんされたが、これが本文ほんぶん改竄かいざんふくんでいるという理由りゆうで、ソ連それんマルクス=レーニン主義しゅぎ研究所けんきゅうじょにより編集へんしゅうなおされた。これは構成こうせいおよびかくふし小見出こみだしがうえ研究所けんきゅうじょになるものである。その編集へんしゅう草稿そうこう状態じょうたい再現さいげんした「1861-63ねん経済けいざいがく草稿そうこう」が日本語にほんごやくでも出版しゅっぱんされている。『資本しほんろん』にかんするもの以外いがいにもマルクス、エンゲルスの死後しご発見はっけんされた著作ちょさくやノートには同様どうよう問題もんだいをはらんでいるものがあり、とくに1932ねんのいわゆるきゅうMEGAに収録しゅうろくされた『[[ドイツ・イデオロギー]]』は原稿げんこうならえがおこなわれ、[[廣松ひろまつわたる]]から「偽書ぎしょ」と批判ひはんされた(詳細しょうさいは『しん編輯へんしゅうばん ドイツ・イデオロギー』(岩波いわなみ文庫ぶんこ)の「解説かいせつ」および『廣松ひろまつわたる著作ちょさくしゅう』、岩波書店いわなみしょてんだいはちかん参照さんしょう)。『経済けいざいがく哲学てつがく草稿そうこう』はきゅうMEGAばん、ディーツばん、ティアーばんなどのかくはん順序じゅんじょ収録しゅうろくされた原稿げんこうことなる<ref>『経済けいざいがく哲学てつがく草稿そうこう』、岩波いわなみ文庫ぶんこばん、p.298</ref>。|group=注釈ちゅうしゃく}}<ref name="ウィーン(2002)461">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461</ref><ref name="石浜いしはま(1931)284">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.284</ref>。[[2013ねん]]に『共産党きょうさんとう宣言せんげん』とともに『資本しほんろん初版しょはんだい1が[[国際こくさい連合れんごう教育きょういく科学かがく文化ぶんか機関きかん]](ユネスコ)の[[世界せかい記憶きおく]]に登録とうろくされた<ref>[http://www.unesco.de/kommunikation/mow/mow-deutschland/kommunistisches-manifest.html Schriften von Karl Marx: "Das Manifest der Kommunistischen Partei" (1848) und "Das Kapital", ernster Band (1867)]</ref>。
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|File:Karl Marx First Grave.jpg|マルクスのもともとのはか(ロンドン、[[ハイゲイト墓地ぼち]])
|File:KarlMarx Tomb.JPG|1954ねんうつされたマルクスのあたらしいはか(ロンドン、ハイゲイト墓地ぼち
|File:Karl Marx in North Korea.jpg|マルクスの肖像しょうぞう([[朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく|北朝鮮きたちょうせん]]・[[平壌ぴょんやん直轄ちょっかつ|平壌ぴょんやん]]・外国がいこく貿易ぼうえきしょう
|File:Bundesarchiv Bild 183-19400-0029, Berlin, Marx-Engels-Platz, Demonstration.jpg|マルクス、エンゲルス、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像しょうぞうかかげての行進こうしんひがしドイツ・ベルリンの{{かりリンク|シュロース広場ひろば|label=マルクス・エンゲルス広場ひろば|de|Schloßplatz (Berlin)}})
|File:USSR-1983-1ruble-CuNi-Marx165-b.jpg|没後ぼつご100周年しゅうねん記念きねん1[[ロシア・ルーブル|ルーブル]]硬貨こうか(1983ねん発行はっこう
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マルクス出納すいとうちょう収入しゅうにゅうたいしてしばしば支出ししゅつ上回うわまわっていたが、マルクス自身じしん贅沢ぜいたくにも虚飾きょしょくにも関心かんしんがない人間にんげんだった<ref name="ウィーン(2002)81">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.81</ref>。マルクスおも出費しゅっぴは、マルクスの仕事しごと関係かんけいだったり、家族かぞく中流ちゅうりゅう階級かいきゅう教育きょういくいをするためのものが大半たいはんだった。マルクスは極貧ごくひんのなかでもさんにんむすめ中流ちゅうりゅう階級かいきゅうとして相応ふさわしい教養きょうようをつけるための出費しゅっぴしまなかったが、そのためにいつも借金取しゃっきんとりや大家たいかわれていた。
 
マルクスは他者たしゃからの金銭きんせん支援しえん生活せいかつしており、定職ていしょくくことがなかったため時間じかんてき精神せいしんてき余裕よゆうがあり、当時とうじ労働ろうどうしゃかんがえる余裕よゆうかったことにめている。前述ぜんじゅつのようにいちだけ鉄道てつどう改札かいさつがかり応募おうぼしているが、あまりにきたないためことわられているかれ出版しゅっぱんのために他者たしゃわたしたモノはすべつまイエニーなど他者たしゃ清書せいしょしてもらったものである。)、マルクス収入しゅうにゅうはジャーナリストとしてのわずかな収入しゅうにゅうと、エンゲルスをはじめとする友人ゆうじん知人ちじん資金しきん援助えんじょ、マルクスやヴェストファーレン遺産いさん相続そうぞくなどがおもだった。エンゲルスの支援しえん金額きんがくについて、後年こうねんにマルクスになによわみをにぎられているのではないかと指摘してきされているほど莫大ばくだいである<ref name=":0" /><ref name="メーリング(1974,1)319" />友人ゆうじんたちからの資金しきん援助えんじょはしばしばごとたねになった。ルーゲやラッサールが主張しゅちょうしたところをしんじれば、かれらとマルクスとの関係かんけい断絶だんぜつした理由りゆう金銭きんせん問題もんだいだった。1850ねんにはラッサールとフライリヒラートに資金しきん援助えんじょうたさい、フライリヒラートがそのことを周囲しゅういらしたことがあり、マルクスは苛立いらだって「おおっぴらに乞食こじきをするぐらいなら最悪さいあく窮境きゅうきょうおちいったほうがましだ。だからわたしかれ手紙てがみいた。このいちけんわたしくちではいいあらわせないほどはらてている」といている<ref name="メーリング(1974,1)319"/>。エンゲルスのつまメアリーの訃報ふほう返信へんしんとして、マルクスが家計かけい窮状きゅうじょううったえたことでかれらの友情ゆうじょう危機ききおとずれたこともある<ref name="ウィーン(2002)315">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.315-319</ref>。しかしエンゲルスは生涯しょうがいにわたってつねにマルクスを物心ぶっしん両面りょうめんささつづけた。『資本しほんろん』が完成かんせいしたとき、マルクスはエンゲルスにたいして「きみがいなければ、わたしはこれを完成かんせいさせることはできなかっただろう」と感謝かんしゃした<ref name="ウィーン(2002)357">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.357</ref>。
 
== 人間にんげん関係かんけい批判ひはん ==
マルクスは[[亡命ぼうめいしゃ]]だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命ぼうめいしゃコミュニティのなか生活せいかつした。
 
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=== 各国かっこくかん ===
プロイセン政府せいふわれてからのマルクスは、基本きほんてきに[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]で、『[[共産党きょうさんとう宣言せんげん]]』には「プロレタリアは祖国そこくたない」という有名ゆうめい記述きじゅつがある。しかし、そのつづきで「ブルジョアの意味いみとはまったくちがうとはいえ、プロレタリア自身じしんやはり民族みんぞくてきである」ともべている<ref>共産党きょうさんとう宣言せんげんだいしょう</ref>。ヨーロッパ列強れっきょう支配しはいされていたポーランドやアイルランドの民族みんぞく主義しゅぎについては支援しえんする一方いっぽう労働ろうどう貴族きぞく形成けいせいされつつあったイギリスの労働ろうどうしゃ階級かいきゅうや、ナポレオンさんせい戴冠たいかんゆるしたフランスの労働ろうどうしゃ階級かいきゅうのナショナリズムにはしばしばきびしい批判ひはんおこなっている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.244-245</ref>。他方たほう、イギリスの[[チャーチスト運動うんどう]]やフランスの[[パリコミューン]]を遂行すいこうした労働ろうどうしゃ階級かいきゅう意識いしき評価ひょうかするなど、マルクスの各国かっこくかん民族みんぞくてき偏見へんけんというよりはむしろ階級かいきゅう意識いしき評価ひょうか基準きじゅんだった<ref name="ウィーン(2002)391"/>。{{よう出典しゅってん範囲はんい|date=2021ねん10がつ|またマルクス自身じしんはドイツじんだったが、自分じぶんをほとんどドイツじんとは認識にんしきしていなかったようである。}}プロイセン政府せいふ専制せんせい体制たいせい評価ひょうかし、これを批判ひはんしていた。
 
じゅうきゅう世紀せいき、[[ヨーロッパの憲兵けんぺい]]としてはん革命かくめいとりでだったロシアには非常ひじょう当初とうしょきびしい評価ひょうかくだしている。E.H.カーはこれをスラブじんたいするドイツてき偏見へんけん解釈かいしゃくしていた<ref name="カー(1956)183">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.183</ref>。マルクス自身じしんはロシアの将来しょうらいについて、「もし農民のうみん決起けっきするなら、ロシアのいちななきゅうさんねんとおくないであろう。このはんアジアてき農奴のうどのテロル支配しはい史上しじょう比類ひるいないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝たいていのにせの改革かいかくにつぐ、ロシア史上しじょうだい転換てんかんてんとなり、つぎはほんとうの普遍ふへんてき文明ぶんめいてるだろう」と予測よそくしている(『マルクスエンゲルス全集ぜんしゅう』12かん648ぺーじ)。1861ねんの[[農奴のうど解放かいほうれい]]によって近代きんだいみちあゆはじめて以降いこうのロシアにたいしては積極せっきょくてき評価ひょうかし、[[フロレンスキー]]の『ロシアにおける労働ろうどうしゃ階級かいきゅう状態じょうたい』をみ、「きわめてすさまじい社会しゃかい革命かくめいが-もちろんモスクワの現在げんざい発展はってん段階だんかい対応たいおうしたおとったかたちにおいてではあれ-ロシアではけがたく、まぢかにせまっていることを、痛切つうせつ確信かくしんするだろう。これはよいらせだ。ロシアとイギリスは現在げんざいのヨーロッパの体制たいせいだい支柱しちゅうである。それ以外いがいてき意義いぎしかもたない。うつくしいくにフランスや学問がくもんくにドイツでさえも例外れいがいではない」といている(『マルクス・コレクション7』p.&nbsp;340-342)。さらの2、3ねんまえには「ロシアの村落そんらくてき共同きょうどうたいはもし適当てきとう指導しどうされるなら、未来みらい社会しゃかい主義しゅぎてき秩序ちつじょ萌芽ほうがふくんでいるかもしれぬ」とロシアの革命かくめい[[ヴェラ・ザスーリッチ]]に通信つうしんしている<ref name="カー(1956)316">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.316</ref>。
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完全かんぜん孤立こりつこそが、ふる中国ちゅうごく維持いじするためのだいいち条件じょうけんであった。こうした孤立こりつ状態じょうたいがイギリスの介入かいにゅうによってむりやりにわらされたので、ちょうど封印ふういんされたかん注意ちゅういぶかく保管ほかんされたミイラが外気がいきれると崩壊ほうかいするように、崩壊ほうかい確実かくじつにやってくるにちがいない」<ref>マルクス「中国ちゅうごくとヨーロッパにおける革命かくめい」『マルクス・コレクション6』296-297ぺーじ</ref>。
 
== 評価ひょうか批判ひはん ==
{{Main2|マルクスの経済けいざい理論りろん共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう哲学てつがくへの評価ひょうか批判ひはんについては「'''[[マルクス主義まるくすしゅぎ批判ひはん]]'''」を、マルクスの経済けいざい理論りろんについては[[マルクス経済けいざいがくへの批判ひはん]]を}}
マルクスのことを[[フェルディナント・ラッサール]]は「経済けいざい学者がくしゃになった[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]であり、社会しゃかい主義しゅぎしゃになった[[デヴィッド・リカード|リカード]]」と表現ひょうげんした<ref name="ウィーン(2002)276">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.276</ref>。
 
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歴史れきし学者がくしゃ[[E.H.カー]]は「マルクスは破壊はかい天才てんさいではあったが、建設けんせつ天才てんさいではなかった。かれなにるべきかの認識にんしきにおいては、きわめて見通みとおしがきいた。そのわりになにえるべきかにかんするかれ構想こうそうは、漠然ばくぜんとしていて確実かくじつだった。」「かれぜん体系たいけいおどろくべき自己じこ矛盾むじゅん露呈ろていせられるのはまさにこのてんである」とべつつ、「かれ事業じぎょうもっと弁護べんご結局けっきょくバクーニンの『破壊はかい情熱じょうねつ建設けんせつ情熱じょうねつである』という金言きんげんなか発見はっけんされるかもしれない。」「かれ当面とうめん目標もくひょう階級かいきゅう憎悪ぞうおであり、かれ究極きゅうきょく目的もくてき普遍ふへんてき愛情あいじょうであった。いちかいきゅう独裁どくさい、―これがかれ建設けんせつてき政治せいじがくへの唯一ゆいいつ堅固けんご成功せいこうした貢献こうけんであるが― は階級かいきゅう憎悪ぞうお実現じつげんであり延長えんちょうであった。それがマルクスによってその究極きゅうきょく目的もくてきとして指定していされた普遍ふへんてき愛情あいじょう体制たいせい到達とうたつする可能かのうせいがあるかかは、まだ証明しょうめいされていない」「しかしマルクスの重要じゅうようせいかれ政治せいじ思想しそうせまわくえてひろがっている。ある意味いみでマルクスは20世紀せいき思想しそう革命かくめい全体ぜんたい主唱しゅしょうしゃであり、先駆せんくしゃであった」とひょうしている<ref name="カー(1956)412-413">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.412-413</ref>。
 
政治せいじ哲学てつがくしゃ[[アイザイア・バーリン]]は「マルクスが発展はってんさせたなんらかの理論りろんについて、その直接ちょくせつ源流げんりゅうをたどってみることは比較ひかくてき簡単かんたんなことである。だがマルクスのおおくの批判ひはんしゃはこのことにあまりにもつかいすぎているようにおもえる。かれしょ見解けんかいなかで、その萌芽ほうがかれ以前いぜんどう時代じだい著作ちょさくたちのなかにないようなものは、おそらくなにひとつないといっていい」として、たとえば[[唯物ゆいぶつろん]]は[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]や[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]にうところがおおきいこと、「人類じんるい歴史れきしすべ階級かいきゅう闘争とうそう」とする歴史れきしかんは{{かりリンク|シモン=ニコラ=アンリ・ランゲ|fr|Simon-Nicolas-Henri Linguet}}や[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]が主張しゅちょうしていたこと、「恐慌きょうこう周期しゅうきてき発生はっせい不可避ふかひ」という科学かがくてき理論りろんは[[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ|シスモンディ]]の発見はっけんであること、「だいよんかいきゅう勃興ぼっこう」は初期しょきフランス共産きょうさん主義しゅぎしゃによって主張しゅちょうされたこと、「プロレタリアの疎外そがい」は[[マックス・シュティルナー]]がマルクスより1ねんはや主張しゅちょうしていること、プロレタリア独裁どくさいは[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が設計せっけいしたものであること、[[労働ろうどう価値かちせつ]]は[[ジョン・ロック]]や[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]ら古典こてん経済けいざい学者がくしゃ依拠いきょしていること、[[搾取さくしゅ]]と[[剰余じょうよ価値かちせつ]]も[[シャルル・フーリエ]]がすでに主張しゅちょうしていたこと、それへの対策たいさく国家こっか統制とうせいさくも{{かりリンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、{{かりリンク|ウィリアム・トンプソン (哲学てつがくしゃ)|label=[[ウィリアム・トンプソン|en|William Thompson (philosopher)}}]]、[[トーマス・ホジスキン]]らがすでにろんじていたことなどをバーリンはあげる<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>{{#tag:ref|さらにバーリンはべる。「マルクスは自分じぶん思想しそう思想家しそうかうていることをけっして否定ひていしようとはしなかった。」「マルクスのもとめる指標しひょう目新めあたらしさではなく、真理しんりであった。かれはその思想しそう最終さいしゅうてきかたちはじめたパリ時代じだい初期しょき他人たにん著作ちょさくなか真理しんり発見はっけんすると自己じこあたらしい総合そうごうなかにそれをれようと努力どりょくした」「マルクスはこれら膨大ぼうだい素材そざいをふるいにかけて、そのなかから独創どくそうてき真実しんじつかつ重要じゅうようおもえるものをしてきた。そしてそれらを参照さんしょうしつつ、あたらしい社会しゃかい分析ぶんせき方法ほうほう構築こうちくしたのである。」「この長所ちょうしょ簡明かんめい基本きほんてきしょ原理げんり包括ほうかつてき現実げんじつてきにかつ細部さいぶにわたって見事みごと総合そうごうしたことである」「いかなる現象げんしょうであれもっと重要じゅうよう問題もんだいは、その現象げんしょう経済けいざい構造こうぞうたいしてっている関係かんけい、すなわちこの現象げんしょうをその表現ひょうげんとする社会しゃかい構造こうぞうなかでの経済けいざいりょくしょ関係かんけいかかわるものであると主張しゅちょうすることによって、この理論りろんあたらしい批判ひはん研究けんきゅう道具どうぐつくしたのである。」|group=注釈ちゅうしゃく}}。「社会しゃかい観察かんさつうえって研究けんきゅうおこなっているすべてのひと必然ひつぜんてきにその影響えいきょうけている。あらゆるくにそうあらそ階級かいきゅう集団しゅうだん運動うんどう、その指導しどうしゃのみならず、歴史れきし社会しゃかい学者がくしゃ心理しんり学者がくしゃ政治せいじ学者がくしゃ批評ひひょう創造そうぞうてき芸術げいじゅつは、社会しゃかい生活せいかつ質的しつてき変化へんか分析ぶんせきしようとこころみるかぎり、かれらの発想はっそう形態けいたいだい部分ぶぶんはカール・マルクスの業績ぎょうせきうことになる」「その主要しゅよう原理げんり誇張こちょう単純たんじゅんした適用てきようは、その意味いみおおいに曖昧あいまいし、理論りろん実践じっせん両面りょうめんにわたるおおくの愚劣ぐれつ失策しっさくは、マルクスの理論りろんによっておかされてきた。それにもかかわらず、その影響えいきょうりょく革命かくめいてきであったし、革命かくめいてきでありつづけている」とひょうする<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.18-20/205</ref>。
 
[[城塚じょうつかとう]]はマルクスは元々もともと経済けいざいがくひとではなく、哲学てつがくひとであり、「人間にんげん解放かいほう」という哲学てつがくてき結論けつろんたっしてから経済けいざいがくはいったがゆえに、それまでの国民こくみん経済けいざい学者がくしゃことなる結論けつろんたっしたと主張しゅちょうする<ref name="城塚じょうつか(1970)132">[[#城塚じょうつか(1970)|城塚じょうつか(1970)]] p.132</ref>。
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# 長女ちょうじょ{{かりリンク|ジェニー・ロンゲ|label=ジェニー・カロリーナ|de|Jenny Longuet}}([[1844ねん]]-[[1883ねん]])は、パリ・コミューンに参加さんかしてロンドンに亡命ぼうめいしたフランスじん社会しゃかい主義しゅぎしゃ{{かりリンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}と結婚けっこんした<ref name="石浜いしはま(1931)289">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.289</ref><ref name="ウィーン(2002)392">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.392</ref>。彼女かのじょちちマルクスに先立さきだって1883ねん1がつ死去しきょしている<ref name="石浜いしはま(1931)290">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.290</ref>。
# 次女じじょ{{かりリンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ジェニー・ラウラ|de|Laura Lafargue}}([[1845ねん]]-[[1911ねん]])は、インターナショナル参加さんかのために訪英ほうえいしたフランスじん社会しゃかい主義しゅぎしゃ[[ポール・ラファルグ]]と結婚けっこんしたが、子供こどもはできなかった。ポールとラウラは、社会しゃかい主義しゅぎしゃ老年ろうねんになってプロレタリアのためにはたらけなくなったらいさぎよるべきだ、という意見いけんをもっていて、1911ねんにポールとともに自殺じさつした<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref>。かれらの自殺じさつ当時とうじヨーロッパの社会しゃかい主義しゅぎしゃたちのあいだでセンセーションをこした。
# 長男ちょうなんエドガー(エトガル{{Sfn|スパーバー|2015b|p=9}})([[1847ねん]]-[[1855ねん]]4がつ6にち)は義弟ぎていエドガー・フォン・ヴェストファーレンにちなんでづけられた<ref name="石浜いしはま(1931)134">[[#石浜いしはま(1931)|石浜いしはま(1931)]] p.134</ref>。マルクスはこの長男ちょうなんエドガーをとりわけ可愛かわいがっていた。むすめつめたいわけではなかったが、息子むすこほうにより愛着あいちゃくっていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.261-262</ref>。1855ねん4がつ8さいでなくなったエドガーのにあたってマルクスは絶望ぜつぼうし、この3カ月かげつにラッサールにおくった手紙てがみなかで「しん偉大いだい人々ひとびとは、自然しぜん世界せかいとのおおくの関係かんけい興味きょうみ対象たいしょう数多かずおおっているので、どんな損失そんしつ克服こくふくできるという。そのつてでいけば、わたしはそのような偉大いだい人間にんげんではないようだ。わたししんまでくだいた」といている<ref name="ウィーン(2002)264">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.264</ref>。つま6にんのほかに、メイドとのあいだ男児だんじがいたとされる。
# 次男じなんヘンリー・エドワード・ガイ(ハインリヒ・グイード{{Sfn|スパーバー|2015a|p=326-331}})([[1849ねん]]-[[1850ねん]]11月19にち)はイギリス議会ぎかい爆破ばくは未遂みすいはん[[ガイ・フォークス]]にちなんで名付なづけたが<ref name="ウィーン(2002)182"/>、ディーンどおりに直前ちょくぜんおさなくして突然とつぜんした<ref name="ウィーン(2002)200">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.200</ref>。
# さんじょジェニー・エヴェリン・フランセス(フランツィスカ{{Sfn|スパーバー|2015a|p=332-337}})([[1851ねん]]-[[1852ねん]]4がつ14にち)もディーンどおりの住居じゅうきょ気管支炎きかんしえんによりおさないのちとしている<ref name="ウィーン(2002)211">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.211</ref>。
# よんじょ[[エリノア・マルクス|ジェニー・エリノア]]([[1855ねん]]-[[1898ねん]])は、さんにんむすめたちのなかでも一番いちばんのおてんばであり、マルクスも可愛かわいがっていたむすめだった。とりわけ晩年ばんねんのマルクスは彼女かのじょがわにいないと、いつもさびしそうにしたという<ref name="カー(1956)386-387">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.386-387</ref>。<!-- 彼女かのじょはイギリスじん社会しゃかい主義しゅぎしゃ{{かりリンク|エドワード・エイヴリング|en|Edward Aveling}}と同棲どうせいするが、このエイヴリングはおんなったらしで、{{よう検証けんしょう範囲はんい|やがて女優じょゆう結婚けっこんすることがまるとエリノアが邪魔じゃまになり、彼女かのじょ自殺じさつ意図いと心中しんちゅうのちかけた。エリノアはかれ言葉ことばしんじてかれからわたされた[[青酸せいさんカリ]]をんで自殺じさつしたが、エイヴリングは自殺じさつせずにそのまま彼女かのじょいえった|date=2015ねん1がつ}}。あきらかに[[殺人さつじんざい]]であるが、エイヴリングが逮捕たいほされることはついになかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461-462</ref>。 -->エレノアの生涯しょうがいは『[[ミス・マルクス]]』(日本にっぽん公開こうかい2021ねん)として映画えいがされた<ref>[https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/g37452173/toxic-father-karl-marx-and-his-daughter-eleanor-marx-210904/ マルクスに才能さいのうとケア労働ろうどう搾取さくしゅされた”ちちむすめ”の壮絶そうぜつ最後さいごどく家族かぞくまれて】]Elle, ハースト婦人画報社ふじんがほうしゃ、2021/09/03 </ref>。[[1898ねん]][[3がつ31にち]]に[[遺書いしょ]]をのこして服毒ふくどく自殺じさつ<ref name="Kapp, pp. 696-697">Kapp, ''Eleanor Marx: Volume 2,'' pp. 696-697.</ref>。
 
=== こん外子そとこ ===
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== マルクスぞう ==
東欧とうおう諸国しょこくには共産きょうさん主義しゅぎ政党せいとう独裁どくさい時代じだいてられた複数ふくすうのマルクスぞう現在げんざいまでのこっている。また近年きんねんの2018ねんにも依然いぜんとして中国共産党ちゅうごくきょうさんとう独裁どくさい体制たいせいにある中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくからマルクス生誕せいたん200ねん記念きねんして生誕せいたんであるドイツのトリーアにたいしてたかさ5.5m、おもさ2.3tの彫像ちょうぞう寄贈きぞうされ、除幕じょまくしきには[[欧州おうしゅう委員いいんかい]]の[[ジャン=クロード・ユンケル]]委員いいんちょうや[[ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう]]の[[アンドレア・ナーレス]]党首とうしゅなどが出席しゅっせきしたが<ref>{{Cite web |和書わしょ|date= 2018-05-11|url= httphttps://gendai.ismedia.jpmedia/articles/-/55617?page=2|title= 中国ちゅうごくがドイツにおくった「巨大きょだいマルクスぞう」がだい論争ろんそうこしたワケ|publisher= [[現代げんだいビジネス]]|accessdate=2019-03-29}}</ref>、かつて[[ドイツ共産党きょうさんとう]]の台頭たいとうによってナチスの独裁どくさい東西とうざい分断ぶんだんといったまけ影響えいきょうもあったドイツではマルクスにたいして否定ひていてき見方みかた根強ねづよくあって彫像ちょうぞう設置せっちには批判ひはんていた<ref>{{Cite web |和書わしょ|date= 2018-05-04|url= https://www.sankei.com/article/20180504-5YDZR5FTJFMLRBSMJFJ4FMS3EM/|title= マルクスぞう寄贈きぞう中国ちゅうごくのプロパガンダか? どく議論ぎろん独裁どくさい土台どだい」「どくのあるおくもの」|publisher= [[産経さんけいデジタル|産経さんけいニュース]]|accessdate=2019-10-16}}</ref>。
{{Gallery
|lines=3
|File:МАРКС.jpg|[[ロシア]]・[[モスクワ]]・{{かりリンク|革命かくめい広場ひろば (モスクワ)|label=革命かくめい広場ひろば|ru|Площадь Революции (Москва)}}にあるマルクスぞう
|File:Ulyanovsk pamyatnik K Marxu.jpg|[[ロシア]]・[[ウリヤノフスク]]にあるマルクスぞう
|File:Marx Engels Denkmal Berlin.jpg|[[ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく|ひがしドイツ]]時代じだいてられたマルクスとエンゲルスの銅像どうぞう([[ドイツ]]・[[ベルリン]]の{{かりリンク|マルクス・エンゲルス・フォーラム|de|Marx-Engels-Forum}})
778ぎょう:
*{{Cite book|和書わしょ|author=ハリンリヒ・グムコー,マルクス=レーニン主義しゅぎ研究所けんきゅうじょ|year=1972 |translator=[[土屋つちや保男やすお]],[[松本まつもと洋子ようこ]]|title=フリードリヒ・エンゲルス いち伝記でんき(うえ)、(した)|publisher=[[大月書店おおつきしょてん]]|ref={{harvid|グムコー|1972}}}}
*{{Cite book|和書わしょ|author=小泉こいずみ信三しんぞう|authorlink=小泉こいずみ信三しんぞう|date=1967ねん昭和しょうわ42ねん)|title=小泉こいずみ信三しんぞう全集ぜんしゅうだい7かん〉|publisher=[[文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう]]|asin=B000JBGBO4|ref=小泉こいずみ(1967)}}
* {{CiteCitation| booklast = スパーバー|和書わしょ|author first = ジョナサン・スパーバー|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator=[[ 小原おはらあつし]]  | year =2015 2015a | title = マルクスうえ)(した): あるじゅうきゅう世紀せいきじん生涯しょうがい うえ| publisher = 白水しろみずしゃ |ref={{harvid|スパーバー|2015}}}}
* {{Citation| last = スパーバー| first = ジョナサン|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator=小原おはらあつし| year = 2015b | title = マルクス あるじゅうきゅう世紀せいきじん生涯しょうがい | publisher = 白水しろみずしゃ}}
*{{Cite book|和書わしょ|editor1=外川そとかわつぎおとこ|editor1-link=外川そとかわつぎおとこ|editor2=左近さこんあつし|editor2-link=左近さこんあつし|date=1973ねん昭和しょうわ48ねん)|title=バクーニン著作ちょさくしゅう だい6かん|publisher=[[白水しろみずしゃ]]|asin=B000J9MY6U|ref=外川そとかわ(1973)}}
*{{Cite book|和書わしょ|author=小牧こまきおさむ|authorlink=小牧こまきおさむ|date=1966ねん昭和しょうわ41ねん)|title=マルクス|series=ひと思想しそう20|publisher=[[清水しみず書院しょいん]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧こまき(1966)}}
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== 外部がいぶリンク ==
* {{DDB|Person|118578537}}
* [https://www.marxists.org/archive/marx/index.htm Marx Engels Archive]
* {{青空あおぞら文庫ぶんこ著作ちょさくしゃ|1138|マルクス カール・ハインリッヒ}}
* [https://www.project-archive.org/0/005.html カール・マルクス『経済けいざいがく批判ひはん』「序説じょせつ物質ぶっしつてき生活せいかつ生産せいさん様式ようしき社会しゃかいてき政治せいじてき知的ちてき生活せいかつ過程かてい規定きていする」] - ARCHIVE
* [https://www.project-archive.org/0/071.html 「カール・マルクス葬送そうそう」(1883ねん3がつ17にち)] - ARCHIVE。エンゲルスによるマルクスの追悼ついとう演説えんぜつ
* {{Kotobank|マルクス(Karl Heinrich Marx)}}
 
823 ⟶ 827ぎょう:
{{共産きょうさん主義しゅぎ}}
{{大陸たいりく哲学てつがく}}
{{経済けいざいがく}}
{{Normdaten}}
 
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[[Category:ヴィクトリアあさ人物じんぶつ]]
[[Category:1848ねん革命かくめい人物じんぶつ]]
[[Category:フリードリヒ・シラー大学だいがくイェーナ大学だいがく出身しゅっしん人物じんぶつ]]
[[Category:ベルリン大学だいがく出身しゅっしん人物じんぶつ]]
[[Category:ボン大学だいがく出身しゅっしん人物じんぶつ]]