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ウィリアム・スミス (辞書じしょ編集へんしゅうしゃ)

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ウィリアム・スミス(辞書じしょ編集へんしゅうしゃ)

サー・ウィリアム・スミス (えい: Sir William Smith1813ねん5がつ20日はつか1893ねん10月7にち)[1]は、イングランド辞典じてん編纂へんさんしゃ。『ギリシア・ローマ伝記でんき神話しんわ辞典じてん』などの編者へんしゃ

若年じゃくねん

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1813ねんインフィールドくに教徒きょうと両親りょうしんのもとにまれた。かれはハックニーでジョン・アレンのマドラス・ハウス・スクールにとおった[2]元々もともと神学しんがくみちはい予定よていであったが、かわりに事務じむ弁護士べんごしのもとで見習みなら修業しゅうぎょうをした。そのひまをぬすんで独学どくがく古典こてんがくおさめ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン入学にゅうがくにはラテン語らてんごギリシア褒賞ほうしょう獲得かくとくした。1830ねんにはグレイ法曹ほうそういん入学にゅうがくしたが、ユニヴァーシティ・カレッジ・スクールにポストをたために法学ほうがくまなぶのを中断ちゅうだんし、古典こてんがくかんする著述ちょじゅつはじめた。

経歴けいれき

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つづいてスミスは辞書じしょ編集へんしゅうてんじた。かれ最初さいしょくわだてた『古代こだいギリシア・ローマ辞典じてん』は1842ねん発表はっぴょうされたが、そのだい部分ぶぶんかれになるものであった。つづいて1849ねんには『ギリシア・ローマ伝記でんき神話しんわ辞典じてん』が発表はっぴょうされた。さらに『ギリシア・ローマ地理ちり辞典じてん[3]が1857ねん発表はっぴょうされたが、この辞典じてん編集へんしゅうには当時とうじ主導しゅどうてき学者がくしゃ参加さんかしていた。

並行へいこうしてかれは1850ねんには初期しょき学生がくせい辞書じしょ公刊こうかんし、1853ねんには学校がっこうでのギリシアおよびラテン語らてんご教育きょういくたすけるためのプリンキピア・シリーズを出版しゅっぱんはじめた。その英語えいご文学ぶんがくへんが13はんかぞえた『歴史れきし文学ぶんがく学習がくしゅう手引てびき』も発表はっぴょうした[4]。ただしかれ自身じしんいたのはギリシアへんであった。最初さいしょかれ著作ちょさく出版しゅっぱんしていた企業きぎょう経営けいえいなんおちいると、かれジョン・マレーによってみずか事業じぎょうおこなうようになった。

マレーはスミスが1855ねん完成かんせいさせた1214ページにおよぶ『フォルチェッリーニとフロイントの著作ちょさくもとづくえい辞典じてん』を出版しゅっぱんした。この辞典じてんはその35年間ねんかんにわたって定期ていきてき再版さいはんされた。この辞典じてんは(紀元前きげんぜん100ねん - 紀元きげん100ねんの)古典こてんラテン語らてんごえて、ルイス・アンド・ショートのような当時とうじほか辞典じてんには収録しゅうろくされていないような項目こうもく数多かずおおふくんでいた[5]

スミスが編集へんしゅうしたうちでもっとも重要じゅうよう書物しょもつはおそらくキリスト教きりすときょうあつかったものである。そのなかには『スミス聖書せいしょ辞典じてん』(1860ねん-1865ねん)、だい執事しつじサミュエル・チータムとのともさく古代こだいキリスト教きりすときょう辞典じてん』(1875ねん-1880ねん)、Henry Waceとのともさく『クリスチャン伝記でんき辞典じてん』(1877ねん-1887ねん)がある。

ジョージ・グローヴとのともさく『アトラス』は1875ねん発表はっぴょうされた[6]。1853ねんから1869ねんまでスミスはロンドン大学だいがく古典こてんがく試験しけんかんつとめ、そのどう大学だいがく評議ひょうぎ委員いいんかい会員かいいんとなった。かれ版権はんけんについて質問しつもんするために委員いいんかい出席しゅっせきし、すう年間ねんかん王室おうしつ文学ぶんがく基金ききん記録きろく事務じむかんつとめた。かれは1854ねんから1855ねんにかけてギボンギゾーミルマンらの草稿そうこう編纂へんさんした。

1867ねんに『Quarterly Review』の編集へんしゅうしゃとなると、かれぬまでそのしょくにあった。

叙勲じょくん死去しきょ

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スミスは市民しみんほう博士はかせ学位がくいオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくダブリン大学だいがくから授与じゅよされ、1892ねん騎士きし叙勲じょくんされた。かれは1893ねん10がつ7にちにロンドンで死去しきょした[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Find A Grave
  2. ^ T.F.T. Baker (Editor) (1995ねん). “Hackney: Education”. A History of the County of Middlesex: Volume 10: Hackney. Institute of Historical Research. 30 October 2012閲覧えつらん
  3. ^ A Dictionary of Greek and Roman Antiquities, by William Smith, William George Smith, Charles Anthon, published by Harper, 1858 [1]
  4. ^ Thomas Budd Shaw: The Student's Manual of English Literature... (London, 1864).
  5. ^ London: Murray; 1855, 1857, 1868 and 1888 editions held by the British Library; Latin–English Dictionary”. ChurchLatin.com. 2010ねん10がつ17にち閲覧えつらん.
  6. ^ R. J. A. Talbert. 1992. "Mapping the classical world: major atlases and map series 1872-1990." Journal of Roman Archaeology 5:5-38.
  7. ^ Retrieved 17 October 2010.
  •  この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Smith, Sir William". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 25 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 270–271.

外部がいぶリンク

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