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ピーター・マンツ

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ピーター・マンツ(Peter Munz、1921ねん5がつ12にち - 2006ねん10がつ14にち)は、ニュージーランド哲学てつがくしゃ歴史れきしヴィクトリア大学だいがくウェリントン教授きょうじゅで、カール・ポパールートヴィヒ・ウィトゲンシュタインからおも影響えいきょうけていた[1]。マンツは、ポパーとウィトゲンシュタインの両方りょうほうから指導しどうけた2人ふたり人物じんぶつのうちの1人ひとりである[2]

若年じゃくねん[編集へんしゅう]

1921ねんドイツケムニッツまれ、ドイツ、スイス、イタリアでそだった。マンツの家系かけいユダヤじんであり、イタリアでファシズム、ドイツでナチズム台頭たいとうしたため、マンツとかれ母親ははおや姉妹しまいニュージーランド移民いみんした。一家いっかは1940ねんクライストチャーチ到着とうちゃくした[1]

その、マンツはカンタベリー大学だいがく入学にゅうがくし、ドイツ歴史れきしがく哲学てつがくまなんだ。かれ哲学てつがく担当たんとう教員きょういんはナチス政権せいけんからのがれてヨーロッパからニュージーランドに移住いじゅうしていたカール・ポパーだった。かれらはしたしい友人ゆうじんになった[1]

1944ねんにカンタベリー大学だいがく卒業そつぎょうしたのち、マンツはイギリスのケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくでPh.D.を取得しゅとくした。ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくではルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインしたおしえをけた[3]

学者がくしゃとしての仕事しごと[編集へんしゅう]

ニュージーランドに帰国きこくしたマンツは、ヴィクトリア大学だいがくウェリントンしょくて、中世ちゅうせい、17世紀せいきフランス、フランス革命かくめい専門せんもんとして教鞭きょうべんった。マンツは中世ちゅうせいかんする著作ちょさく出版しゅっぱんし、ドイツ、イタリアから英語えいごやく翻訳ほんやくとしても活動かつどうした[1]

思想しそう[編集へんしゅう]

2004ねん、マンツはニュージーランド議会ぎかいほう秩序ちつじょ特別とくべつ委員いいんかい出席しゅっせきし、双方そうほう合意ごういもとづく近親きんしん相姦そうかん合法ごうほうするべきであるとろんじた。マンツは「近親きんしん相姦そうかん禁止きんし旧石器時代きゅうせっきじだい初期しょきからいまいたるまでつづいているが、現代げんだい市民しみん社会しゃかいでは時代遅じだいおくれの禁制きんせいである」とべた[4]

マンツはユダヤじんとしてイスラエル度々たびたび批判ひはんしている[4]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d Price, Russell (2007ねん3がつ11にち). “Obituary: Peter Munz”. The Guardian. https://www.theguardian.com/news/2007/mar/12/obituaries.mainsection 
  2. ^ Edmunds, D. and Eidenow, J. Wittgenstein's Poker: The Story of a Ten-Minute Argument Between Two Great Philosophers, 2001, page 13.
  3. ^ Obituary - Peter Munz”. New Zealand Books. 2019ねん9がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ a b “Academic takes on incest taboo”. (2004ねん5がつ21にち). https://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=3567929 2019ねん9がつ16にち閲覧えつらん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]