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== 概要 ==
伝承では[[浦添市|浦添]][[間切]][[大謝名|謝名]]の[[奥間大親]]と伝説上の天女である[[飛衣]](羽衣)の子とされる。生まれた家は極めて貧しかったが、当時強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こした。中山南北二山(南部の南山、北部の北山)との軋轢が甚だしい中、[[牧港]]にて日本の商船より鉄塊を買い取り、農民に農具を与えて農民に助けたことから、浦添按司として人望を集めた<ref>伊波、10P</ref>。
[[英祖王統]]の[[西威]]崩御後、その信望の厚さから推され、[[1350年]]に中山王となった。即位後は、南北二山に対峙するため、経済的基礎を固めるための大改革を行う。貿易館や公倉となる御物城を設置し、[[ルソン|ルソン島]]、[[ジャワ|ジャワ島]]、[[スマトラ]]など東南アジアと貿易し、明や高麗とも交易を開始した。
[[1372年]]、明から[[楊載 (明)|楊載]]が招諭使を送り、それに応じ、弟の[[泰期]]を[[朝貢]]の使者として送り、表を奉り臣を称し、貢物を献上している。このようにして明との交流が開始されたが、[[北山国]]及び[[南山国]]も明に使節を送り、中山・山南・山北の王位に冊封されている。[[英祖王統]]の残党勢力といえる[[読谷山]]按司、[[山北王国]](北山王国ともいう)、[[山南王国]](南山王国とも言う)の間で争いは絶えなかったが、冊封体制の中での三山時代が確定されることとなった。
なお[[朝鮮半島]]の『[[高麗史]]』、『[[李朝実録]]』などによれば、[[高麗]]へ[[1389年]]に玉之を察度王が通交(朝鮮側からは「朝貢」としている)の使者として送り玉之を遣わし、高麗に代わった[[李氏朝鮮]]へも同じく[[1392年]]から朝貢の使者を送っている。この際、[[倭寇]]に捕らえられて来た朝鮮人を本国に送還するとともに幾許かの進物(硫黄、材木、胡椒、ベッコウなど)を献じたとある。また[[1394年]]には、朝鮮へ逃亡したという山南王子[[承察度]]の送還を求めたことが知られる。
また同時期には宮古・八重山からの入貢もこの時期行われるようになった。[[1390年]]、宮古の[[与那覇勢頭豊見親]]は島内統一の際の後見を期待して入貢している。
[[北元]]3代皇帝[[トグス・テムル]]の次男{{仮リンク|ディボヌ|zh|地保奴}}(地保奴)が明の[[朱元璋|洪武帝]]により琉球に配流されたとの記録<ref>『[[球陽|球陽記事]]』巻之一 察度王</ref><ref>『明史』巻215</ref>があるが、その後の行方は不明である。
== 系譜 ==
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