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カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
カトリーヌ・ド・ブルゴーニュ
Catherine de Bourgogne
オーストリアこう

出生しゅっしょう 1378ねん
ブルゴーニュ公国こうこくモンバール
死去しきょ 1426ねん1がつ26にち
ブルゴーニュ公国こうこくディジョン
埋葬まいそう ブルゴーニュ公国こうこくシャンモル修道院しゅうどういん
配偶はいぐうしゃ オーストリアこうレオポルト4せい
  マクシミリアン・シュマースマン・フォン・ラッポルトシュタイン
家名かめい ヴァロワ=ブルゴーニュ
父親ちちおや ブルゴーニュこうフィリップ2せい
母親ははおや フランドルおんなはくマルグリット3せい
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カトリーヌ・ド・ブルゴーニュCatherine de Bourgogne, 1378ねん - 1426ねん1がつ26にち)は、ブルゴーニュこうフィリップ・ル・アルディとそのつまフランドルおんなはくマルグリット3せいあいだむすめ前方ぜんぽうオーストリアドイツばんおさめるオーストリアこうレオポルト4せいつまとなった。ドイツめいカタリーナ・フォン・ブルグント(Katharina von Burgund)。

生涯しょうがい

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ブルゴーニュ公爵こうしゃく夫妻ふさいだい5次女じじょとしてまれた。長兄ちょうけいジャン・サン・プールはブルゴーニュこうおとうとアントワーヌブラバントこう末弟ばっていフィリップはヌヴェールおよびルテルはくあねマルグリットはバイエルンこうヴィルヘルム2せいつまいもうとマリーはサヴォイアはくアメデオ8せい対立たいりつ教皇きょうこうフェリクス5せい)のつまである。

1393ねん、レオポルト4せい結婚けっこんする。結婚けっこんさいしてカトリーヌはこんドイツばん自由じゆう運営うんえいすることなど、おっとから大幅おおはば自立じりつしてらす権利けんりみとめられた。カトリーヌは両親りょうしん所領しょりょう隣接りんせつするアルザスきょかまえ、まるでブルゴーニュ公爵こうしゃく代官だいかんえるほどに実家じっか利益りえきのために所領しょりょう経営けいえいおこなった。カタリーナのこうした政治せいじ姿勢しせいは、地元じもとアルザスの貴族きぞくたちからは悪感情あくかんじょうをもってられていた。

レオポルト4せいとはあいだ子供こどもいまま1411ねん死別しべつし、カタリーナはなががれていた故郷こきょうかえった。1414ねん、マクシミリアン・シュマースマン・フォン・ラッポルトシュタイン(Maximilian Smaßmann von Rappoltstein, 1450ねんぼつ)と再婚さいこんした。死後しご一族いちぞくねむシャンモル修道院しゅうどういんほうむられた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Brigitte Hamann: Die Habsburger. Ein biographisches Lexikon. Verlag Carl Ueberreuter, Wien, 1988, S. 234f.
  • Constantin von Wurzbach: Habsburg, Katharina von Burgund. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 6. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1860, S. 401.

外部がいぶリンク

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