北越ほくえつゆき

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北越ほくえつゆき(ほくえつせっぷ)は、江戸えど後期こうきにおける越後えちご魚沼うおぬま雪国ゆきぐに生活せいかつ活写かっしゃした書籍しょせきはつへん3かんへん4かんけい2へん7かんゆき結晶けっしょうのスケッチから雪国ゆきぐに風俗ふうぞくらし・方言ほうげん産業さんぎょうたんまで雪国ゆきぐに諸相しょそうが、豊富ほうふ挿絵さしえまじえて多角たかくてきかつ詳細しょうさいしるされており、雪国ゆきぐに百科ひゃっか事典じてんともいうべき資料しりょうてき価値かちつ。著者ちょしゃは、魚沼うおぬまぐん塩沢しおざわちぢみ仲買なかがいしょう質屋しちやいとなんだ鈴木すずき牧之ぼくし1837ねん天保てんぽう8)に江戸えど出版しゅっぱんされると当時とうじのベストセラーとなった。

作品さくひん概要がいよう

本書ほんしょは、はつへんへん大別たいべつされ、さらにはつへんは『まきうえ』『まきなか』『まきした』に、へんは『巻一けんいち』『まき』『まきさん』『まきよん』にそれぞれかれている。1837ねん天保てんぽう8)あきごろはつへん各巻かくかん江戸えど発行はっこうされ、1841ねん天保てんぽう12)11月にへん4かん発売はつばいされた。

はつへんまきうえはまず、ゆき成因せいいんゆき結晶けっしょうのスケッチなど科学かがくてき分析ぶんせきからふでこし、いで江戸えどなどの「暖国だんごく」と雪国ゆきぐにちがいを様々さまざまれいげて説明せつめいしていく。ゆきちゅう洪水こうずいくまゆきちゅうひとたすけた逸話いつわなど、「暖国だんごく」の人々ひとびと興趣きょうしゅさそ内容ないようおお[1]まきなかは、越後えちご魚沼うおぬま名産めいさんひんであったちぢみ(ちぢみ)にかんするはなし中心ちゅうしんとなっている。牧之ぼくし自身じしんちぢみ仲買なかがい商人しょうにんであったため、ちぢみ素材そざい機織はたお方法ほうほうちぢみのさらし、ちぢみ流通りゅうつうなどが詳述しょうじゅつされている。また、信濃しなの国境こっきょうちか秋山あきやまさとげん津南つなんまち)の様子ようすくわしく記載きさいされている。まきしたは、渋海川しぶみがわちんちょうさけかんする考察こうさつ越後えちごつたわる様々さまざまたん山岳さんがく地方ちほう方言ほうげん、など博物学はくぶつがくてき内容ないようとなっている。

へん巻一けんいちは、越後えちご各地かくち案内あんないはじまり、雪国ゆきぐにいちねん正月しょうがつから概説がいせつしていく。まき以下いか雪国ゆきぐにいちねん詳細しょうさい多様たよう逸話いつわ記録きろく考察こうさつによってえがいていく。正月しょうがつ様子ようすからこし、はるからなつうつるところでへんわっている。そのため、なつ以降いこう様子ようすさんへんよんへんとして発刊はっかんする構想こうそうがあったとかんがえられているが、1842ねん牧之ぼくしによりほん作品さくひんへんまでで完結かんけつした。

本書ほんしょ全編ぜんぺんとおして、雪国ゆきぐに生活せいかつが「暖国だんごく」ではまったく想像そうぞうもつかないものであることをなん強調きょうちょうしている。たしかに好事家こうずかめずらしい風習ふうしゅう逸話いつわ数多かずおおせられているが、この作品さくひんのテーマは雪国ゆきぐに奇習きしゅうたん記録きろくすることにとどまらず、雪国ゆきぐに人々ひとびとゆきとのきびしいたたかいにえながら生活せいかつしていること、そして、郷土きょうどのそうした生活せいかつぶりを暖国だんごく人々ひとびとらせたい、というてんもとめられる。本書ほんしょ数多かずおお掲載けいさいされている挿絵さしえも、雪国ゆきぐに様子ようす暖国だんごく人々ひとびとつたえたいがために牧之ぼくし原画げんがえがいたものである(京山きょうざん原画げんが修正しゅうせい加筆かひつして出版しゅっぱんした[2])。以上いじょうてんから、ほん作品さくひんたんなる戯作げさくとしてわすれられることなく、雪国ゆきぐに越後えちご貴重きちょう民俗みんぞく方言ほうげん地理ちり産業さんぎょう史料しりょう位置いちづけられているのである。

出版しゅっぱんまでの経緯けいい

牧之ぼくし最初さいしょ本書ほんしょ出版しゅっぱんしたのは、文化ぶんか年間ねんかんごろ(1800年代ねんだい牧之ぼくし30だいころ)とされている。ちぢみの仲買なかがい商人しょうにんである牧之ぼくし江戸えど機会きかいおおく、何人なんにんかの文化ぶんかじん面識めんしきがあった。田舎いなか住人じゅうにん自分じぶんでは出版しゅっぱん不可能ふかのうかんがえた牧之ぼくしは、知己ちき関係かんけいにあったざい江戸えど文人ぶんじん山東さんとう京伝きょうでん協力きょうりょくした出版しゅっぱんする計画けいかくてた。京伝きょうでん協力きょうりょくてきであったが、前例ぜんれいのない著作ちょさくであるため、費用ひよう問題もんだい出版しゅっぱんける版元はんもとあらわれず、計画けいかく沙汰さたやみとなった。そこで牧之ぼくし曲亭馬琴きょくていばきん相談そうだんし、馬琴ばきん出版しゅっぱん計画けいかくであったが、京伝きょうでんとの関係かんけい悪化あっか懸念けねんして、出版しゅっぱんにはいたらなかった。

出版しゅっぱんをあきらめきれない牧之ぼくしは、1807ねん文化ぶんか4)、大坂おおさかでの出版しゅっぱん目論もくろみ、はなし順調じゅんちょうすすんでいたが、仲介ちゅうかいしゃによってしにもどった。さらに1812ねん文化ぶんか9)、江戸えどでの出版しゅっぱん計画けいかくしたが、おなじく仲介ちゅうかいしゃによって計画けいかく断念だんねんまれた。京伝きょうでん1813ねんぼっすると、牧之ぼくしふたた馬琴ばきん協力きょうりょく依頼いらいした。馬琴ばきん出版しゅっぱん前向まえむきであったが、自身じしん大著たいちょ南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』にりかかっており、なんねん経過けいかしても牧之ぼくし出版しゅっぱん計画けいかくまったすすまなかった。そのうち、京伝きょうでんおとうと山東さんとう京山きょうざん牧之ぼくし協力きょうりょくもうれたが、馬琴ばきん原稿げんこう返却へんきゃくしないため、牧之ぼくし再度さいど執筆しっぴつする羽目はめになった。

1836ねん天保てんぽう7)、出版しゅっぱん準備じゅんびのため、京山きょうやま越後えちご塩沢しおざわ牧之ぼくしもとおとずれた。そしてよく1837ねん天保てんぽう8)、最初さいしょ構想こうそうから30ねんにしてついに『北越ほくえつゆき』が出版しゅっぱんされた。売上うりあげ700える当時とうじだいベストセラーとなり、読者どくしゃ書店しょてん要望ようぼうけて1841ねん天保てんぽう12)にだいへん出版しゅっぱんされた。牧之ぼくし以後いごぞくかんしていたとされるが、よく1842ねん天保てんぽう13)5がつ牧之ぼくしぼっし、へん完結かんけつすることとなった。

牧之ぼくし著作ちょさくではあるが、出版しゅっぱん京山きょうやま加筆かひつ修正しゅうせいしており、そのため「鈴木すずき牧之ぼくしへんせん京山きょうやまじんひゃく刪定」として出版しゅっぱんされている。なかには牧之ぼくし記述きじゅつについて、雪国ゆきぐにらない京山きょうざんが「大袈裟おおげさだ」としてあらためた箇所かしょもあるが、いまでは牧之ぼくし記述きじゅつただしいことがあきらかとなっている[3]。 ともあれ、このしょ版元はんもといくわったが、木版もくはんほん明治めいじまつとしまで出版しゅっぱんされ、活字かつじほんいたっては1936ねん岩波いわなみ文庫ぶんこから出版しゅっぱんされている。

その

南魚沼みなみうおぬま塩沢しおざわにある鈴木すずき牧之ぼくし記念きねんかんには、江戸えど出版しゅっぱんされた『北越ほくえつゆき』が保存ほぞんされている。また、塩沢しおざわ商店しょうてんがい歩道ほどうには、『北越ほくえつゆき挿絵さしえゆき結晶けっしょうスケッチのタイルがられている。

長野ながのオリンピックさいには、外国がいこくじんけに国土庁こくどちょう日本にっぽん雪国ゆきぐに紹介しょうかいするために発行はっこうしたパンフレットは、「『北越ほくえつゆき』の世界せかいから」とサブタイトルがけられた。

脚注きゃくちゅう

  1. ^ 新潟にいがたけんガス紹介しょうかいされている
  2. ^ 豪雪ごうせつ地帯ちたいではあまりられないまつえがかれるなど、修正しゅうせい加筆かひつによって本来ほんらい姿すがたあやまりがしょうじためんもある
  3. ^ 一方いっぽうで18たけやく54m)の積雪せきせつがあったことが紹介しょうかいされるなど、現在げんざい視点してんかられば誇張こちょう推測すいそくされる箇所かしょ若干じゃっかんではあるが散見さんけんされる

参考さんこう書籍しょせき

  • 北越ほくえつゆき』、鈴木すずき牧之ぼくしへんせん京山きょうやまじんひゃく刪定・岡田おかだ武松たけまつ校訂こうてい岩波いわなみ文庫ぶんこISBN 4-00-302261-0

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク