シーサワーンウォン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
シーサワーンウォン
ເຈົ້າມະຫາຊີວິດສີສະຫວ່າງວົງ
ルアンパバーン国王こくおう
ラオス国王こくおう
国王こくおう肖像しょうぞうえがかれた切手きって(1951ねん
在位ざいい 1904ねん3月25にち - 1949ねん7がつ19にち(ルアンパバーン)
1949ねん7がつ19にち - 1959ねん10月29にち(ラオス)
戴冠たいかんしき 1905ねん3月4にち、於王宮おうきゅう

出生しゅっしょう (1885-07-14) 1885ねん7がつ14にち
フランスりょうインドシナ
ルアンパバーン王国おうこくルアンパバーン
死去しきょ (1959-10-29) 1959ねん10月29にち(74さいぼつ
ラオスルアンパバーン
配偶はいぐうしゃ カムウン
子女しじょ サワーンワッタナー
家名かめい ルアンパバー
父親ちちおや サッカリン
母親ははおや トンシー
宗教しゅうきょう 上座かみざ仏教ぶっきょう
テンプレートを表示ひょうじ

シーサワーンウォンラーオ: ເຈົ້າມະຫາຊີວິດສີສະຫວ່າງວົງラテン文字もじ転写てんしゃ: Sisavang Vong1885ねん6月14にち - 1959ねん10月29にち)は、最後さいごルアンパバーン国王こくおう初代しょだいラオス国王こくおう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1904ねんフランスりょうインドシナ構成こうせいするフランス保護ほごこくであったルアンパバーン王国おうこく国王こくおう即位そくい

太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっきの1945ねん3がつ9にち日本にっぽんぐんあかりごう作戦さくせん発動はつどうし、インドシナ駐留ちゅうりゅうするフランスぐん攻撃こうげき駆逐くちくした。当時とうじのラオスは交通こうつう不便ふべん山地さんちであったため、日本にっぽん領事りょうじ渡辺わたなべたいさんラオス王宮おうきゅうにたどりいたのは3がつ20にちごろどう領事りょうじは、国王こくおうにフランスぐん駆逐くちくしたことをつたえたが、シーサワーンウォンは当初とうしょはこれをしんじなかった。しかし、4がつ7にち日本にっぽんぐん部隊ぶたい姿すがたるにいたって、ようや領事りょうじげんしんじ、よく8にちにラオス王国おうこくの「独立どくりつ宣言せんげん」をはっした。日本にっぽん敗戦はいせん独立どくりつ撤回てっかい

その1949ねんふたたラオス王国おうこく建国けんこくし、立憲りっけん君主くんしゅとしてその初代しょだい国王こくおうとなった。

1959ねん崩御ほうぎょサワーンワッタナー国王こくおうとなった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
サッカリン
ルアンパバーン王国おうこく国王こくおう
1904ねん - 1949ねん
次代じだい
国号こくごう変更へんこう
先代せんだい
建国けんこく
ラオス国王こくおう
初代しょだい: 1949ねん - 1959ねん
次代じだい
サワーンワッタナー