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インドしょう

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イギリスの旗 イギリス行政ぎょうせい機関きかん
インドしょう
India Office
外務省、内務省、植民地省、インド省という4つの官庁が入っていたダウニング街にあった建物(1866年)
外務省がいむしょう内務省ないむしょう植民しょくみんしょう、インドしょうという4つの官庁かんちょうはいっていたダウニングがいにあった建物たてもの(1866ねん
役職やくしょく
インド大臣だいじん 初代しょだいスタンリーきょうエドワード・スタンリー
最後さいごだい5だいリストーウェル伯爵はくしゃくウィリアム・ヘア英語えいごばん
概要がいよう
所在地しょざいち ロンドンダウニングがい
設置せっち 1858ねん8がつ2にち
廃止はいし 1947ねん8がつ14にち
前身ぜんしん インドちょう英語えいごばん
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インドしょうえい: India Office)は、かつて存在そんざいしたイギリス中央ちゅうおう官庁かんちょうひとつ。インド植民しょくみん支配しはいかんする事務じむあつかった。インド大臣だいじん統括とうかつした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

インドを植民しょくみん支配しはいするイギリスひがしインド会社かいしゃ監督かんとくのために1784ねんイギリス首相しゅしょうウィリアム・ピットしょうピット)が創設そうせつしたインドちょう英語えいごばん前身ぜんしんとする。1858ねんインドだい反乱はんらん鎮圧ちんあつされたのをひがしインド会社かいしゃによるインド統治とうちヴィクトリア女王じょおう女王じょおう陛下へいか政府せいふ)による直接ちょくせつ統治とうちえられ、このさいにインドちょうひがしインド会社かいしゃ役員やくいんかい廃止はいしされ、インド大臣だいじんしょくとインドしょう設置せっちされた[1][2]

インド大臣だいじん(インドしょう)とインド総督そうとく(インド総督そうとく)の関係かんけいはインド大臣だいじんがロンドンから命令めいれいはっし、現地げんち派遣はけんされるインド総督そうとくがその命令めいれい実行じっこうすることが建前たてまえだったが、インド総督そうとくはあくまでインド皇帝こうてい(イギリス国王こくおう)の名代なだい(Viceroy)であってインド大臣だいじん代理だいり(Agent)ではないともさだめられていた[3]。そのため現実げんじつにはインド大臣だいじんとインド総督そうとく関係かんけいまったパターンはなく、個々ここ大臣だいじん総督そうとくによっておおきくことなった。だい9だいエルギンはくヴィクター・ブルースのような官僚かんりょうてき人物じんぶつ総督そうとくになるとインド総督そうとくはインド大臣だいじん忠実ちゅうじつ行動こうどうすることがおおかったが(エルギンはくいちにちインドしょう連絡れんらくし、指示しじあおいだといわれる)、初代しょだいカーゾン男爵だんしゃくジョージ・カーゾンのような実力じつりょくしゃ総督そうとくとなった場合ばあいには「インド大臣だいじんはインド総督そうとくちゅうえい大使たいしぎない」と揶揄やゆされるほどかげうすくなることもあった。ただ一般いっぱんてき傾向けいこうとして1870ねんにインドとロンドンのあいだ電信でんしん開通かいつうしたのち、インド大臣だいじんのインド植民しょくみん統治とうちへの影響えいきょうりょくおおきくなったといえる[4]

1937ねんえいりょうインド帝国ていこくからビルマはなされたのにともない、インドしょうべつビルマしょう英語えいごばん設置せっちされた(大臣だいじんはインド大臣だいじんおな人物じんぶつつとつづけ、インド=ビルマ大臣だいじん改名かいめいされた)。しかし1947ねんインドパキスタン独立どくりつしたことでまずインドしょうとインド大臣だいじんのポストは廃止はいしされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 辛島からしまのぼるみなみアジア山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2004ねん(平成へいせい16ねん)。ISBN 978-4634413702 
  • はまうず哲雄てつおだいえい帝国ていこくインド総督そうとく列伝れつでん イギリスはいかにインドを統治とうちしたか』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、1999ねん(平成へいせい11ねん)。ISBN 978-4120029370