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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵だんしゃく(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779ねん11月26にち - 1851ねん12月25にち)は、オスマン帝国ていこくにおけるアルメニアけい外交がいこうかん歴史れきし。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランにいたるモンゴルぞく歴史れきし』(邦題ほうだい:『こうむ古史こし』、『モンゴル帝国ていこく』)の著者ちょしゃとして有名ゆうめいであった。

略歴りゃくれき

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1779ねん11月26にちイスタンブールまれる。

ちちイグナティウス・ムラジャ・ドーソンはアルメニアけいひとで、おなじくイスタンブールにまれ、商人しょうにんであったが、ちちがスウェーデン大使館たいしかん通訳つうやくつとめていたことがえんとなって、ちちいでスウェーデン大使館たいしかん通訳つうやく参事官さんじかんしょくて、1795ねん公使こうしすすみ、オスマン帝国ていこくかんする著作ちょさくのこして1807ねん8がつ27にちフランス他界たかいした。

息子むすこであるコンスタンティン・ムラジャ・ドーソンもスウェーデンの外交がいこうかんとなり、パリ駐在ちゅうざいしたのち1816ねんから1835ねんまでハーグ駐在ちゅうざいのスウェーデン公使こうしとなり、1835ねんベルリン駐在ちゅうざいめいぜられ、1851ねん12月25にち、ベルリンで他界たかいした。

1828ねん男爵だんしゃくじょせられていたが、独身どくしんだったためドーソン男爵だんしゃく爵位しゃくいかれいちだい断絶だんぜつした。

人物じんぶつ

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ドーソンはトルコのアルメニアけいじんであったことにもよるが、語学ごがく堪能かんのうで、文字もじどおりのポリグロットであって、えいふつ独語どくごはもとより、アルメニアトルコペルシアアラビアシリアなど10すうヵ国かこく言語げんごつうじ、自由自在じゆうじざい写本しゃほん読破どくはしたものとみられ、とくにかれはパリの王立おうりつ図書館としょかん現在げんざい国民こくみん図書館としょかん)で『こうむ古史こし』の基本きほん史料しりょうをなすペルシア、アラビア写本しゃほん検索けんさくした。

ただし、今日きょうでは『こうむ古史こし』におけるモンゴルの描写びょうしゃかたよりを批判ひはんされている(モンゴルのホラズム・シャーあさ征服せいふく参照さんしょう)。

著書ちょしょ

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  • 『Des peuples du Caucase et des pays au nord de la Mer Noire et de la Mer Caspienne dans le 10e siècle, ou Voyage d'Abou el-Cassim.(10世紀せいきにおけるコーカサス、黒海こっかいカスピ海かすぴかい北方ほっぽうしょ民族みんぞく、すなわちアブル・カスィムの旅行りょこう)』(パリ、1828ねん
  • 『Histoire des Mongols, depuis Tchinguiz-Khan jusqu'à Timour bey ou Tamerlan.(チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランにいたるモンゴルぞく歴史れきし)』(アムステルダム、1834ねん - 1835ねん

参考さんこう資料しりょう

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