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ジヴォイン・ミシッチ

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ジヴォイン・ミシッチ
()ウロシュ・プレディッチ

ジヴォイン・ミシッチ(キリル表記ひょうき:Живојин Мишић、ラテン文字もじ表記ひょうき:Živojin Mišić1855ねん1がつ7にち - 1921ねん1がつ7にち)は、セルビアユーゴスラビア軍人ぐんじん元帥げんすい(Vojvoda)。

ストルガニク出身しゅっしん。1871ねんベオグラード軍事ぐんじ学校がっこう教育きょういくけ、歩兵ほへい配属はいぞく。1876ねん戦争せんそうときにコルバル大隊だいたい、1877ねん~1878ねん戦争せんそうだい7歩兵ほへい連隊れんたい中隊ちゅうたい指揮しきした。1885ねんのセルビア・ブルガリア戦争せんそう中隊ちゅうたいちょう大隊だいたいちょう。その参謀さんぼう本部ほんぶ勤務きんむしたのち連隊れんたい歩兵ほへい旅団りょだん指揮しきし、師団しだん司令しれいかんつとめた。1898ねん~1904ねん軍事ぐんじアカデミーの教授きょうじゅとして戦術せんじゅつ講義こうぎした。1903ねん~1907ねん退役たいえき

1907ねん~1912ねん、1913ねん~1914ねん参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょう師団しだん司令しれいかん参謀さんぼう総長そうちょう歴任れきにん。1912ねん~1913ねんバルカン戦争せんそうとき最高さいこう司令しれい参謀さんぼうちょう

1914ねん8がつ動員どういんれい布告ふこくともに、最高さいこう司令しれい参謀さんぼうちょう任命にんめい同年どうねん11がつ15にちだい1ぐん司令しれいかんとなり、ルドニク付近ふきんでオーストリア・ハンガリーぐんたいして勝利しょうりおさめ、てきぐんをセルビア領土りょうどからした。同年どうねん元帥げんすい昇進しょうしん

1915ねん10がつ~12がつ、ドイツぐん、オーストリア・ハンガリーぐんブルガリアぐんにより3方向ほうこうから攻撃こうげきされ、退却たいきゃく余儀よぎなくされる。ミシッチは、残余ざんよ部隊ぶたいコルフ島こるふとう集結しゅうけつさせ、自身じしん治療ちりょうのためフランスにおもむいた。

1916ねん9がつ帰国きこくし、マケドニア戦線せんせん赴任ふにん。1918ねん7がつ1にちから最高さいこう司令しれい参謀さんぼうちょうとなり、1918ねん9がつのブルガリアぐん戦線せんせん突破とっぱ計画けいかく立案りつあんした。

戦後せんごいたるまでセルビア・クロアチア・スロベニア王国おうこくぐん参謀さんぼう総長そうちょうつとめた。