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座標ざひょう: 北緯ほくい58度ど28分ふん00秒びょう 東経とうけい92度ど08分ふん00秒びょう / 北緯ほくい58.46667度ど 東経とうけい92.13333度ど / 58.46667; 92.13333
エニセイスク(Енисейск, Yeniseysk/Eniseisk )はロシア連邦れんぽう、クラスノヤルスク地方ちほうの都市としで、エニセイ川がわの河岸かわぎしに位置いちする。人口じんこうは20,394人にん(2002年ねん)、22,891人にん(1989年ねん)、20,000人にん(1970年ねん)。 1月の平均へいきん気温きおんはマイナス22度どで真冬まふゆの気温きおんは-24~-34℃(-12~-30℉)。7月がつの平均へいきん気温きおんは18度どで真夏まなつの気温きおんは18~30℃(64~86℉)[1]。
エニセイスクは1619年ねん、コサックによりシベリア進出しんしゅつの拠点きょてんのひとつとしてエニセイ川がわ沿岸えんがんに築きずかれた。当時とうじは柵しがらみに囲かこまれ外敵がいてきの攻撃こうげきに備そなえた町まちであった。1635年ねんに町まちとなり、17世紀せいきから18世紀せいきにかけては東ひがしシベリアへの玄関げんかん口こうとしてその植民しょくみん地ち化かの拠点きょてんとなったため「シベリアの町まち々の父ちち」とも呼よばれる。かつてはロシアの金かねの9割わりはエニセイスク近辺きんぺんで採掘さいくつされたほか、東ひがしシベリアの先住民せんじゅうみんから集あつめられた毛皮けがわがモスクワに向むかう通過つうか点てんでもあったため、金きむ・毛皮けがわ交易こうえきで大おおいに繁栄はんえいした。またエニセイスクは17世紀せいきから18世紀せいきにかけてシベリアの宗教しゅうきょうの中心ちゅうしんともなったため多おおくの教会きょうかいが残のこり、ロシア連邦れんぽう政府せいふの世界せかい遺産いさん暫定ざんていリストに登録とうろくされている。
またヨシフ・スターリン時代じだいには、北方ほっぽうのグラグ(収容しゅうよう所しょ)へ送おくられる拘留こうりゅう者しゃたちがエニセイスクで船ふねに乗のせかえられた[2]。
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