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ティム・デ・クレル

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ティム・デ・クレル
名前なまえ
ラテン文字もじ Tim de Cler
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき オランダの旗 オランダ
生年月日せいねんがっぴ (1978-11-08) 1978ねん11月8にち(45さい
出身しゅっしん ライデン
身長しんちょう 179cm
体重たいじゅう 69kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション DF (LSB)
あし 左足ひだりあし
ユース
オランダの旗 ルグドゥノム
オランダの旗 アヤックス
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1997-2002 オランダの旗 アヤックス 75 (2)
2002-2007 オランダの旗 AZ 157 (4)
2007-2011 オランダの旗 フェイエノールト 87 (1)
2011-2013 キプロスの旗 AEKラルナカ 41 (0)
代表だいひょうれき
2005-2008 オランダの旗 オランダ 17 (0)
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

ティム・デ・クレルTim de Cler, 1978ねん11月8にち - )はオランダライデン出身しゅっしん同国どうこく代表だいひょうもとサッカー選手せんしゅ。ポジションはDF (ひだりサイドバック) 。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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オランダみなみホラントしゅうライデンまれそだったデ・クレルは、おとうとのヘンク (Henk) ととも近所きんじょの15さいから20さい少年しょうねんたちじり、路上ろじょうでサッカーをしていた。

クラブ[編集へんしゅう]

ルグドゥノム[編集へんしゅう]

6さいときにアマチュアのLVVルグドゥノムオランダばん参加さんかし、12さいまでセンダーバックでプレイをしていた。そのアヤックス・アムステルダム関心かんしんしめした結果けっか、デ・クレア自身じしんフェイエノールト熱狂ねっきょうてきサポーターだったにもかかわらず、ライバルの世界せかいてき有名ゆうめい下部かぶ組織そしき入団にゅうだん。デ・クレアは引退いんたいに『自分じぶんはフェイエノールトの人間にんげんなのに、どうしてアヤックスのためにプレーしなければならないんだ?』とアヤックスで罪悪ざいあくかんかんじながらプレーしていたとかたっている[1]

アヤックス[編集へんしゅう]

アヤックスでは当初とうしょひだりサイドハーフでプレイしていたが、ユースのAレベルに到達とうたつしたときひだりサイドバックへとポジションを変更へんこうした。1997ねんはじめてプロ契約けいやく締結ていけつし、クラブのBチームに登録とうろくされ、その、トップチームの練習れんしゅう参加さんかするさいにその一員いちいんつらねた。

1998ねん4がつ23にちヴィレムIIたたかえ(6-1勝利しょうり)でプロはつ出場しゅつじょうかざったものの、2にちのBチームの試合しあい脛骨けいこつ骨折こっせつしたことにより4ヶ月かげつ離脱りだついられた[2]どう1997-98シーズンにクラブはエールディヴィジKNVBカップ2かん達成たっせいし、デ・クレルにとって最初さいしょ公式こうしきせんのタイトルとなったが、怪我けがのために複雑ふくざつなものとなった。1復帰ふっきしたものの、ふたた脛骨けいこつ負傷ふしょうしたことで4ヶ月かげつ離脱りだつ決定けってい。2度目どめ復帰ふっきはすぐさまクラブのトップチームに合流ごうりゅうすると、昨季さくきより出場しゅつじょう機会きかいやし、KNVBカップ2連覇れんぱ貢献こうけんした。

アヤックス在籍ざいせきは、クリスティアン・キヴジョン・オブライエンマクスウェル熾烈しれつなポジションあらそいをひろげながらも一定いってい出場しゅつじょう機会きかいていたが、最後さいごとしとなった2001-02シーズンは、再度さいど2かん達成たっせいするも、ロナルド・クーマン監督かんとくはオブライエンをこのんで起用きようしたことで居場所いばしょうしなった[3]。さらに、よく2002-03シーズンまえのツアーに帯同たいどうゆるされないなど完全かんぜん構想こうそうがいとなったデ・クレルは、あらたな所属しょぞくさきつけるためイングランド1ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCのトライアルに1週間しゅうかん参加さんかする[3]も、印象いんしょうけるのに失敗しっぱいした[4]

AZ[編集へんしゅう]

2002ねんなつAZアルクマールと3ねん契約けいやく締結ていけつ[5]。AZでの1は10わったが、2003ねんコー・アドリアーンセ監督かんとく就任しゅうにんすると事態じたい一変いっぺんしていくことになる。2003-04シーズンは、わずか3でオランダでもヨーロッパでも強豪きょうごうクラブの一員いちいんとしてされるようになるめずらしい期間きかんはじまりだった。UEFAカップ2004-05では、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルアウェーゴールによりなみだをのんだものの、準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつ躍進やくしん好調こうちょうなクラブにあってデ・フライも中心ちゅうしん選手せんしゅ抜擢ばってきされ、契約けいやくを3ねん延長えんちょうしている[6]

AZでの最後さいごとしとなった2006-07シーズンは、アヤックスとPSVアイントホーフェンてんなら最終さいしゅうぶし結果けっか如何いか優勝ゆうしょう可能かのうせいがあり、得失点とくしってん関係かんけいからえばいち優位ゆういっていたが、アヤックスとPSVのりょうクラブが勝利しょうりをしたのにたいし、AZはSBVエクセルシオールやぶれ3でシーズンを終了しゅうりょう。また、KNVBカップ決勝けっしょうせん舞台ぶたいにまでこますすめたが、PKせんすえにアヤックスにやぶれたことで無冠むかん終了しゅうりょうした。

フェイエノールト[編集へんしゅう]

AZから契約けいやく更新こうしん拒否きょひ契約けいやく満了まんりょう退団たいだんすることが決定けっていしたデ・クレルにたいし、昨季さくき王者おうじゃのPSVから獲得かくとくもうんだが、デ・カイプでプレーするというゆめかなえるために2007ねん7がつ1にちにフェイエノールトと4ねん契約けいやく締結ていけつ[7]どうシーズンのクラブはロイ・マカーイケヴィン・ホフラントジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト大型おおがた補強ほきょうをしていくなかで、この契約けいやくベルト・ファン・マルワイク監督かんとくにとって最初さいしょ補強ほきょうとなっている。

1は、ファン・ブロンクホルストが中盤ちゅうばんつとめていたこともあり中心ちゅうしん選手せんしゅとしてプレイ。KNVBカップ決勝けっしょうではローダJC(2-0勝利しょうり)をくだしタイトルを獲得かくとくした。しかし、3の2009-10シーズンになりマリオ・ベーン監督かんとく就任しゅうにんすると構想こうそうがいとなり[8]、ファン・ブロンクホルストがひだりサイドバックにえられ出場しゅつじょう機会きかい激減げきげんした。フェイエノールトでの最後さいごとなった2010-11シーズンは、ファン・ブロンクホルストの現役げんえき引退いんたいからふたた中心ちゅうしん選手せんしゅとしてプレイしていたが、ふゆ中断ちゅうだん期間きかんけからブルーノ・マルティンス・インディってわられた結果けっか、シーズン終了しゅうりょうにクラブから契約けいやく更新こうしんをしないことがいいわたされた[9]

AEKラルナカ[編集へんしゅう]

2011ねん6がつ30にちジョルディ・クライフ監督かんとくひきいるキプロス1AEKラルナカと2ねん契約けいやく締結ていけつ[10]

代表だいひょう[編集へんしゅう]

オランダ代表だいひょうとしては、マルコ・ファン・バステン監督かんとく就任しゅうにん以降いこう定期ていきてき招集しょうしゅうされ、2006 FIFAワールドカップUEFA EURO 2008一員いちいん選出せんしゅつされた。ワールドカップでは、アルゼンチンたたかえ (0-0) のみの出場しゅつじょうとなったが失点しってんおさえることに成功せいこうした。

タイトル[編集へんしゅう]

クラブ[編集へんしゅう]

アヤックス・アムステルダム
フェイエノールト

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ http://www.fr12.nl/nieuws/29455-de-liefde-voor-feyenoord-zit-in-de-familie.html
  2. ^ "Tim de Cler breekt scheenbeen"
  3. ^ a b "De Cler in Baggies trial"
  4. ^ "Megson sends de Cler back to Ajax"
  5. ^ "AZ swoop for De Cler"
  6. ^ "AZ extend with duo"
  7. ^ "Feyenoord capture De Cler"
  8. ^ "De Cler welcomes opportunity"
  9. ^ "Feyenoord set to trim squad"
  10. ^ "De Cler vervolgt carrière op Cyprus"

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]