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フランツ・エルトマン (ザクセン=ラウエンブルクこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランツ・エルトマン
Franz Erdmann
ザクセン=ラウエンブルクおおやけ
在位ざいい 1665ねん - 1666ねん

出生しゅっしょう (1629-02-25) 1629ねん2がつ25にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ザクセン=ラウエンブルクおおやけりょう、トイジンク(トウジム)
死去しきょ (1666-07-30) 1666ねん7がつ30にち(37さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ザクセン=ラウエンブルクおおやけりょう、シュヴァルツェンベーク
配偶はいぐうしゃ ジビッラ・ヘートヴィヒ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク
家名かめい アスカーニエン
父親ちちおや ザクセン=ラウエンブルクおおやけユリウス・ハインリヒ
母親ははおや エリーザベト・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク
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フランツ・エルトマン(Franz Erdmann, 1629ねん2がつ25にち - 1666ねん7がつ30にち)は、ザクセン=ラウエンブルクおおやけ在位ざいい1665ねん - 1666ねん)。

生涯しょうがい

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フランツ・エルトマンは、ザクセン=ラウエンブルクおおやけユリウス・ハインリヒ(1586ねん - 1665ねん)と、ブランデンブルクせんみかどこうヨハン・ゲオルクむすめヤヌシュ・ラジヴィウ未亡人みぼうじんのエリザベート・ゾフィー(1589ねん - 1629ねん)とのあいだ長男ちょうなんとしてまれた。ルター教育きょういくそだてられたが、父親ちちおやはカトリックに改宗かいしゅうしていた。

さんじゅうねん戦争せんそうにおいて、フランツ・エルトマンはたいポーランドせんでスウェーデンぐん少将しょうしょうとして活躍かつやくし、たいフランスせんでは帝国ていこくぐん元帥げんすいとして活躍かつやくした。

1654ねん、フランツ・エルトマンは伯父おじザクセン=ラウエンブルクこうアウグストのむすめジビッラ・ヘートヴィヒ(1625ねん - 1703ねん)と結婚けっこんした。同年どうねんにグロース・グレーナウにフュルステンホーフ宮殿きゅうでんてさせ[1]のちにこの場所ばしょ造幣局ぞうへいきょく印刷所いんさつしょ設置せっちし、そこにきょかま[2]せいヴィレハト教会きょうかいあたらしい説教せっきょうだん公爵こうしゃくのためのせきをつくった[3]

1665ねんちちのちいでザクセン=ラウエンブルクこうとなったが、それから1ねんたたずに死去しきょした。治世ちせいあいだ、1665ねんリューベック職人しょくにん反乱はんらん発生はっせいし、ラウエンブルクおおやけりょうにもひろがり、魔女まじょりが処刑しょけい増加ぞうかとともに激化げきかした。「Der Fortwuchernde」というで、「みのりをむすかい」の会員かいいんとしてみとめられた。

フランツ・エルトマンには子供こどもがいなかったため、異母弟いぼていユリウス・フランツ公爵こうしゃくいだ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Burgen und Schlösser im Landkreis Herzogtum Lauenburg”. 2009ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ Die Geschichte Groß Grönaus”. 2005ねん1がつ28にち閲覧えつらん
  3. ^ Historische Fotos: Kunstgegenstände”. 2022ねん8がつ2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Peter von Kobbe: Geschichte und Landesbeschreibung des Herzogthums Lauenburg, Band 3, Harro von Hirschheydt, 1837, S. 70 ff.
  • Johann Samuel Ersch: Allgemeine Encyclopädie der Wissenschaften und Künste in alphabetischer Folge, Band 48, J. f. Gleditsch, 1848, S. 91 f. (Digitalisat)
先代せんだい
ユリウス・ハインリヒ
ザクセン=ラウエンブルクこう
1665ねん - 1666ねん
次代じだい
ユリウス・フランツ