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アステュオコス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

アステュオコスのぞみΑστύοχος 、ラテン文字もじ転記てんき:Astyochos、紀元前きげんぜん5世紀せいきなま没年ぼつねん不明ふめい)はペロポネソス戦争せんそうスパルタ提督ていとくナウアルコス)である。

アステュオコスはケンクレイアイ前任ぜんにんしゃメランクリダスからいで紀元前きげんぜん412ねんにスパルタの提督ていとく任期にんきあきはじまりあきわるいちねん)、すなわペロポネソス同盟どうめい連合れんごう艦隊かんたいそう司令しれいかん任命にんめいされた[1]。そしてアステュオコスは4せき船団せんだんひきいて同盟どうめいこくキオスへとかった。アテナイ艦隊かんたい25せきがキオスとうきたレスボスとうりしたのをると、かれはキオスせん1せきくわえて救援きゅうえんおもむいた。しかし、エレソスたところでレスボスのしゅミュティレネちたのをると、アステュオコスはレスボスのエレソスをアテナイとの同盟どうめいから離反りはんさせ、じゅうそう歩兵ほへいふねからろして陸路りくろアンティッサとメテュムネにおくり、みずからも海路かいろメテュムネへとかった。しかし、レスボスでの戦況せんきょう不利ふりになりはじめるとかれ部隊ぶたいをまとめてキオスにもどった[2]

スパルタじんテリメネスシュラクサイひとヘルモクラテスひきいる連合れんごう艦隊かんたい55せきイアソスわんへの到着とうちゃくアケメネスあさペルシアとスパルタとの同盟どうめい締結ていけつると、アステュオコスはたいアテナイ作戦さくせん再開さいかいした。アステュオコスは20せきひきいてプテレオン攻撃こうげきしたが、攻略こうりゃく失敗しっぱいした。このため、クラゾメナイへとかい、ペルシアのイオニア長官ちょうかんタモスともにアテナイとの同盟どうめいからの離反りはんく。しかし、説得せっとく失敗しっぱいしたため、攻撃こうげき仕掛しかけて占領せんりょうした[3]。レスボスからアテナイとの同盟どうめいからの離反りはんつたえる使節しせつがやってくると、アステュオコスはキオスにもどり、キオスじんとスパルタの将軍しょうぐんペダリトス(エリュトライから500にんじゅうそう歩兵ほへいと5せきふねともなってやってきた)にレスボスへの援軍えんぐん提案ていあんしたが、反対はんたいにあって断念だんねんした[4]。その、アステュオコスはコリントスふね5せきメガラふね6せきヘルミオネふね1せきラコニアふねかず不明ふめい)をひきいてミレトスへ、つづいてイオニアのエリュトライりょうコテュス入港にゅうこうした。しかし、キオスでのエリュトライじん捕虜ほりょ反乱はんらん計画けいかくらされると、アステュオコスはってかえし、容疑ようぎしゃ取調とりしらべをしたのちふたたびミレトスへとかい、ふゆ到着とうちゃくした[5]

同年どうねんにスパルタ(代表だいひょうはテリメネス)とペルシア(代表だいひょうティッサフェルネス)との軍事ぐんじ同盟どうめい更新こうしんされ、テリメネスはアステュオコスに手持てもちの艦隊かんたいわたして帰国きこくした。その一方いっぽうでアステュオコスを環境かんきょう悪化あっかしていた。キオスじんはスパルタの施政しせい不満ふまんいており、またキオスに上陸じょうりくしたアテナイぐんがデルフィニオンを占領せんりょうし、キオスをまもるペダリトスはアステュオコスに救援きゅうえん要請ようせいした。しかし、アステュオコスが救援きゅうえんをよこさなかったため、ペダリトスはスパルタ本国ほんごくにアステュオコス弾劾だんがい手紙てがみいた[6]。このためにスパルタ本国ほんごくはアステュオコスの監督かんとくのためにアンティステネス主席しゅせきとしたスパルタじん幕僚ばくりょう11にんを20せき船団せんだんとも派遣はけんした。幕僚ばくりょうたちには場合ばあいによってはアステュオコスを解任かいにんし、アンティステネスをあらたな提督ていとくえる権限けんげんあたえられていた[7]

幕僚ばくりょうとその船団せんだん27せき(おそらく援軍えんぐんくわえてえた)がカリアカウノス英語えいごばん到着とうちゃくしたというらせをけたアステュオコスはかれらと合流ごうりゅうするためにキオスからカウノスへとかった。かれはその途中とちゅうシュメの海戦かいせんカルミノスひきいるアテナイ艦隊かんたい20せきやぶり、クニドス幕僚ばくりょうとその船団せんだん、さらにペルシアの太守たいしゅティッサフェルネスと合流ごうりゅうした。しかし、幕僚ばくりょう一人ひとりリカスがペルシアとの条約じょうやく文句もんくをつけたため、おこったティッサフェルネスは途中とちゅう自分じぶん任地にんちへとかえった[8]。アステュオコスたちはロドス有力ゆうりょくしゃたちからの内通ないつうけ、ロドスとう全体ぜんたい自分じぶんたちのがわくわえようとして94せき艦隊かんたいとも同地どうちかった。しかし、アテナイ艦隊かんたい到着とうちゃくもあってか、多少たしょう軍資金ぐんしきんただけでかれらは本来ほんらい目的もくてき達成たっせいできずにかえした[9]

その、サモスにいるアテナイの将軍しょうぐんプリュニコスから、かれ政敵せいてきアルキビアデス弾劾だんがい手紙てがみがアステュオコスのもととどく。アルキビアデスは有能ゆうのう将軍しょうぐんだったこともあってか、アステュオコスはアルキビアデスがせるティッサフェルネスのもとかい、アルキビアデスの弾劾だんがいおこなった。そこでアルキビアデスはサモスのアテナイぐんにプリュニコスの背信はいしんらせる手紙てがみき、プリュニコスはふたたびアステュオコスに手紙てがみおくり、たすけをもとめた。しかし、プリュニコスはだいっていた。かれはアルキビアデスの手紙てがみ到着とうちゃくさきんじてスパルタぐんたいしてサモス防備ぼうびかためて人々ひとびとからの信頼しんらいたため、アルキビアデスの手紙てがみとどいてもそれは信用しんようされなかった[10]

紀元前きげんぜん411ねん、キオスがアテナイぐん攻撃こうげきけたため、アステュオコスひきいるペロポネソス連合れんごう艦隊かんたいはキオス救援きゅうえんおもむき、アテナイぐん撃退げきたいする。いでアステュオコスはキオスでふねあつめ、サモス、つづいてミレトスへとむかった。しかし、サモスではなにかをするでもなくぶらでかえった[11]。かねてからのてき上回うわまわ艦隊かんたいゆうしていながら海戦かいせんけるなどの消極しょうきょくてき姿勢しせいフォイニキア艦隊かんたいおくるというティッサフェルネスのそら約束やくそくしんじて待機たいきするなどしていたため、兵士へいしたちのあいだでアステュオコスへの不満ふまんたかまった。このためにアステュオコスは海戦かいせん決意けついし、112せき艦隊かんたいひきいてミュカレへき、陸上りくじょう部隊ぶたいにもミュカレきをめいじた。一方いっぽうミュカレりょうクラウケの82せきのアテナイ艦隊かんたいすうてき不利ふりさとり、サモスへと一旦いったんいた。ペロポネソス連合れんごう艦隊かんたいがミュカレに到着とうちゃくした翌日よくじつ、サモスのアテナイ艦隊かんたいストロンキビデス増援ぞうえん26せき到着とうちゃくした。108せきになったアテナイ艦隊かんたいはアステュオコスに海戦かいせんいどむも、かれおうじなかった[12]。ティッサフェルネスからの資金しきん援助えんじょとどこおり、給料きゅうりょう支払しはらわれなくなったため、兵士へいしのアステュオコスへの不満ふまんはさらにたかまり、海兵かいへいたちは暴動ぼうどうこし、アステュオコスはにかける。その直後ちょくご後任こうにん提督ていとくミンダロス到着とうちゃくすると、アステュオコスは早々そうそう帰国きこくした[13]。そののアステュオコスについては不明ふめいである。

[編集へんしゅう]

  1. ^ トゥキュディデス, VIII. 20
  2. ^ トゥキュディデス, VIII. 23
  3. ^ トゥキュディデス, VIII. 31
  4. ^ トゥキュディデス, VIII. 32
  5. ^ トゥキュディデス, VIII. 33, 36
  6. ^ トゥキュディデス, VIII. 38
  7. ^ トゥキュディデス, VIII. 39
  8. ^ トゥキュディデス, VIII. 41-43
  9. ^ トゥキュディデス, VIII. 44
  10. ^ トゥキュディデス, VIII. 50-51
  11. ^ トゥキュディデス, VIII. 63
  12. ^ トゥキュディデス, VIII. 78-79
  13. ^ トゥキュディデス, VIII. 83-85

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]