出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
ファン・ヴァッセナール伯爵 はくしゃく
ユニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール・オブダム伯爵 はくしゃく (Unico Wilhelm rijksgraaf van Wassenaer Obdam , 1692年 ねん 11月2日 にち 、ネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく デルデン Delden - 1766年 ねん 11月9日 にち 、デン・ハーグ [1] )は、オランダ の貴族 きぞく ・アマチュア作曲 さっきょく 家 か 。その作品 さくひん 《コンチェルト・アルモニコ》は、最近 さいきん まで誤 あやま ってジョヴァンニ・ペルゴレージ 作曲 さっきょく と伝 つた えられてきた。
オランダの軍人 ぐんじん ヤコブ・ファン・ヴァッセナール・オブダム (Jacob van Wassenaer Obdam )の子 こ としてデルデンで生 う まれた。同名 どうめい の祖父 そふ ヤコブ・ファン・ヴァッセナール・オブダム (Jacob van Wassenaer Obdam )も軍人 ぐんじん で八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 、英 えい 蘭 らん 戦争 せんそう を戦 そよ い抜 ぬ いた。
ライデン で法学 ほうがく などを学 まな び、1723年 ねん に貴族 きぞく の女性 じょせい と結婚 けっこん し、3人 にん の子 こ をもうけた。1725年 ねん から1740年 ねん の間 あいだ に《コンチェルト・アルモニコ》を作曲 さっきょく するが、貴族 きぞく であったため、自 みずか らの名 な を冠 かん して出版 しゅっぱん することを望 のぞ まなかった。あるいは、自 みずか らの作曲 さっきょく 能力 のうりょく を疑 うたが っていたのかもしれない。結局 けっきょく この作品 さくひん は、1740年 ねん にイタリア 人 ひと ヴァイオリニスト のカルロ・リッチョッティ (Carlo Ricciotti 、1681年 ねん - 1756年 ねん )によって出版 しゅっぱん されたので、当初 とうしょ はリッチョッティが作曲 さっきょく 者 しゃ と看做 みな された。
19世紀 せいき にポーランド の作曲 さっきょく 家 か フランソワ・レッセル(Franciszek Lessel )によって、このコンチェルトはペルゴレージ作曲 さっきょく であるとされた。それというのも、イタリア様式 ようしき のコンチェルトで、ヴェネツィア楽 らく 派 は の三 さん 楽章 がくしょう コンチェルトではなく、ローマ楽 らく 派 は に典型 てんけい 的 てき な四 よん 楽章 がくしょう コンチェルトで構成 こうせい されており、ピエトロ・ロカテッリ などの比較 ひかく になるからというのであった。
しかしながら1979年 ねん に、《コンチェルト・アルモニコ》の6曲 きょく の自筆 じひつ 譜 ふ がトヴィッケル城 じょう (Twickel )の公文書 こうぶんしょ 館 かん で発見 はっけん された。トヴィッケル城 じょう はファン・ヴァッセナール伯爵 はくしゃく の生地 きじ である。タイトルには「'Concerti Armonici'」の表記 ひょうき があった。その筆跡 ひっせき はヴァッセナール本人 ほんにん のものではなかったものの、自筆 じひつ でフランス語 ふらんすご による前書 まえが き(「リッチョッティ氏 し によって出版 しゅっぱん された拙作 せっさく の譜面 ふめん "Partition de mes concerts gravez par le Sr. Ricciotti" 」)が書 か かれてあった。その後 ご アルベルト・デュニング(Albert Dunning )の調査 ちょうさ によって、《コンチェルト・アルモニコ》が間違 まちが いなくファン・ヴァッセナールの作品 さくひん であることが明 あき らかにされた。
ヴァイオリン4部 ぶ 、ヴィオラ、チェロ、通 つう 奏 そう 低音 ていおん による協奏曲 きょうそうきょく 、1740年 ねん 、リッチョッティによって出版 しゅっぱん 。
第 だい 1番 ばん ト長調 とちょうちょう
第 だい 2番 ばん ト長調 とちょうちょう
第 だい 3番 ばん イ長調 いちょうちょう
第 だい 4番 ばん ヘ短調 たんちょう
第 だい 5番 ばん 変 へん ホ長調 ちょうちょう
第 だい 6番 ばん 変 へん ロ長調 ちょうちょう
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た