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ザンクト・フィート(ドイツ語: Sankt Vith ドイツ語: [ˌzaŋkt ˈviːt]、オランダ語: [ˌsaŋkt ˈfɪt]、フランス語: Saint-Vith、ルクセンブルク語: Sankt Väit [ˌzɑŋkt ˈvæːɪ̯t])は、ベルギーのリエージュ州に属する基礎自治体。
Alfersteg、Amelscheid、Andler、Atzerath、Breitfeld、Crombach、Eiterbach、Galhausen、Heuem、 Hinderhausen、Hunnange (Hünningen)、Lommersweiler、Neidingen、Neubrück、Neundorf、Niederemmels、Oberemmels、Recht、Rödgen、 Rodt、Schlierbach、Schoenberg (Schönberg)、Setz、Steinebrück、Wallerode、Weppelerの各町から構成されている。
公用語はドイツ語で、ドイツ語共同体に属する9つの基礎自治体の1つである。
アルデンヌ高原とアイフェル高原の交差する地点に位置する。
日本における地名の表記について
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当地はベルギーのドイツ語公用圏であり、公用読みの発音をカタカナ表記した場合、最も近いものは「ザンクト・フィート」となるが、日本ではフランス語表記に基づいて「サン・ヴィット」(もしくは「サン・ヴィト」等)と表記されていることがある。
日本語で記述されている第2次世界大戦を扱った戦史のうち、特に西暦2000年代以前のものではこの「サン・ヴィット」で表記されていることが多い。
12世紀以来の重要な市場町で、1350年には自治体として特権を授かった。1815年からプロイセン王国のラインラント州に属した。1917年にはリブラモン=バストーニュ=グヴィ線鉄道が敷かれ、重要な鉄道分岐点の地となった。
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約により、ザンクト・フィートはオイペン、マルメディとともにベルギー王国へ併合された。
1940年5月10日、ザンクト・フィートを含むベルギー東部は侵攻してきたドイツ軍に占領され、ドイツ国のオストカントネ(Ostkantone)地方として併合された。1944年12月16日に始まったドイツ軍の冬季攻勢である「ラインの守り」作戦(「バルジの戦い」の呼称で知られる)においてザンクト・フィートは重要な作戦目標となり、連合軍とドイツ軍との間で当地を巡って激しい戦闘が行われた。地上戦の他、市街は爆撃を受け、90%以上の建物が破壊されるか甚大な損傷を受け、廃墟と化した。戦災からの復興には1960年代までかかった。
現在は商業、観光、木材加工業が主産業となっている。
- 道路 - A27のほか、N62、N626、N646、N659、N670、N675、N695
第二次世界大戦後にザンクト・フィートを通る鉄道路線は廃止された。現在、ワロン地域交通公社(fr)運営の、ザンクト・フィート=オイペン間のバス路線がある。