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ビアンカ・マリア・スフォルツァ

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ビアンカ・マリア・スフォルツァ
Bianca Maria Sforza
サヴォイアおおやけ
神聖しんせいローマ皇后こうごう
ビアンカ・マリア・スフォルツァ(ジョバンニ・アンブロージオ・デ・プレディスナショナル・ギャラリー所蔵しょぞう
在位ざいい サヴォイアおおやけ1474ねん1がつ - 1482ねん9月22にち
ローマ(ドイツ)王妃おうひ1494ねん3月16にち - 1510ねん12月31にち
神聖しんせいローマ皇后こうごう1508ねん2がつ4にち - 1510ねん12月31にち
別称べっしょうごう オーストリア大公たいこう

出生しゅっしょう 1472ねん4がつ5にち
ミラノ公国こうこくパヴィーア
死去しきょ (1510-12-31) 1510ねん12月31にち(38さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
チロルはくりょうインスブルック
埋葬まいそう 神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
チロルはくりょう、シュタムス
結婚けっこん 1474ねん1がつ6にち
1494ねん3月16にち ハル
配偶はいぐうしゃ サヴォイアこうフィリベルト1せい
  神聖しんせいローマ皇帝こうていマクシミリアン1せい
家名かめい スフォルツァ
父親ちちおや ミラノこうガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
母親ははおや ボナ・ディ・サヴォイア
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ビアンカ・マリア・スフォルツァ(Bianca Maria Sforza, 1472ねん4がつ5にち - 1510ねん12月31にち)は、神聖しんせいローマ皇帝こうていマクシミリアン1せい皇后こうごう、2度目どめつまスフォルツァ出身しゅっしん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ミラノこうガレアッツォ・マリーア・スフォルツァボナ・ディ・サヴォイア長女ちょうじょとしてミラノ公国こうこく都市としパヴィーアまれた。

1474ねん1がつサヴォイアこうフィリベルト1せいと2さい結婚けっこんしたが、1482ねん死別しべつしミラノに帰国きこくした。

1493ねん8がつ神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ3せい崩御ほうぎょし、その後継こうけいしゃたるローマおうマクシミリアンは、莫大ばくだい持参じさんきんをもたらすビアンカとの再婚さいこん決意けついした。結婚けっこんにより、多額たがく現金げんきん傭兵ようへいやとい、イタリア方面ほうめんへの進出しんしゅつ可能かのうとなることで、ローマで法王ほうおうにより戴冠たいかんすること[注釈ちゅうしゃく 1]目的もくてきであった[1]

一方いっぽうのスフォルツァがわも、王族おうぞく血縁けつえんになることで、みずからの地位ちいたかめようとした[2]

同年どうねん11がつ20日はつか、ビアンカのあにジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと、あに後見人こうけんにんで「イル・モーロ」の通称つうしょうられる叔父おじルドヴィーコ・スフォルツァが、マクシミリアンがわ結婚けっこん契約けいやく[3]同月どうげつまつにはマクシミリアンの従兄じゅうけいクリストフ・フォン・バーデンとミラノで代理だいり結婚けっこんおこなった。ミラノでの結婚けっこんとそれにつづうたげは、絢爛けんらん豪華ごうかなものであった[4]

シュトリーゲル(1505~1510ねんごろ

しかし、同年どうねん12がつ、クリストフ・フォン・バーデンとアイテルフリッツ・フォン・ツォレルンドイツばんしたがえ、厳冬げんとうアルプス山脈あるぷすさんみゃく北上ほくじょうしてチロル地方ちほうかうたびは、みじめなものであった[4]二人ふたりウィーンのマクシミリアンに、「ビアンカの容姿ようし性格せいかくく、マクシミリアンのす」むね報告ほうこくした[4]週間しゅうかんきょうたびえたビアンカは、老齢ろうれいオーストリア大公たいこうジークムント(ジギスムント)に出迎でむかえられるが、花婿はなむこマクシミリアンはあらわれず、落胆らくたんする[5]

1494ねん3がつ16にちいたって、マクシミリアン1せい結婚けっこんした。結婚けっこん宴席えんせき招待しょうたいされた帝国ていこく諸侯しょこう出席しゅっせきせず、身分みぶんちがいの結婚けっこん反発はんぱつしめした。

はる到来とうらいし、マクシミリアンは先妻せんさいマリー同様どうように、ビアンカを狩猟しゅりょうつが、ビアンカは狩猟しゅりょう自然しぜん関心かんしんしめさなかった[6]。また、マリーのとき同様どうよう言語げんごつうじない夫婦ふうふだった[注釈ちゅうしゃく 2]が、マクシミリアンがイタリア習得しゅうとくしたのにたいし、ビアンカはドイツまなもなく、多忙たぼうのマクシミリアンは言語げんごおしえるひまもなかった[6]。さらに、ビアンカのにん体質たいしつ判明はんめいした[7]

こうしてマクシミリアンはまった関心かんしんしめさなくなり、1510ねん12月31にち、ビアンカはインスブルック死去しきょした。マクシミリアン自身じしんは、1511ねん9がつ18にちに、むすめマルグリットてた書簡しょかんに「わたし二度にど結婚けっこんしたりしない。はだかおんなれることはい」とみとめた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ オスマン・ハプスブルク戦争せんそう英語えいごばん最中さいちゅうであり、異教徒いきょうととの対決たいけつにあたり、宗教しゅうきょうてき権威けんいることは、歴代れきだいローマおうゆめであった。
  2. ^ マリーとはたがいに言語げんごおしい、円満えんまん夫婦ふうふとなっていった

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 江村えむらひろし中世ちゅうせい最後さいご騎士きし 皇帝こうていマクシミリアン1せいでん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1987ねん3がつISBN 978-412001561-8 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]