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クリストフ・ド・ボーモン

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クリストフ・ド・ボーモン
パリ大司教だいしきょう
着座ちゃくざ 1746ねん9月19にち
離任りにん 1781ねん12月12にち
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう 1703ねん7がつ26にち
フランス王国おうこくペリゴール、ロックじょう
死去しきょ 1781ねん12月12にち
フランス王国おうこくパリ
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クリストフ・ド・ボーモン・デュ・ルペール(Christophe de Beaumont du Repaire、1703ねん7がつ26にち - 1781ねん12月12にち)は、18世紀せいきフランスの聖職せいしょくしゃ、パリ大司教だいしきょう

生涯しょうがい

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1703ねんだい貴族きぞくとしてペリゴールのロックじょうまれる。1734ねん司祭しさい叙任じょにんされ、1741ねんバイヨンヌ司教しきょう、1745ねんヴィエンヌ大司教だいしきょうて、1746ねんにパリ大司教だいしきょうにんじられる。18世紀せいきフランスのカトリック勢力せいりょくイエズスかい二分にぶんしたジャンセニスム反対はんたい急先鋒きゅうせんぽう一人ひとりで、ジャンセニスムを支持しじする高等法院こうとうほういんはげしく対立たいりつし、1754ねん高等法院こうとうほういんから流罪るざい処分しょぶんけた。

ボーモンは、ジャンセニスムのみならずどう時代じだい哲学てつがくしゃをもはげしく糾弾きゅうだんした。そのおもなものとしては、1758ねんエルヴェシウスの『精神せいしんろん』を批判ひはんする教書きょうしょ[1][2]、1762ねんにはルソーの『エミール』を批判ひはんする教書きょうしょ[3]した。『エミール』にかんして、ボーモンは「自然しぜんほうくつがえキリスト教きりすときょう根底こんてい破壊はかいすることを目的もくてきとしたまわしい教義きょうぎふくむ」と断定だんていしている。

このうち、『エミール』批判ひはんには、翌年よくねんルソー自身じしんが『ジュネーヴ市民しみんジャン=ジャック・ルソーからパリ大司教だいしきょうクリストフ・ド・ボーモンへの手紙てがみ』で反論はんろんしている[4]

1768ねんには、前年ぜんねん出版しゅっぱんされたジャン=フランソワ・マルモンテルの歴史れきし小説しょうせつ『ベリゼール』を糾弾きゅうだんした。

1780ねん教書きょうしょ書簡しょかんなどが2かんにまとめられて出版しゅっぱんされた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 「ジュネーヴ市民しみんJ=J・ルソーちょ『エミール、あるいは教育きょういくについて』とだいする書物しょもつ論難ろんなん内容ないようとするパリ司教しきょう猊下げいか教書きょうしょ」『ルソー全集ぜんしゅうだいななかんpp.547-560 (西川にしかわ長夫ながおわけ白水しろみずしゃ、1982ねん)
  • 「ジュネーヴ市民しみんジャン=ジャック・ルソーからパリ大司教だいしきょうクリストフ・ド・ボーモンへの手紙てがみ」『ルソー全集ぜんしゅうだいななかんpp.437-546 (西川にしかわ長夫ながおやく白水しろみずしゃ、1982ねん)
  • 『Correspondance générale d'Helvétius』だい2かんpp.312-327 (University of Toronto Press、1984ねん)
  • 名誉めいよ快楽かいらく エルヴェシウスの功利こうり主義しゅぎ』pp.44-47 (森村もりむら敏己としみしる法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、1993ねん)

出典しゅってん

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  1. ^ 『Correspondance générale d'Helvétius』だい2かんpp.312-327
  2. ^ 名誉めいよ快楽かいらく エルヴェシウスの功利こうり主義しゅぎ』pp.44-47 (森村もりむら敏己としみちょ)
  3. ^ 「ジュネーヴ市民しみんJ=J・ルソーちょ『エミール、あるいは教育きょういくについて』とだいする書物しょもつ論難ろんなん内容ないようとするパリ司教しきょう猊下げいか教書きょうしょ
  4. ^ 「ジュネーヴ市民しみんジャン=ジャック・ルソーからパリ大司教だいしきょうクリストフ・ド・ボーモンへの手紙てがみ