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ダーフィット・バイリー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダーフィット・バイリー
David Bailly
「ヴァニタスに使つかわれる素材そざい自画像じがぞう
マウリッツハイス美術館びじゅつかんぞう
生誕せいたん 1584ねん
ライデン
死没しぼつ 1657ねん
ライデン
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ダーフィット・バイリー(David Bailly、1584ねん1657ねん)はオランダ黄金おうごん時代じだい画家がか一人ひとりである。肖像しょうぞうや「ヴァニタス」をえがいた。

略歴りゃくれき

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ライデンまれた。父親ちちおやフランドル出身しゅっしんカリグラファーでフェンシングの教師きょうしでもあった。版画はんが下絵したえとして父親ちちおや銅版どうはん画家がかのジャック・デ・ヘイン(Jacques de Gheyn)の指導しどうけた。アドリアン・フェルブルフ(Adriaan Verburg)というライデンの画家がか弟子でしになったのち[1]アムステルダムうつ肖像しょうぞう画家がかのコネリス・ファン・デル・フォールト(Cornelis van der Voort)の弟子でしになった。17世紀せいき画家がかたちの伝記でんきのこしたアルノルト・ホウブラーケンによれば、1608ねんふゆから、修行しゅぎょうたびて、フランクフルト、ニュルンベルク、アウグスブルク、ハンブルクをたびし、チロルをえて、ヴェネツィアからローマにたびした。ローマからの帰途きと、5かげつほどヴェネツィアに滞在たいざいし1609ねんふたたびアルプスをえてドイツにはいった。ドイツではブラウンシュヴァイクおおやけらの貴族きぞく王子おうじ肖像しょうぞうえがいた。

1613ねんにオランダに帰国きこくすると、自画像じがぞう弟子でしやライデン大学だいがく教授きょうじゅ肖像しょうぞうえがほか静物せいぶつえがくようになり「ヴァニタス」とばれる頭蓋骨ずがいこつはな蝋燭ろうそくなどをえがいて「人生じんせいのはかなさ」をしめ寓意ぐういえがいた。1648ねんにライデンのひじりルカ組合くみあい組合くみあいちょうになった[2]

弟子でしにはおいハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)やピーテル・ステーンウェイク(Pieter Steenwijck)がいる。

作品さくひん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ David Bailii biography in De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen (1718) by Arnold Houbraken, courtesy of the Digital library for Dutch literature
  2. ^ David Bailly in the RKD