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糸数城 - Wikipedia

糸数いとかずじょう

沖縄おきなわけん南城なんじょうにあったグスク

糸数いとかずじょう(いとかずぐすく/いとかずじょう)は、沖縄おきなわけん島尻しまじりぐん南城なんじょういとすうにあったグスク(しろあと城跡じょうせきは1972ねん昭和しょうわ47ねん)5がつ15にちくに史跡しせき指定していされている[1]

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糸数いとかずじょう
沖縄おきなわけん
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 不明ふめい
築城ちくじょうねん 不明ふめい
おも改修かいしゅうしゃ 不明ふめい
おも城主じょうしゅ 不明ふめい
はいじょうねん 不明ふめい
遺構いこう 石垣いしがき
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
位置いち 北緯ほくい2609ふん05びょう 東経とうけい12745ふん45びょう / 北緯ほくい26.15139 東経とうけい127.76250 / 26.15139; 127.76250座標ざひょう: 北緯ほくい2609ふん05びょう 東経とうけい12745ふん45びょう / 北緯ほくい26.15139 東経とうけい127.76250 / 26.15139; 127.76250
地図ちず
糸数城の位置(沖縄本島内)
糸数城
糸数いとかずじょう
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概要がいよう

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玉城たまきしろ玉城たまき按司が、そのまもりとして次男じなん大城おおきじょう三男さんなん糸数いとかずじょう派遣はけんし、それぞれ築城ちくじょうさせたといわれている[2]

糸数いとかずじょう東側ひがしがわのぞ三方さんぽう断崖だんがいまたは急斜面きゅうしゃめんで、とく南側みなみがわたか断崖だんがいとなっている[2]東側ひがしがわ玉城たまきしろまで丘陵きゅうりょうじょう平坦へいたんめんとなっており、視界しかいいが防御ぼうぎょ弱点じゃくてんとなるためたか城壁じょうへき正門せいもんもうけられた[2]。その東側ひがしがわ隣接りんせつして蔵屋敷くらやしきあとがあり南村なんそんばれた[2]

この場所ばしょ糸数いとかずじょう築城ちくじょうされるまで根石ねいしグスクがあった場所ばしょで、そのふもとにはれいまつる「根石ねいしじょうたけ」があり糸数いとかず集落しゅうらく村落そんらく祭祀さいしにおいて最初さいしょおがはいしょとなっている[2]

中山なかやまかん』や『中山なかやま』では玉城たまきおう治世ちせいくに分裂ぶんれつし、大里おおさと按司が玉城たまきじょうなどをって山南さんなんおう名乗なのったとあることから、糸数いとかずじょうもその侵攻しんこうけてさんやま鼎立ていりつ時代じだいには山南さんなんおう支配しはいにあったとみられる[2]

落城らくじょう城下じょうか集落しゅうらくはそのまま存続そんぞくしたが、1886ねん明治めいじ19ねん)の天然痘てんねんとう流行りゅうこうにより城跡じょうせき西側にしがわ集落しゅうらく移転いてんした[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 沖縄おきなわとうにおける文化財ぶんかざい状況じょうきょう(40)<玉城たまきむら沖縄おきなわけん。2024ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g 沖縄おきなわけん南城なんじょう教育きょういく委員いいんかい糸数いとかず城跡じょうせき - 蔵屋敷くらやしき地区ちく発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょ (PDF)奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ。2024ねん8がつ23にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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