有馬ありま 掃部 (ありま かもん)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武士ぶし。日にち野江のえ城じょう主おも・有馬ありま晴信はるのぶの異母弟いぼてい。キリシタン。兄あに・晴信はるのぶとその子こ・直純なおずみに家老がろうとして仕つかえた。
洗礼せんれい名めいはドン・アンドレスというが、甥おい・有馬ありま直純なおずみの棄教時じには既すでに棄教しており[1]、有馬ありま氏しの家臣かしんら主おもだった信者しんじゃの改宗かいしゅうに尽力じんりょくした。慶長けいちょう18年ねん(1613年ねん)には、奉行ぶぎょうとして高橋たかはし主しゅ水みず・林田はやしだ助右衛門すけえもんら棄教を拒否きょひした主要しゅようキリシタン家臣かしんの処刑しょけいにも携たずさわった。
有馬ありま氏し移うつり封ふうの際さいにも同行どうこうし、2年ねん後ごの元和がんわ元年がんねん(1615年ねん)に死去しきょしたという。死しぬ直前ちょくぜんには棄教したことを後悔こうかいしていたとされる(『続ぞく日本にっぽん殉教じゅんきょう録ろく』)。