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'''房州堀'''(ぼうしゅうぼり)とは、[[近世]][[博多]]([[筑前国]]・[[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]])の南縁を画していた[[堀]]の名称として最もよく知られるものである。なお、「房州」とは「安房国」の意で、臼杵鑑続(後述)の受領名「安房守」にちなむとされる。
[[File:Fukuoka and hakata.png|thumb|寛永ごろまでの福岡・博多(推定)]]
==概要==
[[File:博多南縁の堀(近世の実測図による).png|thumb|博多南縁の堀]]
近世の博多は[[環濠都市]]であり、北縁は海、東・西は川、そして南縁は堀によって画されていた。堀は石堂川から鉢の底川(那珂川の支流)に至る、幅約20~30m、長さ約900mの規模のもので、1699年のものと推定される<ref>小林茂ほか『福岡平野の古環境と遺跡立地―環境としての遺跡との共存のために―』(九州大学出版会、1998年)pp.246-7</ref>精密な実測図<ref>福岡県史編纂資料651「福岡御城下絵図」(福岡県立図書館)</ref>によってその形状を知ることができる。その築造時期や築造者は、近世の地誌に言及されるものの、一次史料はなく、また発掘調査の結果も築造時期を断定するに至ってはいない<ref>木島孝之「房州堀は戦国期の産物か Ⅱ」『中世城郭研究』11号(中世城郭研究会、1997年)pp.156-7</ref>。
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