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ジェプツンタンパ1せい

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ジェプツンタンパ1せい

ジェプツン・タンパ1せい漢文かんぶんさわぼくみことたんともみ[1]/あきらぬのみことたんともみ[2], 1635ねん - 1723ねん)は、モンゴルの北部ほくぶハルハ本拠ほんきょとして活動かつどうした化身けしんラマ名跡みょうせき初代しょだい法名ほうみょうとしてザナバザル(ジュニャーナヴァジュラ)、ロサンワンボ・ギェンツェンなどがある。

誕生たんじょう化身けしんラマとしての認定にんてい

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ジェプツンタンパ1せいは1635ねんハルハトゥシェート・ハンゴンボドルジとして誕生たんじょう、4さいで戒をうけジュニャーナヴァジュラ(: Jñānavajra)という梵語ぼんごさづけられた。かれたいするモンゴル通称つうしょうのひとつ「ザナバザル」はこの名称めいしょうのモンゴルなまりである。翌年よくねん出家しゅっけしてロサンワンボ・ギェンツェンという法名ほうみょうあらたにけた。1649ねんにチベットに巡礼じゅんれいし、パンチェン・ラマ、エンサ・トゥルクとう師事しじ、1650ねんダライ・ラマ5せいよりチョナン・ターラナータ転生てんせいしゃとしての認定にんていをうけ、1651ねんハルハに帰国きこくした。ここに化身けしんラマの名跡みょうせきジェプツンタンパ成立せいりつした[3][4]

ハルハの内紛ないふん、ガルダンの標的ひょうてき

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ハルハ3のうちもっと西にし位置いちするジャサクト・ハンでは、1662ねんより1667ねんにかけて内紛ないふんしょうじ、多数たすう遊牧民ゆうぼくみんひがしとなりのトゥシェート・ハン避難ひなんした。内紛ないふん収束しゅうそくしたのち、ジャサクト・ハン避難ひなんした遊牧民ゆうぼくみん返還へんかんもとめたが、トゥシェート・ハンおうじず、そのため今度こんどはジャサクト・ハンとトゥシェート・ハンあいだ険悪けんあくとなった[5]

1680ねんなかばにいたり、清朝せいちょうかん熙帝、チベットのダライ・ラマ、オイラト[ちゅう 1]盟主めいしゅでジュンガル首長しゅちょうガルダンらが仲介ちゅうかいし、ジャサクト・ハンとトゥシェート・ハン講和こうわをはかるフレーンビルチェールかいめいが1686ねん開催かいさいされた[6]。このさい、ジェプツンタンパ1せいがダライ・ラマの名代なだいとしてこのかいめい派遣はけんされたガンデン・ティパおなたかさのにすわったけんについて、ガルダンのはげしいいかりをまね[7]

ガルダンは、エンサ・トゥルクの転生てんせいしゃとしてチベットのラサにのぼり、出家しゅっけしてダライ・ラマ5せい師事しじしていたことがあった。ガルダンにとってジェプツンタンパ1せい自分じぶん前世ぜんせい弟子でしにすぎず、それがダライ・ラマの名代なだい対等たいとうったことは、たるダライ・ラマを侮辱ぶじょくしたとったのである[6]

フレーンビルチェールかいめいやぶれ、1687ねん、ジェプツンタンパ1せいあにであるトゥシェート・ハン=チャグンドルジは、ガルダンに救援きゅうえんもとめようとしたジャサクト・ハン=シラを追跡ついせきして殺害さつがい救援きゅうえんにかけつけたガルダンの援軍えんぐんやぶり、指揮しきかんだったガルダンのおとうとドルジジャプも戦死せんしさせた[8]

よく1688ねん、ガルダンは報復ほうふくとして、オイラトぐんひきいてハルハに侵攻しんこうするが、おとうとドルジジャプ殺害さつがい下手人げしゅにんであるトゥシェート・ハンのチャグンドルジと、ダライ・ラマの名代なだい無礼ぶれいをはたらいたジェプツンタンパ1せいわた要求ようきゅうを、戦争せんそう目的もくてきとしてかかげた[9]

ジェプツンタンパ1せいあにチャグンドルジの妻子さいしともない、ひがしとなりチェチェン・ハン領内りょうない避難ひなんしたが、ガルダンぐん一部いちぶがチェチェン・ハン領内りょうない侵入しんにゅうしてきたので、さらに清朝せいちょう勢力せいりょくけんであるみなみモンゴルスニト境界きょうかいまでのがれ、清朝せいちょう保護ほごもとめた。ジェプツンタンパのあにチャグンドルジはトゥシェート・ハン軍勢ぐんぜいひきいて同年どうねん9がつ、オロゴイ・ノールのでガルダンに決戦けっせんいどんだが敗北はいぼく、ハルハ左翼さよく(トゥシェート・ハン、チェチェン・ハン)の人々ひとびとはジェプツンタンパ1せいって清朝せいちょう領内りょうないみ、清朝せいちょう保護ほごもとめた。1690ねん、ガルダンはトゥシェート・ハン=チャグンドルジとジェプツンタンパ1せいわたしを清朝せいちょうかん熙帝もとめたがかん熙帝は拒否きょひ、ガルダンぐん清朝せいちょう勢力せいりょくけんみなみモンゴルに侵入しんにゅうウランプトン清朝せいちょうぐん交戦こうせんしたのち、ハルハにげた。よく1691ねん、ハルハ諸侯しょこう清朝せいちょうへの服従ふくじゅうちかドロンノールかいめい開催かいさいされ、ジェプツンタンパ1せいもこれに参加さんかした[10][11][12]

北京ぺきん滞在たいざい逝去せいきょ

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ドロンノールかいめいののち、ジェプツンタンパ1せいは10ねんあまり北京ぺきん滞在たいざいして活動かつどうし、そののちハルハへ帰還きかんした。1722ねんかん熙帝の死去しきょらせをけてふたた北京ぺきん訪問ほうもんしたさいやまいゆかにつき、よく1723ねんに89さい逝去せいきょした[13]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ジャサクト・ハン西方せいほう位置いちする遊牧民ゆうぼくみん国家こっか

出典しゅってん

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  1. ^ ともえやすし, (かん熙11(1672)ねん). “順治じゅんじ4ねん5がつ5にちだん4143” (漢文かんぶん). あきら皇帝こうてい實錄じつろく. 32. - 
  2. ^ 稻葉いなば, 岩吉いわきち (大正たいしょう3(1914)ねん). “喀爾喀の内訌ないこう (だい35せつ. そとこうむいにしえ併合へいごう)”. 清朝せいちょうちょんふみ. うえ. 早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん. pp. 558-559 
  3. ^ さつ斯欽 1978, pp. 614–621.
  4. ^ さつ斯欽 1978, pp. 113–119.
  5. ^ 宮脇みやわき 1995, pp. 204–206.
  6. ^ a b 宮脇みやわき 1995, p. 206.
  7. ^ 宮脇みやわき 1995, pp. 26, 206.
  8. ^ 宮脇みやわき 1995, pp. 207–208.
  9. ^ 宮脇みやわき 1995, p. 27.
  10. ^ さつ斯欽 1978, pp. 626–628.
  11. ^ 橋本はしもと 1942, pp. 119–120.
  12. ^ 宮脇みやわき 1995, pp. 27–28.
  13. ^ さつ斯欽 1978, pp. 631–633.

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. さつ斯欽 (1978), “こうむ政教せいきょう領袖りょうしゅうあきらぬのみことたんともみあずか西藏にしくら関係かんけい”, こうむあずか西藏にしくら歴史れきし關係かんけい研究けんきゅう, 正中せいちゅうしょきょく, ISBN 957-09-0358-9 
  2. 橋本はしもとひかりたからだいよんしょう こうむいにしえだい喇嘛 だいいちせつ あきらぬのみことよびかつ」『こうむいにしえ喇嘛教らまきょう佛教ぶっきょう公論こうろんしゃ、1942ねん、113-121ぺーじ 
  3. 宮脇みやわき淳子じゅんこ最後さいご遊牧ゆうぼく帝国ていこく―ジューンガル興亡こうぼう講談社こうだんしゃ、1995ねん 

関連かんれん項目こうもく

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