(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ジャン・ユスターシュ - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジャン・ユスターシュ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャン・ユスターシュ
Jean Eustache
生年月日せいねんがっぴ (1938-11-30) 1938ねん11月30にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1981-11-05) 1981ねん11月5にち(42さいぼつ
出生しゅっしょう ジロンドけんペサック
死没しぼつ パリ
国籍こくせき フランスの旗 フランス
 
受賞じゅしょう
カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい
審査しんさいん特別とくべつグランプリ
1973ねんママと娼婦しょうふ
国際こくさい映画えいが批評ひひょう連盟れんめいしょう
1973ねん『ママと娼婦しょうふ
そのしょう
テンプレートを表示ひょうじ

ジャン・ユスターシュJean Eustache1938ねん11月30にち - 1981ねん11月5にち[1])はフランス映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん編集へんしゅう技師ぎしポスト・ヌーヴェルバーグ[2]旗手きしゅとして彗星すいせいのように登場とうじょうし、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーエリック・ロメールらに絶賛ぜっさんされた。その作風さくふう主題しゅだいにより特異とくいなシネアストとして認識にんしきされているが、いまだに研究けんきゅう余地よちおお作家さっかされている。

来歴らいれき人物じんぶつ

[編集へんしゅう]
  • 1938ねんふつジロンドけんペサックまれ。思春期ししゅんきオードけんナルボンヌごす。フィリップ・ガレルによると、父親ちちおや電車でんしゃいんらしい。
  • 1958ねんパリ上京じょうきょうし、シネマテークかよはじめる。当時とうじフランス国鉄こくてつ職員しょくいん。そのころのちのプロデューサー、当時とうじ14さい高校生こうこうせいピエール・コトレル出会であう。アルジェリア戦争せんそうへの徴兵ちょうへい拒否きょひ毒物どくぶつむ。
  • 1960年代ねんだいはじめ、ヌーヴェルヴァーグ監督かんとくたちのもとにあししげくかよい、批評ひひょうはじめる。とはいえ、『カイエ・デュ・シネマにはいちくことはなかった。
  • 1962ねんポール・ヴェキアリ監督かんとく短篇たんぺんLes roses de la vie』の助監督じょかんとくにつき、出演しゅつえんもする。
  • 1963ねんひそかにっていた中編ちゅうへん『わるい仲間なかま』を『カイエ』仲間なかませ、ゴダールらに絶賛ぜっさんされる。つぎさく『サンタクロースのあおい』のためにゴダールは、『男性だんせい女性じょせい』の使用しようフィルムを提供ていきょうし、かれアンナ・カリーナ製作せいさく会社かいしゃアヌーシュカ・フィルム」で製作せいさくすることになる。撮影さつえい監督かんとく前作ぜんさく同様どうようフィリップ・テオディエールであるが、ネストール・アルメンドロス撮影さつえいスタッフにつく。主演しゅえんジャン=ピエール・レオ1966ねん、この2さく中編ちゅうへんをまとめて公開こうかいすることになる。
  • 1968ねん中編ちゅうへんドキュメンタリー『ペサックの薔薇ばら乙女おとめ』を製作せいさく会社かいしゃ「レ・フィルム・リュック・ムレ」しゃムレ監督かんとく会社かいしゃ)で製作せいさく。その1971ねん、ムレの『ブリジット・ブリジット』の編集へんしゅう担当たんとうすることになるのだが、当時とうじのユスターシュは、テレビドキュメンタリーシリーズ『われらの時代じだいのシネアストたち Cinéastes de notre temps』のいちへんジャック・リヴェット演出えんしゅつした『ジャン・ルノワールだい1 Jean Renoir, le Patron I』(1966ねん)や、マルク'O監督かんとくの『アイドルたち』(ビュル・オジェ主演しゅえん1968ねん)の編集へんしゅう技師ぎしとして活躍かつやくし、ゴダール『ウィークエンド』(1967ねん)にも出演しゅつえんしている。
  • 1973ねん長編ちょうへん劇映画げきえいがだいいちさくママと娼婦しょうふ』でだい26かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい審査しんさいん特別とくべつしょう受賞じゅしょうするも、そのはん時代じだいてき作風さくふうからか会場かいじょう観客かんきゃくからはブーイングがこった。どうさくは、ベルナデット・ラフォンとレオが主演しゅえん撮影さつえい監督かんとくピエール・ロム、そしてロメールとバルベ・シュレデール製作せいさく会社かいしゃレ・フィルム・デュ・ローザンジュ」が中心ちゅうしんになって製作せいさく。『カイエ』仲間なかまであるジャン・ドゥーシェアンドレ・テシネ、そしてユスターシュ自身じしん出演しゅつえんしている。この自伝じでんてき映画えいがにおいて、ラフォンのえんじたマリーの実在じつざいするモデル、カトリーヌ・ガルニエはほんさく衣裳いしょうデザインを担当たんとうしていたが、ラッシュフィルムを絶望ぜつぼうのあまり自殺じさつする。
  • 1981ねん11月4にち、43さい誕生たんじょうすう週間しゅうかんまえにパリの自室じしつでピストル自殺じさつした。
  • 生前せいぜんIDHEC教授きょうじゅつとめていた。また、当時とうじ日本にっぽんではホール上映じょうえいのみでごく一部いちぶ作品さくひん熱狂ねっきょうてきれられていたのだが、死後しご20ねん経過けいかしてから、DVD劇場げきじょう公開こうかい気運きうんがたかまり、よくられる映画えいが作家さっかとなった。10さい親友しんゆうフィリップ・ガレルは『あい誕生たんじょう』(1993ねん)をはじめ、たびたびユスターシュの記憶きおく映画えいが反映はんえいさせている。
  • 1992ねん9月15にち、ある新人しんじん監督かんとくによる長編ちょうへん劇映画げきえいがLes Arpenteurs de Montmartre』が公開こうかいされる。監督かんとくはユスターシュの息子むすこのボリス(1960ねん - )、『ナンバー・ゼロ』にも『アリックスの写真しゃしん』にも出演しゅつえんしていた。ちなみに『ナンバー・ゼロ』に主演しゅえんした盲目もうもく老婆ろうばオデット・ロベールはユスターシュの祖母そぼ

作風さくふう

[編集へんしゅう]

ユスターシュの映画えいが理論りろん根幹こんかんには、映画えいが勃興ぼっこうかたれた劇映画げきえいが記録きろく映画えいが境界きょうかいについての考察こうさつがあり、最初さいしょ映画えいが作法さほうリュミエール兄弟きょうだい)にまでかえるべきだというはん現代げんだいてきな、映画えいがのプリミティズムのようなものもかえ実験じっけんされている。そこにはほぼどう時代じだい松本まつもと俊夫としお提唱ていしょうしたネオドキュメンタリズム理論りろんつうじるところはあるものの、ユスターシュにかんしては現実げんじつ社会しゃかいたいしての政治せいじてきなコミットメントの色合いろあいはあまりふくまれていないとうことが出来できる。その理論りろん色濃いろこ体現たいげんといえる作品さくひんとしては「不愉快ふゆかいはなし」がもっと顕著けんちょれいとしてあげられ、この映画えいがではおなうわさばなしを、うわさばなしをしている当人とうにん記録きろくとしてったものと、おなばなし俳優はいゆう台詞せりふとしてあたえてったものとの構成こうせいというたいをとっている。また代表だいひょうさくのひとつ「ママと娼婦しょうふ」では実在じつざいのモデルの口答こうとうをテープに録音ろくおんし、すべてそれのとおりに俳優はいゆうしゃべらせるという演出えんしゅつおこなっている。ほんさくでは映画えいが常套句じょうとうくともえるBGMやアフターレコーディングの手法しゅほうはいされ、すべて現場げんば収録しゅうろくされたおとのみが使つかわれている。

監督かんとく作品さくひん

[編集へんしゅう]

参考さんこう書籍しょせき

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Jean Eustache
  2. ^ 中条ちゅうじょうしょうたいらは『フランス映画えいが誘惑ゆうわく』(集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ 2003ねんpp.213-219でモーリス・ピアラジャック・ドワイヨンら「ポスト・ヌーヴェルバーグ」のまえの「70年代ねんだいじゅんじた作家さっか」として紹介しょうかいしている)。

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]