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ジェームズ・ステュアート (初代しょだいマリ伯爵はくしゃく)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代しょだいマリ伯爵はくしゃく(だい5)
ジェームズ・ステュアート
James Stewart
1st Earl of Moray
初代しょだいマリ伯爵はくしゃく
在位ざいい 1562ねん - 1570ねん

称号しょうごう 初代しょだいマリ伯爵はくしゃく初代しょだいアバーネシー=ストラサーンきょう初代しょだいマー伯爵はくしゃく
出生しゅっしょう 1531ねん
死去しきょ 1570ねん1がつ11にち
配偶はいぐうしゃ アン・ケイス
子女しじょ 2だいマリおんなはくエリザベス・ステュアート、アナベル・ステュアート、マーガレット・ステュアート
家名かめい ステュアート
父親ちちおや ジェームズ5せい
母親ははおや マーガレット・アースキン英語えいごばん
役職やくしょく スコットランド摂政せっしょう(1567ねん - 1570ねん
宗教しゅうきょう プロテスタント
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初代しょだいマリ伯爵はくしゃくジェームズ・ステュアート(James Stewart, 1st Earl of Moray,1531ねん - 1570ねん1がつ11にち)は、スコットランド貴族きぞく政治せいじ。スコットランドおうジェームズ5せいの庶長子ちょうし女王じょおうメアリー異母いぼけいにあたる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ち、女王じょおうメアリーの重用じゅうよう[編集へんしゅう]

ジェームズは、ジェームズ5せいとスコットランド貴族きぞくの5だいアースキンきょう英語えいごばんジョン・アースキン英語えいごばんむすめマーガレット・アースキン英語えいごばん息子むすことして1531ねんまれた。しかし、ジェームズ5せい国益こくえきのためメアリー・オブ・ギーズ結婚けっこんすることにした。そのため庶子しょしというあつかいになってしまった。このことが、おそらく野心やしん有能ゆうのうでもあったかれなかで、無念むねんとなって長年ながねんくすぶつづけていたようである。スコットランドに帰国きこくした異母いぼいもうとメアリーに、まった肉親にくしんとしてのしたしみなどかんじていなかったであろうことは、かれ数々かずかず行動こうどう物語ものがたっている。

1557ねん12月のだいいち信仰しんこう盟約めいやく締結ていけつしたプロテスタント貴族きぞく一人ひとりだった[1]

はじめは、セント・アンドルーズ教会きょうかい修道しゅうどう院長いんちょうをしていた。しかし、そのうちにスコットランドの会衆かいしゅうなかちからつようになり、実力じつりょくしゃ一人ひとりとなっていた。おっとのフランスおうフランソワ2せい死後しご、メアリーに帰国きこくすすめたのはジェームズだった。メアリーはジェームズを「親愛しんあいなるおあにさま」とんでふか信頼しんらいし、重用じゅうようするようになった。1561ねん9月6にちにメアリーによってジェームズは枢密すうみつ顧問こもん任命にんめいされる[2]1562ねんなつに、スコットランドの有力ゆうりょく貴族きぞくカトリックのゴードンがメアリーに反乱はんらんこすが、これを鎮圧ちんあつした功績こうせきによって、ゴードンから没収ぼっしゅうしたゆたかなマリの領地りょうちはジェームズのものとなり、以後いごかれはマリはく名乗なのるようになった。かれ枢密院すうみついんおおきな権力けんりょくるうようになった。

メアリーとの対立たいりつ反乱はんらん[編集へんしゅう]

しかし、メアリーがダーンリーきょうヘンリー・ステュアート結婚けっこんしようとすると、マリはく自分じぶん権力けんりょく低下ていかおそれ、イングランド大使たいしランドルフきょうつうじてエリザベス1せい結婚けっこん阻止そし要請ようせいした。エリザベスも、強力きょうりょくなイングランド王位おうい継承けいしょうけんつダーンリーきょうがメアリーと結婚けっこんすることへの懸念けねんから、ダーンリーきょうにすぐさまロンドンへの帰還きかんめいじ、ダーンリーきょうははマーガレット・ダグラスロンドンとう幽閉ゆうへいした。またマリはくも、ダーンリーがちちレノックスはくマシュー・ステュアート共謀きょうぼうして自分じぶん殺害さつがいくわだてていると主張しゅちょうし、メアリーとたびたびあらそいになった。しかし、メアリーとダーンリーきょう1565ねん7がつ29にち結婚けっこんした。マリはくは、ダーンリーきょうがなおも自分じぶんいのちねらっているとして、領地りょうちにひきこもった。

このころ、マリはくはメアリーとダーンリーきょう誘拐ゆうかいし、ダーンリーきょうをスコットランドから追放ついほうし、自分じぶん政権せいけんることをねらっていたというせつがある。1565ねん8がつ1にち、マリはくはエリザベスの援助えんじょけ、メアリーに反乱はんらんこした。メアリーとダーンリーきょう戦場せんじょうおもむいた。結局けっきょく期待きたいしていたイングランドからの援軍えんぐんあらわれず、マリはくはスコットランド南部なんぶボスウェルはくひきいるスコットランドぐん敗北はいぼくし、イングランドに亡命ぼうめいした。

相次あいつ陰謀いんぼう[編集へんしゅう]

1566ねん3月9にち夜中よなかホリールードハウス宮殿きゅうでんでダーンリーきょうやルースベン・モートンなどのスコットランド貴族きぞくたちがんで、メアリーの秘書ひしょのデイヴィッド・リッチオを殺害さつがいした。この事件じけん首謀しゅぼうしゃはマリはくだったというせつがある。たしかにマリはくは、メアリーにかんする数々かずかず陰謀いんぼうによる事件じけんきたとき、いつも現場げんば居合いあわせず、姿すがたしている。こののち自分じぶん寵臣ちょうしんころされたメアリーと、その寵臣ちょうしん殺害さつがいかかわったダーンリーきょうなか冷却れいきゃくしていった。一方いっぽう、マリはくはメアリーから反逆はんぎゃくざいゆるされ、スコットランド帰国きこくかない、ふたた重用じゅうようされることになった。

1567ねん2がつ10日とおか夜中よなか、ダーンリーきょう療養りょうようさきのカーク・オ・フィールド教会きょうかい暗殺あんさつされた。マリはく前日ぜんじつ2がつ9にちよる、メアリーやボスウェルはくやハントリーはくたちと、諸島しょとう司教しきょうのパーティーに出席しゅっせきするはずだったが、直前ちょくぜんになってつま流産りゅうざん理由りゆう姿すがたしている。本当ほんとうつま流産りゅうざんし、かれつまがわったのかどうかはあきらかではない。

ボスウェルはく排除はいじょ[編集へんしゅう]

マリはく暗殺あんさつしたジェームズ・ハミルトン英語えいごばんえがいた絵画かいが

1567ねん4がつ23にちにボスウェルはくによるメアリー誘拐ゆうかい事件じけんこり、5月15にち2人ふたり結婚けっこんした。しかし、6月5にちにははんボスウェル貴族きぞくたちの反乱はんらんこった。メアリーたちは260にん軍勢ぐんぜいひきいて反乱はんらんぐん戦闘せんとう開始かいししたが、6月15にちにはエディンバラ東部とうぶまちカーバリー・ヒルで、ボスウェルはく自由じゆう行動こうどう約束やくそくするという条件じょうけんで、2人ふたり反乱はんらんぐん投降とうこうした。しかしこのとき使者ししゃ、フランス大使たいしデュ・クロはすでに反乱はんらんしゃたちと内通ないつうしており、わざと交渉こうしょう長引ながびかせたというせつがある。

7がつ26にち、ロッホリーヴンじょう幽閉ゆうへいされたメアリーのもとすうめい貴族きぞくがやってきた。かれらは、息子むすこジェームズ王子おうじ(スコットランドとイングランドのおうジェームズ1せい)のために退位たいいすること、ジェームズの教育きょういくすうめい貴族きぞくまかせること、マリはく摂政せっしょう任命にんめいすること、という3つの条件じょうけんしるされた文書ぶんしょ署名しょめい要求ようきゅうした。かれらの一人ひとり、リッチオ殺害さつがい実行じっこうはん一人ひとりだったルースベンに、署名しょめいしないといのち保証ほしょうはしないと脅迫きょうはくされて無理むりやり署名しょめいさせられ、メアリーは退位たいいした。

ボスウェルはく逃走とうそう、ダンバーじょうかい、そこで以前いぜんからマリはく行動こうどう不審ふしんいていた貴族きぞく合流ごうりゅうし、小規模しょうきぼ軍隊ぐんたいができあがった。しかし、枢密院すうみついんではかれ全員ぜんいん反逆はんぎゃくしゃとみなし、これによってボスウェルはく味方みかたした貴族きぞく姿すがたしてしまった。その、かつての味方みかた義兄弟ぎきょうだいのハントリーはくたずねたが協力きょうりょくことわられ、養父ようふでもある大叔父おおおじのマリー司教しきょう援助えんじょで、6せき商船しょうせん漁船ぎょせんひきいて、領地りょうちであるオークニーとうとシェトランド諸島しょとうかったのち、2せきふねでマリはく捜索そうさくからのがれ、ノルウェー漂着ひょうちゃくした。そのデンマークコペンハーゲンうつされ、そこで身柄みがら拘束こうそくされた。

デンマークおうフレゼリク2せいは、ボスウェルの身柄みがらえに、スウェーデンとの戦争せんそうさいにスコットランドが2000にんへい提供ていきょうすることを条件じょうけんとして、マリはく取引とりひきちかけた。マリはくは、兵力へいりょく提供ていきょう承諾しょうだくしたが、ボスウェルをデンマークで処刑しょけいするようもとめた。フレゼリク2せいまよったすえあね婿むこザクセンせんみかどこうアウグスト叔父おじであるホルシュタインこうハンスヴォルフェンビュッテルこうメクレンブルクこうの3にん相談そうだんした。結果けっか事件じけん徹底的てっていてき調査ちょうさし、ボスウェルの国王こくおう暗殺あんさつかんする有罪ゆうざい無罪むざいのあらゆる証拠しょうこ検討けんとうしたうえでデンマークの裁判所さいばんしょまかせるべきという結論けつろんいたった。ボスウェルはくつづきデンマークで拘束こうそくされることになった。

1570ねん1がつ11にち、メアリーを支持しじするボスウェルハウ英語えいごばんハミルトンぞくジェームズ・ハミルトン英語えいごばんによって暗殺あんさつされた[2]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

1562ねん1がつ30にち以下いか爵位しゃくい新規しんきじょされた[3][4]

  • 初代しょだいマリ伯爵はくしゃく (1st Earl of Moray)
    (勅許ちょっきょじょうによるスコットランド貴族きぞく爵位しゃくい)
  • 初代しょだいアバーネシー=ストラサーンきょう (1st Lord Abernethy and Strathdearn)
    (勅許ちょっきょじょうによるスコットランド貴族きぞく爵位しゃくい)

1562ねん2がつ7にちには以下いか爵位しゃくい新規しんきじょされた[3][4]

  • 初代しょだいマー伯爵はくしゃく (1st Earl of Mar)
    (勅許ちょっきょじょうによるスコットランド貴族きぞく爵位しゃくいすう週間しゅうかん返還へんかん)

1566ねん6月22にちにマリはくとアバーネシー=ストラサーンきょうについて男子だんしのない場合ばあい女子じょし相続そうぞくおこなわれる爵位しゃくい (remainder to heirs general) に変更へんこうされる[3]

家族かぞく[編集へんしゅう]

1562ねん2がつ8にちだい3だいマリシャル伯爵はくしゃく英語えいごばんウィリアム・ケイスむすめアン・ケイスと結婚けっこん彼女かのじょとのあいだ以下いかの3もうけた[3][4]

  • だい1長女ちょうじょエリザベス・ステュアート(Elizabeth Stewart, 生年せいねんしょう-1591)2だいマリおんなはく継承けいしょう。2だいドゥーンきょうジェイムズ・ステュアートと結婚けっこん
  • だい2次女じじょアナベル・ステュアート(Annabel Stewart, 生年せいねんしょう-1572ねんごろ)
  • だい3さんじょマーガレット・ステュアート(Margaret Stewart, 生年せいねんしょう-1586ねん)だい9だいエロル伯爵はくしゃくフランシス・ヘイ英語えいごばん結婚けっこん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ もりまもる 1988, p. 280.
  2. ^ a b 松村まつむらたけし & 富田とみた虎男とらお 2000, p. 485.
  3. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Moray, Earl of (S, 1561/2)” (英語えいご). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017ねん11月16にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c Lundy, Darryl. “James Stewart, 1st Earl of Moray” (英語えいご). thepeerage.com. 2017ねん11月9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 松村まつむらたけし富田とみた虎男とらおえいべい辞典じてん研究けんきゅうしゃ、2000ねんISBN 978-4767430478 
  • もりまもる『スコットランド王国おうこく史話しわ大修館書店たいしゅうかんしょてん、1988ねんISBN 978-4469242560 
官職かんしょく
先代せんだい
空席くうせき
(最後さいご在任ざいにんしゃメアリー・オブ・ギーズ)
スコットランド摂政せっしょう英語えいごばん
1567ねん - 1570ねん
次代じだい
だい4だいレノックス伯爵はくしゃく
スコットランドの爵位しゃくい
新設しんせつ 初代しょだいマリ伯爵はくしゃく
1562ねん - 1570ねん
次代じだい
エリザベス・ステュアート