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ギドン・サール Gideon Sa'ar גדעון סער |
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生年月日 |
(1966-12-09) 1966年12月9日(57歳) |
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出生地 |
テルアビブ |
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出身校 |
テルアビブ大学 政治学・法学 |
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前職 |
新聞記者、弁護士 |
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所属政党 |
リクード党 |
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公式サイト |
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内閣 |
第2次シャロン内閣(2003年2月~2006年5月) |
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ギドン・サール(Gideon Sa'ar、1966年12月9日 - )は、イスラエルの政治家、国会議員。リクード党に所属しており、教育大臣、内務大臣を務めた経験をもつ。また弁護士の資格をもっている。
ギドン・モーシェ・サレチャンスキーという名でテルアビブに生まれる。母のブルリヤはブハラ系ユダヤ人の子孫にあたり[1]、父シュムエルは1960年代中ごろにアルゼンチンからイスラエルへ帰還したユダヤ人で、小児科医であった。弟と妹が一人ずついる。2歳の時、家族でイスラエル南部のミツペ・ラモンに移住し2年を過ごした後、同じく南部のキブツ・スデー・ボケル(英語版)へ移り住んで5年間を過ごした。その後、再びテルアビブに戻り、現在に至る。父シュムエルはキブツ・スデー・ボケル滞在中、そのキブツの医者として働いた。1982年、ギドンが16歳の時に両親は離婚した。
高校時代、右派政党「テヒヤー(ヘブライ語で復活の意)」を支持し、政治活動を行い、さらには中高生支持者の代表者として選ばれた。
1987年に軍隊に入隊、ゴラニー旅団に従事するも訓練中に負傷し、しばらく情報収集部隊へ回されることとなった。その後、ゴラニー旅団に復帰、退役後も36歳まで予備役に従事した。
軍隊退役後、たった2年間でテルアビブ大学政治学科学士を優秀な成績で修了した。大学中、右派であるにも関わらず、週刊誌「ハオーラム・ハゼ(英語版)」の記者として採用され、政治コラムを担当、ペンネームは「タフテフェット(טפטפת)」だった。その後1年半、新聞社「ハダショット(חדשות)」の新聞記者として、主に政党問題を取り扱った。1993年テレビ局「アルーツ・シュタイム(英語版)」立ち上げに際し、法律分野の新聞記者として、その一端を担った。
その後、テルアビブ大学で法学を学び、1995~1997年に国家法律顧問ミハエル・ベン・ウーリーの助手として、1997~1998年には国家検事エドナー・アルベルのもとで働いた。1999年初め、第一次ネタニヤウ政権の政府秘書に任命され、半年後の選挙敗北による政権交代までその役を担った。
その後、個人弁護士事務所を設立するも、2001年第一次シャロン政権が誕生し、再び政府秘書に任命される。
サールは、第二次インティファーダーに伴って起きたジェニンの戦いやイスラエル軍の「盾の壁作戦(英語版)」に、ミッチェル調査団を送ろうとする試みを防ぐ役目にあった。
2003年第16次国会の選挙で国会議員になり、第二次シャロン政権にて連立政党の援助代表となった。ガザ撤退に反対し、2度役職を辞任するも、シャロンの頼みにより再び帰ってくる。2006年の1月12日、リクード党内選挙で5番目に選ばれ、第17次国会選挙で2度目の国会議員当選を果たした。国会副議長に選ばれ、また2006年5月には女性地位推進委員会の議長に、会設立以来初めての男性として選ばれた。
その後教育大臣、内務大臣を歴任した。
2014年にいったん政治の世界から身を引くも、2017年に復帰を表明。2018年10月、ネタニヤウ首相はサールが次選挙後に首相の座を狙っていると言い、激しく非難する。サールは誤った疑いがかけられていると主張。2019年の選挙直前に両者は和解に至った。この選挙直前に行われたリクード党内選挙ではサールは5番目に選ばれた。