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カールマン (アウストラシアみやおさむ)

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カールマン
Karlmann
アウストラシアみやおさむ
王国おうこくをカールマンとピピンとのあいだ二分にぶんするちちカール・マルテル
在位ざいい 741ねん - 747ねん

出生しゅっしょう 706/13ねん
死去しきょ 754ねん8がつ17にち
子女しじょ ドローゴ
家名かめい カロリング
父親ちちおや カール・マルテル
母親ははおや クロドトルード
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カールマンKarlmann, 706/13ねん - 754ねん8がつ17にち)は、フランク王国おうこくみやおさむ在職ざいしょく741ねん - 747ねん)。カール・マルテル正妻せいさいクロドトルードの長男ちょうなん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

カール・マルテルには、正妻せいさいとのであるカールマン、ピピン3せいのほかに、側室そくしつスワナヒルドからまれた異母弟いぼていグリフォがいた[1]ちちカール・マルテルは、王国おうこくさんふんし、三子みつご分割ぶんかつ相続そうぞくさせるつもりであった[1]。これにたいし、長子ちょうしのカールマンは、741ねんちち死後しごすぐに異母弟いぼていグリフォをとらえて修道院しゅうどういん幽閉ゆうへいしたうえで、おとうとピピンと会談かいだんし、グリフォの相続そうぞくぶん二人ふたり分割ぶんかつした[1]。その結果けっか、カールマンはアウストラシア部分ぶぶんを、ピピンがネウストリア部分ぶぶんをそれぞれ支配しはいすることになった[2]。また、737ねん以来いらい空位くういであったフランク王座おうざに、キルペリク2せいキルデリク3せいをつけた[3]

しかし、747ねんあき、カールマンは突然とつぜんモンテ・カッシーノ修道院しゅうどういん隠棲いんせいした[4][5]。その理由りゆう不明ふめいである[4]嫡男ちゃくなんのドローゴがいたが、おとうとピピンはその継承けいしょうけんみとめず、フランク王国おうこく全土ぜんど唯一ゆいいつみやおさむとして単独たんどく統治とうちした[5]。そのおとうとピピン3せい751ねんにキルデリク3せい廃位はいいし、国王こくおういた[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 柴田しばた 、p. 156
  2. ^ 瀬原せばら、p. 16-17
  3. ^ 佐藤さとう、p. 16
  4. ^ a b 佐藤さとう、p. 17
  5. ^ a b 五十嵐いがらし、p. 33
  6. ^ 五十嵐いがらし、p. 37

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 柴田しばた三千雄みちお へん世界せかい歴史れきし大系たいけい フランス 1』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1995ねん
  • 佐藤さとう彰一しょういち世界せかいリブレット カール大帝たいてい ヨーロッパのちち山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2013ねん
  • 五十嵐いがらし おさむ地上ちじょうゆめ キリスト教きりすときょう帝国ていこく カール大帝たいていの<ヨーロッパ>』講談社こうだんしゃ、2001ねん
  • せらはら義生よしお 『ドイツ中世ちゅうせい前期ぜんき歴史れきしぞう文理ぶんりかく、2012ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
カール・マルテル
アウストラシアみやおさむ
741ねん - 747ねん
次代じだい
ピピン3せい