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*十一世の安仁屋里之子親雲上政守は、十世政清の長男。若里之子(従八品)に叙せられるが、二十八歳で死去。
*十二世の与世山親方政輔は、十一世政守の長男。国学筆者(学問に関する書記)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。平等所大屋子見習(判事見習)をつとめ、黄冠に叙せられる。1822年、英国船来航の時、通事をつとめる。後に平等所大屋子足役(判事補佐)、平等所大屋子(判事)をつとめる。1827年、英国船来航の時、再び通事をつとめる。後に「科律(刑法典)」編修役をつとめる。その後、護送船脇筆者(護送船の書記)と唐物方御用係役(礼物出納の係官)に任ぜられる。後に平等所加勢大屋子(判事補助)をつとめる。その後、摂政尚氏浦添王子朝憙(尚元魯、尚真王の三男尚韶威の子孫、浦添朝熹)の御物方大親(財政の行政官)に任ぜられ、当座敷(従五品)を叙せられる。糾華人債中取(華人の役所の事務長)、御近習相付(国王内輪の世話役試補)に任ぜられる。後に平等所大屋子主取(主席判事)をつとめ、座敷(従四品)に叙せられる。御近習役(国王内輪の世話役)に任ぜられる。後に接貢船才府(買取責任者)に任ぜられる。その後、具志頭間切与座地頭職を任ぜられる。名を与世山と改名。後に申口座(従三品)に叙せられる。検使向氏翁長親方朝典の相付(監督官試補)に任ぜられる。後に御所帯係職(租税・国庫出納の責任者)に任ぜられ、紫冠に叙せられる。檄示刑法條目主裁職(役所通達・刑法布告文書の責任者)に任ぜられる。後に南風之平等学校奉行職(南風地区の学校・行政役所の長官)、勘定奉行職(諸役座会計検査の長官)に任ぜられる。その後、向氏具志川王子朝敷(尚弼、[[尚育王]]三男)大親(家令)に任ぜられる。後に南風之平等総横目(南風地区警察長)に任ぜられる。政輔は[[牧志朝忠]](板良敷朝忠)に英語を教えた。1861年、[[宮古島]]讒書事件(前島尻与人(村役人)・波平恵教)の時、平等所大屋子(担当判事)だった。
*十三世の津波古親方政正は、十二世政輔の長男。若里之子(従八品)に叙せられ、官生(留学生)となる。後に黄冠を叙せられる。その後、当座敷(従五品)に叙せられる。国学講談師匠(最高学府の講師)に任ぜられ、座敷(従四品)に叙せられる。系図仮中取(国史・家譜の役所の事務長補佐)、系図中取(国史・家譜の役所の事務長)に任ぜられる。後に高奉行職(田畑・諸知行・唐船出入の点検等の役所の長官)に任ぜられる。その後、講談読上役(主席講師)に任ぜられる。後に御書院当職(国賓を迎え入れる御殿の責任者)に任ぜられる。その後、[[尚泰王]]の侍講官(教授)に任ぜられる。後に佐敷間切津波古地頭職をに任ぜられる。その後、申口吟味役(財政以外の国政の次官)に任ぜられる。後に御所帯方吟味役(租税・国庫出納の役所の次官)、平等之側(司法・首里の土地山林の布告令達の役所の責任者)に任ぜられる。その後、御双紙庫理奉行(城中管掌・褒賞の役所の長官)に任ぜられる。1864年には請封進貢使者として[[清国]]に渡る。また、[[明治維新]]の時、[[琉球王国]]からの東京使者として東京([[明治政府]])に駐在。
*十四世の津波古親雲上政衡は、十三世政正の長男。下庫理小赤頭(下働きする者)をつとめ、御書院小赤頭(下働きする者)、御書院童子御小性(下働きする者)をつとめ、若里之子(従八品)に叙せられる。御書院御小性(下働きする者)をつとめ、黄冠に叙せられる。寺社中取(寺社の役所の副主任)となり当座敷(従五品)に叙せられる。
*十五世の政昭は、十四世政衡の長男。下庫理小赤頭(下働きする者)をつとめる。
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